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松山歴史文化研究会(20231107)
「湧ヶ淵の蛇骨をめぐって 明治の文人と道後・三好家」
はじめに
「湧ヶ淵の蛇骨伝説」は広く知られている。当家に関係する報告であり、史資料のみを提示したい。ご活用いただければ幸甚である。
目次
1,湧ヶ淵の蛇骨伝説
『松山叢談』第一巻「松山藩四代天鏡院殿定長公」中『三好家記』
●夏目漱石 『漱石全集』
*湧ヶ淵大蛇句<氏名、銃or刀、石手寺伝承(大蛇の雌雄)>
●浦屋雲林 『雲林遺稿』(昭和29年発行)
@訪道後村三好姓観牽牛花(116頁)
*三好寛馬 松山女学校(県女)創立時教師 雲林塾<祖父>
A蛇骨引(126頁)
B九月八日、游湧潭、帰路訪食場村三好某、酔余留置一詩去(128頁)
●近藤南洋
?三好家祖霊碑
3,(道後)三好家をめぐって
●「源姓三好家系図」
@東京大学史料編纂所 「源姓三好家系図」
A『松山叢談』第一巻「松山藩四代天鏡院殿定長公」中『三好家記』
B「三好文書」(県図書館蔵)中「三好家記」(全文)
(注)「三好文書」原本は墨書、個人蔵、非公開
●三好長門守秀吉(湯山・菊ケ森城主)<戦国期>
A『松山叢談』第一巻「松山藩四代天鏡院殿定長公」中『三好家記』
C『伊予の古城跡』(伊予史談会叢書)「菊ヶ森城」(186頁)
『伊予古蹟志』・『伊予温故録』・『三好文書
●温泉郡大庄屋・道後村庄屋<江戸期>
D『松山藩役録』(伊予史談会双書19)
『懐中便覧 松山役録』宝永元年(1704)
<三人扶持 温泉郡道後村 三好平兵衛 81P>
庄屋には郡を束ねる「大庄屋」、数か村を束ねる「改庄屋」があり、ともに郡役人との身分があり、大庄屋は藩から3人扶持を貰い名字帯刀を許されて武士階級に属した。 松山藩の場合の庄屋は、大庄屋、改庄屋、庄屋、庄屋格、改庄屋格帯刀、平庄屋などの格式があった。
*村方支配について
江戸時代、松山藩の村方支配は100石から300石程度の中堅武士3名が毎月交代で郡奉行を務め、足高米として100石・役料20俵をもらっていた。
代官所は、周布、桑村、越智、野間、和気、温泉、伊予、浮穴、久米の10郡と久万山と島方の2か所、合計12所に置かれた。
郡奉行所・代官所には代官以下、手付4名、物書3名、遣番4名が常駐。その他、手代61名、月番8名などが勤務していた。
●松山藩の庄屋
E『松山市資料集』7 「松山領里正鑑(庄屋名簿)」(明治37年)
<湯山・道後・持田3村の庄屋は道後三好家の3兄弟>
<三好保徳 持田村 伊予柑創始 梨<二十世紀> >
* 三好長門守秀吉からの系譜一覧<曹洞宗龍穏寺『過去帳』>
三好九郎右衛門秀重(道後村初代庄屋)・・・現在12代、
三好長門守からは15代目
* 明治期の三好家当主<明治の文人との関係>
保喜【七代】―――源之進(湯山村庄屋)――観次郎(秀保)
―是保【八代】―――――文平【九代】―寛馬【十代】―J―K
―柳平(持田村庄屋)――豊保
資料
1,
湧ヶ淵の蛇骨伝説
湧ヶ淵の妖怪先祖三好長門守秀吉長男蔵人之助秀勝元和年中打取申候、其節の次第、湧ヶ淵より夜毎容貌美麗の女姿にて湯の山往来へ出て通路不相成候処、蔵人之助儀剛毅の者にて殊に鉄砲の達人にて右聞及び湧ヶ淵に蛇住み候由に候へば决而是等の妖怪にも可有之何卒打留度存、夜々右場所へ出相待居候得共一向に出不申不審に存居候内、七夜目に彼女顕れ出候に付、如何なる者に候哉、此所へ出、諸人を悩し候に付覚悟可致と鉄砲を向候処、身は湧ヶ淵の住者なり。早々帰るべしと申に付、其侭鉄砲打掛候処俄に震動雷電し天も崩るゝ程の儀にて中々其場に罷在事難成其侭帰宅。翌朝湧ヶ淵へ罷越見届候へば大蛇を打留居候に付、家来共召連蛇躰取帰候由申伝候。尤今以右蛇骨家に相残居候。(『松山叢談第四 天鏡院殿定長公』)
