第百段 一遍会「掲示板」(平成二十一年神無月十月)に日録を掲載せしこと。  

10月31日(土)
11月に子規事典編集会議で報告を予定している愛媛県令「岩村高俊」と松山中学校第三代校長「西河通徹」小伝を和田克司氏に送る。HP「一遍会」の更改を済ます。
午後、座敷の松の剪定完了、10月中に予定通り拙宅の松3本を「散髪」した達成感は、「来年もまた」という挑戦を決意した次第。やれやれ。
【→和田克司氏】
「岩村高俊」「西河通徹」についての草稿をお送り致します。司馬遼太郎の岩村人物観は無視しました。
井手会長から『井手系譜』を拝借して一読しました。旧藩主と家臣の関係が文体からもありありと察せられ大変興味がありました。「井手正雄」も「大野トウ吉」も自分の不利益な部分はカットしておりますが、頭取就任期間はズレておりますので矛盾はしておりません。栄松社の経営方針をめぐって両者の対立があり<井手は藩主側、大野は経営側>、大野が銀行を志向し、井手の守ろうとした「栄松社」は「栄松合資会社」として再生するも最終的には「清算」するというプロセスです。
尚、「栄松社社長 井手正隣」の決定的なミスの原本は『伊予銀行史』でした。これを基に県史」も「市史」も多くの郷土史も記述しております。伊予銀行に調査を依頼しましたが「原本なし」という回答でした。・・・と、云うわけで、伊予銀行での調査発掘は断念しました。愛媛新聞のアーカイブもありますが、マイクロフィルムでの調査は視力と根気のある若手に任さざるを得ません。
個人的には楽しませてもらいましたが、コラムにもならない物語になりました。ご報告まで。
10月30日(金)
HP「一遍会」の11月度更改に取り掛かる。「子規さん俳句」鑑賞を掲載した。恒例の戯れ句は「ブランド著てブランド買ひ居る巴里の秋 子規もどき」とした。『井手系譜』は幕末から明治初期にかけて忠良な家臣の藩主への仕えかたが克明に記録されている貴重な資料である。興味ある裏話が展開する。
午後、座敷の松の剪定に取り掛かる。『伊予史談』355号<小特集 伊予戦国史研究の現在>入手。
10月29日(木)
井手康夫・松山子規会会長と道後温泉駅前の喫茶店で落ち合う。明治初年松山藩主久松家の寄金により設立した「栄松社」の初代頭取である井手正雄の曾孫に当たる。井手家の貴重な「系図」である伊予史談会編『井手系譜』を借用する。伊予銀行広報室からは「栄松社資料無し」の報告を受ける。「栄松社頭取・井手正隣」なる重大なミスを犯したのが『伊予銀行史』であることを当事者が知らないとは・・・
子規博物館懸垂幕で「11月度子規さん俳句」を確認する。「毛布着て毛布買ひ居る小春かな」(明治35年1月)の鑑賞文を執筆する。
午後から表庭の松の剪定を完了する。今週末には残り一本の松の剪定が終われば庭の雑木の剪定に移る。さすがに疲れる。ビール一本でうたた寝する。
【研究メモ】
井手正雄が明治11年5月に栄松社の頭取から専務になっている。昇格か降格か不明であるが、明治13年に大野トウ吉は頭取を退任している。会社内のトラブルがあったか・・・
10月28日(水)
石野弥栄・愛媛大学講師「承久の乱前後の河野氏について―鎌倉政権との関わり―」のレジュメをベースに史資料の吟味検証に入る。明春宝厳寺で講話する「宝厳寺の大位牌〜一遍を支えた従兄弟たち」の河野家系譜の補強に役立てたい。併行して越智(新居)氏菩提寺観念寺の『観念寺文書』(景浦勉編)を読み始める。
午後、表庭の松の剪定、高所作業のみで半日かかる。村上空山堂主(椿湯サミット)の「空無我堂写経会展」の案内あり(11月3日〜万翠荘)。
10月27日(火)
一遍会平成22年度上半期(4月〜9月)講師のラインアップ纏まる。前園実知雄(法蓮寺住持・、橿原考古学研究所<古代>)、圓増治之(愛媛大学教授<哲学>)、石野弥栄(愛媛大学講師<中世>)、小沼大八(愛媛大学名誉教授<宗教哲学>)、今村威(一遍会理事<文学>)、杉野祥一(一遍会理事<宗教学>)。下半期は平田玲子(宗教美術家)、大本敬久(県歴史文化博物館専門研究員<民俗学>)、犬伏武彦(東雲短大教授<建築学>)、三好恭治(一遍会理事<一遍学>)を予定。特別講師として竹田美喜子規博物館館長と交渉中。
月1回の奥道後ホテルの昼食バイキング&ジャングル温泉でリフレッシュ。菊花展が開催中で見物する。『おくどうごメール』(57号)に白州次郎が当時佐世保重工業社長であった奥道後の坪内社長を極秘裏に訪ね、逗子の米軍弾薬庫を佐世保に移動することを取り決めた経緯を掲載。
