16 子規と一遍とほととぎす   (令和四年一月新年例会卓話)
じめに
令和四年の御歌始の儀は、一月十八日宮中で厳粛に執り行われた。御題は「窓」。
天皇陛下の御歌(御製)
世界との往き来難かる世はつづき
              窓開く日を偏に願ふ
令和三年の御歌始の御製を掲げる。御題は「実」。
人々の願ひと努力が実を結び
              平らけき世の到るを祈る
新型コロナ禍で人々は羅針盤を失った感があるが、御製を拝読して大御心の温もりと深甚なる祈りを多くの国民は感じ取ったに違いあるまい。改めて和歌の生命力に感嘆した。
今日の宮中の年初行事である御歌始は古く平安時代から延々と継承され、京都御所には御歌所が設置されていた。和歌は貴族を中心に開花した宮廷文化であるが、武家社会では、俳諧連歌を鎌倉幕府から江戸幕府至るまで正月には「連歌始」として執り行われた。
室町幕府の連歌始は正月一九日、江戸幕府の連歌始は正月二〇日、承応年間(一六五二?一六五五)以後は正月一一日であり、時宗浅草日輪寺住職は連歌始に出仕している。
特筆すべきは、時宗清浄光寺(遊行寺)の主要行事である「一つ火法要」(古くは冬至に開催)に、遊行上人以下全山僧侶が打ち揃って連歌式を今日でもおこなっている。
俳諧連歌発句は、室町期から江戸期に掛けて、武士・商人・時衆・阿弥衆中心に普及し、処々で初句会が開催された。
一、ホトトギス考

1、「道後八景」とホトトギス
明治初期に作られた「道後八景」には鳥が詠み込まれ「冠山杜鵑(とけん)」とある。杜鵑とはホトトギスを指す。
「義安寺蛍 奥谷黄鳥 円満寺蛙 冠山杜鵑 御手洗水鷄 湯元蜻蛉古濠水禽 宇佐田雁」
 冠山は古くは「出雲崗」と呼ばれ、「延喜式内社」では「出雲崗神社」があった。今日は、湯神社と呼ばれ、出雲崗神社は合祀されている。この社域に、一遍聖の父である河野通広を祀る神社(子守社)と墓が残っている。遊行上人の伊予回国に当たり、度々詣でている。一遍生誕寺とされる宝厳寺は奥谷にあり、黄鳥が当てられている。黄鳥とはウグイスを指す。

2、明治初期の「小学唱歌」 『夏は来ぬ』

 戦前の学童がよく口にした唱歌に「夏は来ぬ」がある。作詞は佐々木信綱、作曲は小山作之助作曲で、明治二十九年(一八九六)五月、『新編教育唱歌集(第五集)』にて発表された。
「卯の花の匂う垣根に 時鳥早も来鳴きて 忍音もらす夏は来ぬ」五・七・五・七・七・(五)の和歌の口調である。因みに信綱(明治五年〜昭和三八年)は歌人・国文学者、学士院会員、芸術院会員、文化勲章受章者であり、代表句「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」は著名である。

3、時鳥の故事来歴
時鳥は時(季節)を告げる「渡り鳥」であり、祖霊と共に農村に舞い降り、田植えの刻を告げるとされた。古く弥生期より、米と共に南アジアからやってくる季節鳥である。
『万葉集』には、ほととぎすに寄せて数多くの歌が残っているが、平安期の清少納言 『枕草子』(長保三年(一〇〇一年)頃)のほととぎすの記述を採り上げてみたい。岩波『日本古典文学大系』(19)に拠る。
@賀茂へまゐる道に、田植うとて、女のあたらしき折敷のやうなるものを笠に着て、いとおほく立ちて、歌をうたふ、折れ伏すやうに、また、なにごとするとも見えでうしろざまにゆく、いかなるにかあらむ。をかしと見ゆるほどに、ほととぎすをいとなめううたふ、聞くにぞ心憂き。「ほととぎす。おれ。かやつよ。おれ鳴きてこぞ、我は田植うれ」とうたふを聞くも、いたくな鳴きそ」とはいひけん。仲忠が童生ひいひおとす人と、ほととぎす鶯におとるといふ人こそ、いとつらうにくけれ。(二二六段)
Aほととぎすは、なほさらにいふべきかたなし。いつしかしたり顔にも聞えたるに、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり。五月雨のみじかき夜に寝覚をして、いかで人よりさきにきかむとまたれて、夜ふかくうちいでたるこゑの、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。六月になりぬれば、音もせずなりぬる、すべていふもおろかなり。よる鳴くもの、なにもなにもめでたし。ちごどものみぞさしもなき。(四一段)