2,
湧ヶ淵訪問の明治期の文人
●夏目漱石 『漱石全集』
明治二十八年八月から十月にかけて五十数日間漱石と子規は愚陀仏庵で生活と共にしたが、子規上京後漱石の句作は急激に増えた。因みに漱石全集「子規へ送りたる句稿」では九月三二句、十月八八句、十一月一八四句、十二月一〇二句、翌年一月から熊本に去る三ヵ月に一七〇余句記載されている。漱石の俳句の三分の一はこの数カ月間に作られた。
漱石の湧ケ淵の大蛇を詠んだ句は「子規へ送りたる句稿その八 十二月十四日」に載せられている。
降の松山での吟行句は残っていない。以下大蛇(オロチ)伝説と関連する句を抜き書きする。
冬木立寺に蛇骨を伝えけり (注)五十一番札所熊野山石手寺
湧ケ淵三好秀保大蛇を斬るとろ
蛇を斬った岩と聞けば淵寒し
円福寺新田義宗脇屋義治二公の遺物を観る 二句
つめたくも南蛮鉄の具足哉
山寺に太刀を頂く時雨哉
日浦山二公の墓を謁す 二句
(注)新田義宗、脇屋義治は南北朝期の新田義貞、脇屋義助の子
塚一つ大根畠の広さ哉
応永の昔なりけり塚の霜
●浦屋雲林<『雲林遺稿』(昭和29年発行)
@訪道後村三好姓観牽牛花(116頁)<別紙>
A蛇骨引(126頁)<別紙>
B九月八日、游湧潭、帰路訪食場村三好某、酔余留置一詩去(128頁)<別紙>
●近藤南洋
?三好家祖霊碑
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?浦屋雲林指摘「蛇骨」<近藤元規氏蔵>
3,(道後)三好家をめぐって
●「源姓三好家系図」
@東京大学史料編纂所 「源姓三好家系図」
清和天皇―貞純親王―経基―満仲―頼信―頼義―義光―義清―長清―長輝―長基―長慶―之勝―秀吉(為勝)
秀 吉 三好長門守(為勝) ― 秀勝蔵人之助 ― 法名月窓休西居士
此時豫州牢落河野道直公仕而為恩地湯之山千二百六十石領 東郡神途之城責落シ有武功為其賞石手郷五百石賜 天正年中河野没落之時共々牢浪ス時ニ蔵人秀勝喜多郡於大洲三百五十石領後有克又湯之山江帰住 元和八壬戌年文月二十六日卒
A『松山叢談』第一巻「松山藩四代天鏡院殿定長公」中『三好家記』
長門守秀吉は三好修理太夫長慶の孫にて代々阿州居住の処、長宗我部元親に打負、豫州へ流浪し、河野通直に仕へ為恩地湯の山千二百六十石を領す。東郡神途の城責落とし武功あるに付、其賞として石手郷五百石賜り、天正年中河野家没落の時共に流浪す。時に蔵人之助秀勝喜多郡大洲において三百五十石領す。後有故又湯の山に帰住、子孫平民となり、同食場村に住す。
識者云 今三好源内と云伊豫志料にいへる半蔵の家なり。庭前に古城の山あり。古長門守守りし砦の跡なりとぞ。食場半蔵といへるは蔵人之助秀勝の孫新之丞といへるもの、加藤嘉明松山の城築かる時少年にて夫役に出相働、嘉明目に留り普請奉行足立半蔵(足立重信の通称は半助)の名を譲り養育可致との沙汰にて、夫より代々半蔵を名乗、半蔵の名高き故、蛇を打留しも世に半蔵と云へど、実は蔵人之助の打しなりとぞ。(『松山叢談第四 天鏡院殿定長公』)
【道後三好家の系譜】 温泉湧出停止(湯祈祷) 遊行上人 遍路病死 秋祭り(御旅所)
【初代】三好秀重(重高)
松山藩三代藩主松平定長公(慶長一七年〜延宝二年<1640〜1674>)から道後村庄屋を申し付けられ道後村に移住する。延宝三年(1675)に没しているので略々340年前頃と考えられる。
道後村庄屋任命の事由は不明であるが、寛文一三年・延宝元年(1673) 五月の洪水で石手川堤防が決壊し、ご城下並びに道後村に甚大な被害を与えた。村の復旧・復興が急務であり、湯山村(高野)庄屋で隠居していた河川治水の経験豊かな三好秀重(重高)を起用したと推察される。