NHK教育「フジコ(ヘミング) あるピアニストの軌跡」(1999年)を見る。彼女が祖国日本で奇蹟のデビューを果すきっかけとなった歴史的ドキュメントである。
10月26日(月)
「松山発子規事典」原稿執筆。愛媛県令「岩村高俊」の県内業績リストと松山中学校第三代校長「西河通徹」の「新聞社経歴」を取り纏める。司馬遼太郎の世界と違い過ぎるのでいささか当惑気味ではある。
HP『鐘紡春秋』(第二十三章)に「45年ぶりの再会〜導入主事から「鐘紡<カネボウ>39年会」の友へのメッセージ〜」を掲載する。公民館図書館で『ゴッホの遺言〜原作に隠された自殺の真相』(小林英樹)、『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』(永井ふさ子)貸し出し。
10月25日(日)
県図書館で「栄松社社長(頭取)」について徹底的に調査する。『伊予銀行史』をベースにした県史・市史共に「社長(頭取)=井手正隣」と誤記している。「社長(頭取)=井手正雄<真棹>」は県史(人物編)と昭和9年発刊の『伊予の銀行物語』(大野香月)の二書。大野トウ吉頭取は大野の『自叙伝』のみ。伊予銀行に照会中であり回答を待って次の調査段階に進みたい。栄松社に関する論文は何処に眠っているのか・・・
午後、北条ふるさと館で開催された「第19回河野氏関係交流会」に一時間かけて出席する。
@狼煙(のろし:狼の糞を燃やす)<鹿島・恵良山・雌甲山・宅並山>
A薙刀&水軍太鼓(北条高校)
B記念講演 石野弥栄・愛媛大学講師「承久の乱前後の河野氏について―鎌倉政権との関わり―」
このテーマは一遍の視点からも興味があり、貴重な史資料の提示に深謝したい。じっくり分析していきたい。それにしても講義は難解であり何人が理解できたことやら・・・
河野別府の「柳原バス停」を利用したが@中江藤樹先生立志之地<碑>A柳原館址<碑>B柳原地名誕生之碑C雪雀酒造などあり。河野氏発祥の地である北条の今後の研究の資として風早歴史文化研究会編著『風早探訪―北条市の文化財―』『河野氏ゆかりの地をゆく』購入。
10月24日(土)
「松山発子規事典」用小伝「岩村高俊」執筆開始。司馬遼太郎『坂の上の雲』では酷評されている人物であるが客観的に記述したい。『戻橋堂主人自伝』に付されている「年表」から高俊の経歴を追っていく。愛媛県令(知事)当時の事績は県資料を中心に纏める予定。
午後、県図書館で調査研究。『伊予史談』中心に論文に目を通す。特に村上節太郎(愛媛大学教授)の当家関連論文は7年ほど探していた研究だけに有難かった。
@景浦稚桃「福沢諭吉と伊予の文化」
A三宅千代二「明治初期県政を支配した高知県人」
B高須賀康生「明治前期の愛媛県政〜岩村高俊から関新平へ〜」
C井上要「岩村愛媛県令自伝」
D大野釣月「我が父を語る」
E村上節太郎「イヨカンの由来と栽培地域」など
県美術館での「言霊コンサート 城山公園オータムフェスティバル2009」(沢田知可子・サスケ)を聴く。フィナーレは中村時広市長を真ん中に「我が町で」の大合唱。小・中学校の「竹馬の友」である井上誠一夫妻・八塚豪・藤原孝君に連続して出会う。心豊かな一日となった。
10月23日(金)
「松山発子規事典」用小伝記載人物について「伊予史談論文索引」(創刊号〜300号)をチェックする。県図書館で該当論文すべてに目を通し完璧を期したい。「大野トウ吉」関連で伊予銀行に「栄松社」に関する資料を照会する。銀行合併時の基本資料を開示してもらえば一件落着になるのだが・・・
午後、木の根の撤去作業と座敷の庭の整美作業を始める。数日を要する予定。一遍会11月例会<土佐国巡察>の締め切りを前に辞退、参加と連絡が交錯する。なんとか20名は確保したいのだが・・・
【⇒伊予銀行】
栄松社の頭取の件(ご照会)
ご高承の通り、栄松社は明治八年旧藩主久松家の出資をもって設立された金融機関で、第五十二国立銀行、伊予合同銀行を経て今日の伊予銀行に吸収されました。
貴行で保存されておられる資料の中に「栄松社」に関する基本資料があればご教示いただきたくお願い申し上げます。
ご許可があれば早速お伺いして直接ご説明、ご依頼申し上げます。何分とも、宜しくお願い申し上げます。参考までに栄松社の頭取を記載した主要文献を下記致します。 
@『松山市史』3巻−P168
(明治)八年には温泉郡に「栄松社」(社長 井手正隣)が資本金五万円で旧藩主久松家の出資をもって設立されている。栄松社はその後、栄松合資会社となり、三九年に第五十二国立銀行に合併される。
A『伊予偉人録』P306  【井手真棹(正雄)】
明治八年旧藩主久松家の金融機関栄松社の創設あるや其の頭取となり後これを五十二銀行に合併するまで経営主宰すること二十有余年。
B『大野トウ吉翁行状』P98〜99  【大野トウ吉】大野銀行創始者
略年譜(景浦直孝<稚桃>編)「明治八年乙亥 三十二歳 栄松社頭取となる。」「明治十三年庚辰 三十七歳 此年栄松社頭取を辞す」
10月22日(木)
「松山発子規事典」用小伝「西河通徹」執筆開始。彼の自伝「鬼城自叙伝」、評伝「自由民権運動と明治木鐸的言論人の軌跡―西河通徹の言論活動」、慶應関係資料と過去に発表して拙論で資料的には問題はなさそう。西河通徹の祖父が歌人「梅庵」であることを知る人は親族以外なかろう。西河家の墓の所在が目下不明である。10以上の新聞社を「渡り歩いた」ことの事由も検討の余地あり。
午後、亭庭の松の残りを剪定。松の剪定は一日一本とはよく言ったものだ。プロはプロ並みに、アマチュアはアマチュア並みに出来栄えは別として時間は一緒ということか。
【紙魚メモ】
明治15年、秋田県湯沢市に「麗沢舎」とい英学塾が出来ている。
地元の意欲ある青年たちが民権運動の影響を受け、英国式の憲法、法律、議会政治等を講義を受け世界の大勢や東洋の平和についても学ぼうとするもので、山脇文太郎と言う地元の資産家が経費を出し明治21年まで3人の教師から指導を受けている。東北の片田舎の青年たちは英語を学びかつその文化を知ろうとした情熱はたいしたものである。最初の教師は愛媛県出身の西川通徹という人である。地元の記録では西川は故あって故郷に帰ったとあるが、調べてみると彼は松山中学校の校長に赴任している。このころ松山中学校には正岡子規が入学している。何はともあれ私塾でありながら、西欧の文化を学び、ここから政治や実業家として優れた人材を輩出している。順位を上げるために英語検定の試験準備をさせる昨今の教育とは違い明治人の気概を感じる。
From Dewanokuni  昔「出羽の国」といわれた地方からの発信・雑録ノート
10月21日(水)
大野トウ吉の調査で経済人であるとともに書を善くし歌人でもあることが判明する。発掘し顕彰する価値が出てきた。一遍会員の江刺氏に奥州江刺の河野通信墳墓についての私見を取り纏めて報告する。聖戒は江刺まで出掛けたのか否か、情報は他阿真教から入手可能であった筈。
午後、亭庭の松の剪定。
【⇒和田克司氏】
「大野トウ吉」は号が「同人」「幸槌」の歌人との記載あり。福沢諭吉には結びつきませんが、逆に伊予の歌人や井手正夫と結びつく可能性が「発見」できそうです。
【⇒梅谷繁樹師】
この度は、金井清光先生追悼『一遍聖絵と時衆』をご恵投いただき有難うございました。一読して・・・ ともいかぬ高名な先生がたの論考だけに、秋の夜長にじっくり読ませていただきます。樋口州男氏ご指摘の江戸氏、河野氏、一遍・真教、武蔵国石浜の文脈は、鎌倉武士の通行保証下での一遍遊行の視点で「一遍聖絵」を再読しておりますので貴重なヒントを頂きました。お蔭様でWEBを通して全国からメールをいただくようになりました。お寺と檀家がWEBを通して結ばれるというネットづくりが未来の布教の一形態かなと愚考しております。
10月20日(火)
松山子規会10月例会並びに編集会議資料の整理と復習。和田克司氏と往復書簡。午後、松山東高校同期会に出席。参加者は50名(男23名、女27名)で、うち関西3名(福永修身・高瀬光一、山岡七生)東京1名(宮島弘子)広島1名(磨恵子)。二年ぶりの参加となったが、大川治会長の再選、大野致・樋口加壽子副会長の年度幹事兼任が決まる。福永・高瀬とは旧交を温め、上阪時連絡を取り合うことにした。二次会に出席し、福永君の大阪行き深夜バスをバスを見送り23時帰宅する。「友ありて良し、青春ありて良し、語らいありて良し、酒ありて良し。」である。
【⇒和田克司氏】
@「草間時福周辺の人びと」は「県史料」を縦糸にして、大学・人物を横糸にして取り纏めは可能ですが、慶應の調査研究でも慶應図書館で一週間かかりました。在阪・在京の「卒業生」で「研究者」と評価されている人物でないと該当大学での貴重資料の閲読は無理と判断します。再検討をお願い致します。