この時期、三好家は、湯山郷・石手郷・桑原郷・道後郷(持田・一万を含む)の湯山川・石手川に沿う郷村の大庄屋(温泉郡大庄屋)の位置づけであった。
【二代】三好秀安(通称平兵衛)
持田村庄屋として分家が公認されたことにより、食場・高野・道後・持田村の庄屋として松山藩の認知を受けていくことになった。
【三代】三好秀伴(通称平兵衛)
宝永四年(1707)の大地震で温泉の湧出が止まったが「湯神社再興諸日記」に「一七日勤めの内、時の代官福本平三衛門殿、鯉口伊兵衛殿、大庄屋三好平兵衛殿始其外郡方替り替りに御出成、湯之町にては明王院はじめ町人替り替り参籠」とある。
【四代】三好秀行(通称平兵衛)
松山藩「増田家記」に拠れば「安永元年(1772)伊達和泉守村賢(吉田公也) 為御入湯道後へ入らせられ御宿は同所三好平兵衛宅也」とある。又「伊予大洲藩・藤蔦延年譜」に拠れば宝歴六年(1756)加藤泰広公は20日間以上道後三好家に長期滞在している。松山藩は親藩であり、外様大名は庄屋宅を利用したものと思われる。
御成門、式台、御駕籠置石などが現在も拙宅に残っているので、伊予吉田藩伊達公や伊予大洲藩加藤公の宿泊所として松山藩の認可を受け、屋敷内の大改築・大改築をしたと考えられる、従って現在の家屋は、宝歴六年(1756)の大洲藩加藤公宿泊時まで遡るので改築後二五〇〜二六〇年経過した古建築である。
【五代】三好等陳(通称平兵衛)
天明の凶作で持田村の年貢米を供出できず庄屋を免職され「死を賜り」、天明三年(1873)自死(切腹?)している。長子門蔵(保教)は桑原村庄屋として分家し、その子勇次郎 (等陳孫)が持田村庄屋を申し付けられる。
【六代】三好長保(通称善次郎、平兵衛)
家督相続が辛うじて認められ、等陳長女に婿養子を取る。
天明六年(1785)「温泉郡道後村地坪御伺書」は代官山崎伊兵太殿宛に庄屋善次郎を筆頭に百姓一〇八名の印がある。道後村一一一町七反五畝八歩中、庄屋役地は一町四反九畝二九歩で持ち分山畑は二反一畝一七歩である。松山藩では甘薯の栽培は禁止されており天明の飢饉は他藩以上に大被害を蒙った。
(注)『松山史料集』第七巻近世編6 「温泉郡道後村地坪御伺書」227〜28
『松山小手鑑』によれば、温泉郡大庄屋は三好平兵衛のみで、「免 亥9:7 石高1325石4斗01合 田40町8反0畝25歩 畑21町2反8畝00歩である
(注)『松山史料集』第七巻】478〜479
【七代】保喜(通称平兵衛)
天保五年(1834)旱魃もあり 湯山村の凶作により年貢取立等の職務怠慢により庄屋伴蔵職。保喜が「預り庄屋」となり、長男源之進が跡目相続し湯山村(食場・高野)庄屋となる。
次男是保が道後村庄屋八代目を継ぎ、三男柳平が持田村庄屋三好家を継ぐ。石手村を除く湯山・道後・持田・味酒(一部)の庄屋として、松山藩の信頼を得て幕末を迎えることになる。
土佐藩の松山藩接収に当たり、城代家老奥平家の妻女を匿い、朝敵となった藩主久松定昭公の救済嘆願書を郡大庄屋として取り纏めた。
【八代】是保(通称平次兵衛、平次平)
妻サダは本町の町役仲田家から嫁す。
【九代】保和(幼名大平、通称文平)
旧松山藩最後の道後村庄屋(旧里正)である。明治に入り県職員として勤務。
【十代】寛馬
愛媛県立女学校(旧城南高等女学校、現県立松山南高等学校)の創立に加わる。
【十一代】章
【十二代】恭治(当主)
追加資料 省略 史料も直接当たってください。県立図書館に在庫です
F三好氏居城(菊ヶ森城) 『伊予の古城跡』伊予史談会叢書186頁
B『雲林遺稿』
G『松山藩役録』・『懐中便覧』(1704)
H『松山領里正鑑』 『松山市資料集』7