A「大野?吉周辺の人びと」は栄松社に関する先行研究論文か、栄松社設立趣意書を「発見」できれば、取り纏めは容易です。松山大学の資料に期待したいのですが・・・
【和田克司氏⇒】
栄松社については探索が難しいと存じますが、井手正雄の動向自体が、栄松社の栄枯盛衰と関わると思います。栄松社には、子規の母方の一族が全部関わります。大原家、岸家、歌原家、さらには藤野家もかわるかも知れません。徐々にで、お願いいたします。
10月19日(月)
松山子規会10月例会出席。例会講師平岡英氏(子規会理事)で「『ホトトギス』と子規・虚子」。俳誌『ホトトギス』の創刊号から虚子の没した第62巻第4号(昭和34年)までの子規・虚子の交流と軋轢、虚子の独自路線、子規への帰着まどの経緯を詳細に取り纏めてある。秀作である。
編集会議では編集スタッフの報告が相続いた。小生も3本のレポートを報告、和田克司編集委員長から数点の要望あり、検討を約す。
@草間時福:松山藩英学所<小林小太郎>―松山英学所<草間時福>の位置付けと教員・卒業生の動向(進学<帝大・慶應・同志社・海外&国内留学ほか>・職業)明治25年まで
A和久正辰:著作一覧
B大野?吉:1)栄松社詳細<井手系図> 2)記簿・理財コンテンツ 3)松山藩町方組織 4)府中屋念斎―砂土手
C福沢諭吉・大野?吉の俳句
D松山容子と大野家
【研究メモ】
承久の乱により河野通信以下の本流は処断されるが恩賞地を与えられた鎌倉武士が連鎖的にリストに上がる。未開拓分野である。一遍生誕地との関連あるか。
江戸氏・・・温泉郡・風早郡(砂川博『一遍聖絵と時衆』)
多賀谷氏・・周布郡北条郷地頭(山内譲『中世瀬戸内海の湊と海賊』)
金子氏・・・新居郡地頭<江戸期・道後温泉明王院・修験道場>(『道後三好氏系図』)
宇都宮氏・・伊予国守護(『吾妻鏡』)
三好氏・・・阿波国守護<小笠原氏・細川氏>(今谷明『戦国三好一族』)
【メモ・・大野?吉関連】
1960年(昭和35)『琴姫七変化』『旅がらすくれないお仙』、1971年(昭和46)主演していた『めくらのお市』シリーズの原作者である棚下照生(田中照生)と結婚、人気絶頂の最中に芸能界を引退した。1970年代のボンカレーのCMおよびホーロー看板でも知られる。
10月18日(日)
「湯築城歴史塾」(子規博物館)受講。講師は友澤明氏(小松温芳図書館学芸員・日本甲冑武具研究保存会評議委員)で「伊予国の武具甲冑」についての講話である。武具甲冑を通して歴史を考えることになるのだが、武具甲冑は「骨董的交換価値」に左右されるだけに学術的な評価は混沌としているようだ。
@大山祇神社所蔵の武具は国宝・重文の8割以上との「通説」があるが、国宝では17領に対して4領、重文は128領に対して47領で35%であること。
A評判の「鶴姫の甲冑」は事実と異なる。小型で胸部に膨らみがあるが、胴丸は肩から吊るすので胸部のポイントは錯覚であること。
B実戦では遠距離からの殺傷(弓矢)を狙ったので甲冑の刀傷跡は少ない。騎馬上の武将の勝敗で戦闘の勝敗は決まるので雑兵の着衣は軽装であったこと。
道後公園で「四国(志国)はちはち祭」開催。「讃岐うどん」を食べて踊り見物(阿波踊り・金比羅船々・よさこい踊り・野球拳など)。エベントの密度が薄く早々に退散す。帰途「山草展」を見る。目下上映中の太宰治作品に刺激を受けて「ヴィヨンの妻」「桜桃」を読む。
10月17日(土)
早朝、義安寺墓参。シキミは異常なく生き生きしている。一週間の日記、書簡類の整理。午後、県図書館で「大野?吉」に関する資料収集。お姫様女優であった松山容子と大野家と関係は、個人情報になるので割愛する。
県美術館「ルートヴィッヒ美術館所蔵・ピカソと20世紀美術の巨匠たち」。ピカソ・マチスも数点出品されておりじっくりと鑑賞。愛媛堂で「松山市年表」と「ふるさと坂本」を購入。「年表」は「松山市史料集」第13巻の抜刷であるがハンディーなので愛用したい。梅谷繁樹師から『一遍聖絵と時衆』(『時衆文化』第20号 金井清光先生追悼号)寄贈。「河野道有妻が江戸重長の子忠重の娘」<樋口州男論文>は大収穫。
【メモ・・大野?吉関連】
松山容子:昭和12年(1937)11月30日生れ。本名・田中曠子(旧姓・出井)。愛媛県松山市出身。大野銀行大野悌頭取の下(現・県生活文化センター)で育つ。詳細不明。愛媛県立松山南高等学校卒。NHK松山放送局入局後、『アサヒグラフ』の表紙モデルを経て松竹の映画女優に転身。1960年(昭和35)『琴姫七変化』『旅がらすくれないお仙』『めくらのお市』シリーズ。
10月16日(金)
岩村高俊自伝『戻橋堂自伝』、門奈直樹『民衆ジャーナリズムの研究』<自由民権運動と明治の木鐸言論人の軌跡〜西河通徹の言論活動>のメモ書き。両書とも考証が確かで「年表」をベースに自己弁護的記述を割愛すれば、「小伝」としては11月初旬には取り纏めは可能と判断した。岩村高俊自伝の「年表」は伊予史談会高須賀康正会長ほかが担当で正鵠である。HP「熟田津今昔」に「小林小太郎周辺の伊予人」シリーズとして@草間時福A大野イ同吉B和久正辰を掲載した。今後10名ほどの小伝を執筆しておきたい。
午後からは座敷と亭庭の整美作業。
10月15日(木)
昨日(14日)入手した奥州江刺(河野通信墳墓)に関する資料閲読。午後、座敷庭の整美作業。
【→江刺氏】
お手渡しいただいた北上市・江刺郷に関する論考に目を通しました。知らない点が多く勉強させていただきました。ただ地方史の研究の宿命ですが、河野通信や河野氏に関する説明は不十分で間違いの箇所も散在しています。「聖塚」の記述は地元の研究だけに信頼に値するものと考えます。今回、初めて「聖塚」は発掘調査していないことを知りました。堀をめぐらし塚を造っての墳墓であり「高貴の人の墓」であることは100%正当ですが、高貴な人=河野通信と断定するには今ひとつ資料不足かなとも思います。岩手県教育委員会編『岩手県の指定文化財』(1982)でも一遍の墳墓と「同定」せず、あくまで「比定」としています。
10月14日(水)
平成22年から一遍会の新講師である前園実知雄氏(橿原考古学研究所、奈良芸術大学教授)4月度例会での講話を依頼する。会員の江刺氏来訪。奥州江刺の河野通信墓を訪問した記録と司東真雄氏ほか論文多数の提供を受ける。県図書館・市図書館で岩村高俊自伝『戻橋堂自伝』、西河通徹自伝『鬼城自叙伝』貸し出し。11月度の「子規事典編集会議」で両氏の小伝を発表予定。
夕、第一回伊丹十三賞受賞の糸井重里氏のトークを聴く。(コミセンホール)。話相手は『芸術新潮』松家編集長。まさに「言葉の海」である。同氏の「ほぼ日刊イトイ新聞」の愛読者は200万人とか。【http://www.1101.com/index.html】
【研究メモ】
@河野通信墳墓発見の報告(司東真雄『岩手の歴史論集U 中世文化』1987)
A「中世のおける江刺の仏教」(佐藤孝一『江刺の歴史物語』1985)
B「河野通信の配流及び苅田氏の和賀郡への下向」(北上市『北上の歴史』1987)
C「北上市内の中世墳墓二例・聖塚と葛西壇の測量図」(北上市立博物館『研究報告書第12号』1999)
D「下門岡ひじり塚」(岩手県教育委員会『岩手県の指定文化財』1982)
E江刺市教育委員会『江刺の仏像』1985
平成22年から一遍会の新講師である前園実知雄氏(橿原考古学研究所、奈良芸術大学教授)4月度例会での講話を依頼する。
会員の江刺氏来訪。奥州江刺の河野通信墓を訪問した記録と司東真雄氏ほか論文多数の提供を受ける。
県図書館・市図書館で岩村高俊自伝『戻橋堂自伝』、西河通徹自伝『鬼城自叙伝』貸し出し。11月度の「子規事典編集会議」で両氏の小伝を発表予定。
夕、第一回伊丹十三賞受賞の糸井重里氏のトークを聴く。(コミセンホール)。話相手は『芸術新潮』松家編集長。まさに「言葉の海」である。
同氏の「ほぼ日刊イトイ新聞」の愛読者は200万人とか。【http://www.1101.com/index.html】
【研究メモ】
@河野通信墳墓発見の報告(司東真雄『岩手の歴史論集U 中世文化』1987)
A「中世のおける江刺の仏教」(佐藤孝一『江刺の歴史物語』1985)
B「河野通信の配流及び苅田氏の和賀郡への下向」(北上市『北上の歴史』1987)
C「北上市内の中世墳墓二例・聖塚と葛西壇の測量図」(北上市立博物館『研究報告書第12号』1999)
D「下門岡ひじり塚」(岩手県教育委員会『岩手県の指定文化財』1982)
E江刺市教育委員会『江刺の仏像』1985
10月13日(火)
早朝、義安寺墓参。秋彼岸に供えた樒は葉の艶もよく、週一回水を替えれば来春まで保てそうである。「一遍会インターネット会員」宛定期便発送。「松山発子規事典」用小伝(@草間時福A和久正辰B大野トウ吉最終原稿、印刷。
午後、「六時屋フォーラム」出席。井上誠一君から道後小学校六年当時の新任教師山田先生を囲んで、広島でクラス会を開催した由報告あり。悪ガキのA君、K君、U君はともに亡くなったが、K君は成人してから先生を慕いお付き合いを続けた。夫人が遺影を持って参加し、一見して先生が亡き崩れた所からクラス会が始まった由。U君は40台にニーチェに出会い、「その筋」から足を洗い正業についた。小生のごとき浅読みでのニーチェ理解でなく、心底からツアラトストラと「対話」したのだろうか。60年前の悪ガキは腕力もありスカートめくりのベテランで級長選挙も差配したが、他のクラスの「侵略」には断固抵抗したリーダーであったことを懐かしく思い出す。冥福を祈る。
10月12日(月)
@一遍最後の賦算と他阿真教の最初の賦算である淡河殿夫妻の系譜とA「天徳寺・河野系図」と「宝厳寺・河野系図」の比較研究に入る。午後、サンシャインシネマで「火天の城」を鑑賞。過日竹中道具工具館で詳細な竹中版予告編を見ており、考証は竹中が全面協力しておりリアリティーは十分。原作:山本兼一、監督:田中光敏、主演:西田敏行(熱田の宮番匠・岡部又右衛門)。大竹しのぶ(妻)、椎名桔平(信長)、緒形直人はじめ豪華キャスト。原作を読んでいないので細部では物語の展開での理解に苦しむところもあったが・・・女忍者(水野美紀)の登場、恋人石田卓也の忽然とした帰還など。
【→田中弘道氏】
当時(時代が確定できませんが)伊予国で流布していた河野家の系譜が背景にあるのでしょうから、「天徳寺河野系図」と「宝厳寺河野系図」が同根の可能性は否定できないと思います。類書にも当たってみます。「馨誉上人イコール四十二代尊任上人」は宗門では絶対に認めないと思います。尊任は佐渡生まれで大願寺で修業しています。もっとも尊任上人は内子願成寺を禅宗から時宗に戻した実力者ですから、伊予国賦算時に河野通景の末裔である馨誉上人が随伴し宝厳寺に系図を奉納したというストーリーはあり得るのでは・・・
【→上南光雄氏】
奥州江刺への賦算も同様ですが、「時衆の遊行を支えた背後には鎌倉武士団がある」というのが、小生の持論です。 武士とて死を意識して戦場に出ますから、平時には農民以上に「安穏」を望んだのだろうと思います。鎌倉武士団にとって領地を離れることは不可能ですから、領地で時衆を引き留め、法要を通して「安穏」を得ると共に、領民には「踊念仏」の娯楽と「南無阿弥陀仏」の法悦を感じさせ領地内の治安を安定させたのかなあとも考えています。(ビジネスマン的発想ですが・・・)鎌倉武士団でもある淡河殿とニ祖他阿真教&時衆の出会いと保護について取り纏めてみたいと思います。
10月11日(日)
伊予史談会10月例会出席(県生活文化センター)高須賀会長、二神同監事ほかと情報交換をする。
1)「西条藩の手漉き和紙の歴史」 加藤正典氏
2)「松山藩の海防策と神奈川台場」県歴博学芸課長・藤田正氏
○加藤氏は面識はないが西条出身の郷土史家。同名の著書を出版しており、地域経済史としての調査は説得力がある。
広重の「六十余州名所図会」中「伊予西条」と石鎚、大阪中之島界隈蔵屋敷所在(伊予6藩)、西条楮座役所所在などの実証は大いに参考となった。
○松山藩の神奈川台場については郷土資料を網羅しての報告であるが原資料そのものが少ないので今後の研究が待たれる。
『鳴雪自叙伝』にも記載されている高島流砲術指南小林小四郎(小太郎の父)に触れていないので不満が残る。江戸での「実戦」があれば彼の名前も史実に残ったであろうが・・・
午後、畑作りと伐採した庭木の片付け。
【→東の窓】
1、「メールの転送」については、メールは「私信」なり「親書」に当たりますから、相手に断ってから転送すべきものでしょう。発信人が転送を嫌がるのであれば「複写」で送ることはマナーに反することになります。私自身も「被害」を受けたことは数多くあります。そんなこんなで、「子規さん俳句」については転送されても問題のない記述にしております。もっとも自分のHPに転載する時は「執筆者名」を記載するのが礼儀です。著作権の侵害の惧れが生じます。
2、戦後処理の問題は、個人の史観については尊重しますが、米・英・ソの秘密協定である「ヤルタ協定」でほぼ決定していました。ソヴィエトの南下と朝鮮戦争の勃発がなければ、アメリカの対日融和政策はまったく違っていたでしょう。国際政治には絶対はありませんし、常に相対的なものです。「第二次大戦で原爆投下したアメリカは無条件降伏の其の日から日本を助け世界に誇る日本の基礎建設を援助したということを否定されるのですか?」を是認する人は、残念ながら少数意見と思いますよ。お互いの歴史観・人生観・宗教観に立ち入ることはインターネットでは避けたほうがいいと思っています。老婆心ながら・・・但し理論的なディスカスであれば大歓迎です。
10月10日(土)
一遍会10月例会開催(道後公民館)。セミナー、フォーラム花盛りの秋だけに出席24名でまずまず。
@卓話:「一遍聖絵」を絵解きする【第12回】「筑前国武士の館の場」。講師は杉野祥一氏(一遍会理事)。一遍にとって裸姿の苦難の九州での賦算の出発でもある。件の武将は鎌倉からの武将(?)か豊後守護・大友兵庫頭頼泰の部下と推定しているのだが・・・
A講話:「親鸞聖人の御影(絵像)について」。講師は平田玲子氏(仏教美術史家)。実父が亡くなって秋田の浄土真宗寺院の僧侶を継承した由。親鸞の 御影(絵像)から実像に近い親鸞像の探求、背景・付属品の意味するもの、更に「新興宗教」を支えた商人・運搬人から海人・山人・悪党のパワーに及ぶ巨視的な史観の展開である。
理事会では@11月例会(土佐国巡察)細部検討A次年度新理事選考基準B窪寺閑室底地寄贈など。「サラサミット」は蜂須賀・杉野・太田理事出席。
上南光雄会員から「淡河(おうご)氏」についての資料をいただく。系譜と年表を作成し、来年度の卓話で会員に一遍智真・他阿真教・淡河殿夫妻のドラマを発表したい。
10月9日(金)
一遍会11月例会(土佐国巡察)の見学先に電話、メールで細部の詰めを行う。担当者の解説は30分を予定している。@高知県立歴史民俗資料館・A竹林寺&海老庄・B高知県立文学館・Cいの町紙の博物館・D横倉山・自然の森博物館
午後は、畑の開墾作業3時間。NHK「”坂の上の雲”への道〜その時歴史は動いた」は日露戦争・日本海海戦の秋山真之の苦闘を描く力作。
10月8日(木)
6時半から町内の秋祭りの提灯の回収。提灯は陰干しで支柱は数日は天日干しが必要か。一遍会10月例会で配布する「一遍会ニュース」「一遍会への誘い」&「理事会資料」など印刷の上取り纏め完了。午後から来春用の草花の種蒔きと芝桜の手入れ。大阪在の一遍会会員の上南光雄氏から貴重な淡河城址の写真が届く。大分における一遍と二祖・他阿真阿について「HP大分歴史事典」をキャッチ。豊前・豊後の資料が活用できそうだ。
【研究メモ】
淡河城(おおがじょう)は神戸市北区淡河町に在る。承久四年(1222)淡河に在る地頭職に補任された北条右近将監成正が築城後、淡河氏と称し土地の豪族として連綿と続いた。弘安の頃(1278〜1288)叡尊上人に帰依し再興を成し庄内の山林を殺生禁断の地と定めた。また正応二年(1289)一遍上人寂後、時宗の再興に尽力し創宗の基を築いた。
南北朝時代(1336〜1392年)淡河氏は南朝に加担し為に再三北朝軍が来襲し城を囲んだ。其の後は赤松氏の旗下となり摂播国境守備の任を帯ぶ。叡尊は真言律宗僧で西大寺を復興したが、非人・らい病者から後嵯峨・亀山上・後深草上皇に至るまで貴賎を問わず帰依を受けた。→一遍の賦算
10月7日(水)
雨でもあり伊佐爾波神社からの神輿の「宮出し」は地元の放送局の実況中継で見物する。「10月度一遍会ニュース」「10月度理事会資料(収支決算)」など作成。『一遍会報』第333号納品、インターネット会員への定期報告を流す。
カネボウ39年同期会の世話人である松本栄治君から10月3日開催の総会の写真と自著『ラフと裸婦は勘違い 宣伝マン、泣き笑い想い出日誌』が届く。実に面白い自伝であるし、カネボウ宣伝史にもなっている。故「飯島直子」がカネボウのモデルであったことを初めて知った。
午後、旅館ふなやで村上公平君(跡見女子大元教授)と落ち合う。宮入りの神輿を見送り、庭園を眺めながら懐石料理を味あう。強風の中、二番町の「クリスタル」で、牧野(梶谷)晃三君も加わり、お喋りとカラオケで「我らの青春時代」を高らかに謳い上げる。
【→東の窓】
「てまり」さん、強風雨の中での宮入り撮影、ご苦労さんでした。台風の余波で風が凄まじかったですね。当方、この時間帯は、風雨を避けて「ふなや」で6台の神輿を見送りました。「ふなや」さんの担ぎ手へのねぎらいは大したもので、さすが道後の老舗の貫禄を感じさせる雰囲気でした。
ところで明治28年(1895)8月20日に、松木節子さんご案内の「須磨保養院」を子規さんは退院して、25日に松山に戻り、漱石の下宿先である「愚陀仏庵」に転がり込みます。10月6日、漱石と道後湯之町を散策しますが、昼食を「鴉渓の花月亭」で済ませ、温泉本館三層に登楼し、松枝町を経て宝厳寺に参詣します。ご存知の「色里や十歩はなれて秋の風」を詠んでいます。
なんと「鴉渓の花月亭」は現在の「ふなや」で、114年前の子規と漱石が立ち寄ったんだと再確認しました。子規さんの記録には残念ながら伊佐爾波神社の秋祭りはありませんでした。子規さんにあやかって一句「宮入りの神輿に迫る秋の風   子規もどき」
10月6日(火)
今夕神輿は伊佐爾波神社に昇殿し、いよいよ明朝「宮出し」の鉢合わせで最高潮に達するが、気分的には盛り上がってこない。一遍会と拙宅の収支決算と財務分析を進める。株式の損失は引きずったままだが、海外ファンドが好調で、なんとかバランスは取れている。株価が1万2千円の水準に戻ってほしいものである。下期の海外旅行は「エジプト&ギリシャ8日間」でセットす。家人の要望で古代史メモを執筆する破目になった。どうもこれが同伴の条件らしい。
【→東の窓】
「てまり」さんがご利用の「子規の句めぐり」の今日の句は「奈良の秋の唐招提寺西大寺」(明治28年)です。昨夜は松山子規会月見芋炊き会を石手寺で開催し、十六夜の月と芋を堪能しました。子規さんにあやかって一句「十六夜の秋の石手寺宝厳寺  子規もどき」
10月5日(月)
草間時福・和久正辰・大野?吉3氏の「小伝」の最終稿を脱稿する。大野?吉の伝記は愛媛県下では初めての論文ではあるまいか。引き続き、岩村高俊と西河通徹2氏の小伝を今月末までに取り纏めたい。午後から座敷の庭の整美作業。椿湯で跡見女子大元教授(図書館長)村上公平君と出会う。一年ぶりの帰省の由。7日水曜日に秋祭りを眺めながら祝杯を挙げることを約す。
10月4日(日)
三宮を早目に発ち、大街道15:38着。帰宅後メールチェック。「一遍会報」第334号の再校正を済ませ印刷を依頼する。夕6時、石手公民館で「松山子規会月見芋煮会」に出席する。竹田美喜子規博館長はじめ井手・宇都宮・今村・宇和理事らと懇親する。バスもなく、十六夜の月の仰ぎながら歩いて帰宅する。松山藩士救済の「栄松社」社長は井手正鄰でなく実父真棹である旨正鄰令孫康夫氏から報告あり。「県史」「市史」の間違いが確定。
10月3日(土)
午後2時まで大阪市立美術館で特別展「道教の美術」を鑑賞する。「道教」は捉えどころのない宗教であり日本の神道と同じく摩訶不思議な宗教でもある。老子から始まるとされる「道(タオ)」の来歴から世俗化された浦島太郎、閻魔大王、安倍晴明、織姫・彦星まで膨大な文書、絵画、祭祀具などが陳列。一日では通覧も難しい。400頁に及ぶ解説書を購入、じっくりと勉強して行きたい。直感的な理解では「福・禄・寿」で現世的な幸福の具現ではあるまいか。初期創価学会の「利・善・美」の主張を思い出す。
夕、カネボウ保養所で「鐘紡39年入社同期会」の招きで出席する。45年ぶりの「師弟の出会い」である。夜11時まで語り合う。「学び心」の残り火を確認しあう。
10月2日(金)
始発バス(6:28発)で三宮(10:40着)。兵庫県庁近くの「竹中大工道具館」をたっぷり時間をかけて見学する。狙いは『一遍聖絵』に描かれた「窪寺閑室」の建物についての疑問解明。縦引き鋸の日本での定着は室町期であり、都の寺院は別として伊予国では床張りは無理と判断した。
午後は「大阪歴史博物館」で常設展と併せ特別展「伊勢神宮の神々の美術」、難波宮跡を見学する。所謂ハコ物であるが、内容は充実しており大坂の通史学習の場としては貴重。夕食は阪神百貨店地下食堂を食べ歩き、サンメンバーズホテル宿泊。終日歩き通しの歴史の勉強であり、いささか疲れた。
10月1日(木)
道後支所図書室で暁烏敏著「わが歎異鈔」(上・中)貸し出し。「暁烏敏」は「あけからす はや」と読む。清沢満之の弟子で東本願寺の宗務総長を勤めた僧侶の講演録である。
午後は庭木の伐採やら草引きやらで多忙。夜「一遍会報」第334号初校の校正を済ます。