4、中国の故事伝説に拠るホトトギスの名称 
ホトトギスに当たる漢字は、杜鵑・霍公鳥・郭公・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂などなど多い。明代の李時珍『本草綱目』禽部三「杜鵑」の釈名に「其ノ鳴「不如帰去」ト曰ウガ如シ。」とあり、日本では「本尊建てたか(ホンゾンタテタカ)」・「天辺かけたか(テッペンカケタカ)」・「特許許可局(トッキョ キョカキョク)」が一般的である。
長江流域に蜀国(古蜀)があり、杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、山中に隠棲した。「望帝杜宇」が死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、鋭く鳴くようになったと言う。(「生」の予兆・予告・・・歓喜)
5、「子規」はホトトギスの鳴き声か
李白の詩に「蜀国曽聞子規鳥 宣城還見杜鵑花 一叫一廻腸一断 三春三月憶三巴」がある。
「子規鳥ヲ聞ク」とは、「子規と鳴く鳥の声を聞く」の意であろう。後年、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず)と鳴きながら血を吐くまで鳴いたと言う。(「死」の予兆・予告・・・悲嘆)
二、一遍と「ほととぎす」

1、『筑波集』と一遍聖の連歌(俳諧発句)
勅撰の連歌集の嚆矢は『菟玖波集』である。連歌が日本武尊の新治筑波の問答歌に起こるという説による最初の連歌撰集で二〇巻からなる。二条良基が連歌 師救済と共撰、延文元年(一三五六)に成り、翌二年勅撰に準ぜられた。
(注)救済(ぐさい)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての地下の連歌師。弘安七年(一二八四)〜永和四年(一三七八)。
古来の連歌を「付合」を主として二千句余集める。『菟玖波集』に集録されている一遍の郭公の発句は以下である。
遊行の時、兵庫の島につきたりけるに、浄阿上人待向ひたりける夜の連歌に
 月に鳴けめぐり逢う夜の子規   託何上人
善阿法師一遍の仏事の席に一日千句侍りけるに
 頼むぞよ十声一声ほととぎす   能阿法師
文和三年四月、家の千句連歌に
 待てばこそ鳴かぬ日のあれ子規  堂誉法師
 郭公なかぬ初音ぞ珍しき     一遍上人
連歌の座での句の披露が「ほととぎす なかぬはつねぞ めづらしき」とすると、二通りの解釈ができる。
郭公鳴かぬ初音ぞ珍しき(郭公は鳴かず?)
郭公鳴かぬは常ぞ珍しき(郭公は鳴いた?)
 明らかに初音の句が優れているが、二様の解釈ができるのが俳諧の面白味かもしれない。
託何上人(一二八五〜一三五四)は七代目遊行上人で、宝厳寺との関係が深く強い。康永三年(一三四四)六月伊予回国中に奥谷派を遊行派に編入し、『條々行儀法則』一巻を述作する。秋、兵庫で四条二代浄阿らと連歌興行、『禅時論』(執筆年不明)を執筆する。巻頭に「託何上人作」とあり(仮托かもしれないが)、奥谷道場宝厳寺に関係ある一文で、道後温泉についても記述している。宝厳寺における連歌の様子に詳しく触れている。

(注)拙論『一遍会報』第四三三号「奥谷道場宝厳寺時衆連歌文化考」

2、『一遍聖絵』中の「ほとゝぎす」

一遍聖の生涯を絵巻にした鎌倉期の作品であり、国宝に指定されている。原本は時宗本山遊行寺にある。(第七巻 二七段)
 同七年閏四月一六日、関寺より四条京極の釈迦堂にいり給ふ。貴賎上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすこともえざりき。一七日ののち、因幡堂にうつり給ふ。
 そのとき、土御門入道前内大臣、念仏結縁のためにおはしまして、後におくり給へる、
 一声をほのかにきけどほとゝぎす
     なほさめやらぬうたゝねのゆめ
   返事        聖
郭公なのるもきくもうたゝねの
     ゆめうつゝよりほかの一声 

(注)「一声」とは「南無阿弥陀仏」のこと。
(注)土御門入道前内大臣は村上源氏、源通親の孫、中院通政(〜一二八六)
三、子規と「ほととぎす」

1、俳論「ほととぎす」『獺祭書屋俳話』(時鳥)

 連歌発句及び俳諧発句の題目となりたる生物の中にて最も多く読みいでられたるものは時鳥なり。此時鳥といふ鳥は如何なる妙音ありけん昔より我国人にもてはやされて万葉集の中に入りたるもの既に百余首に上る位なれば其後の歌集にも・・・(略)・・・支那の詩にも子規を詠じたるもの多けれども多くはこれを悲しきものにいひなせり。西洋の詩にも我子規に似たる鳥を詠みたるものありてこは皆其声をうれしきかたに聞くが如し。

(子規推薦句)
時鳥 なかぬ初音ぞ めづらしき  一遍上人
山彦の 声よりおくや 郭公    宗碩
郭公 大竹原を もる月夜     芭蕉
時鳥  とて 寝入りけり    涼菟
ほとゝぎす 啼や湖水のさゝにごり 丈草
蜀魄 なくや雲雀の 十文字    去来
目には青葉 山ほとゝぎす 初鰹  素堂
この雨は のつ引ならじ 時鳥   一茶
月や声 きゝてぞ見つる 郭公   宗牧

2,子規「ほととぎす」全句 百十一句 (略)

正岡子規が明治二八年(一八九五)遼東半島からの帰途、船中で喀血、生死をさ迷う。一晩でホトトギスに因む句を数十句詠む。俳号を「子規」とする。生涯に詠んだ「ホトトギス」の句は百十一句である。
(注)『子規俳句索引』(子規博一九八三年刊行)
おわりに
 「正岡子規→喀血→血を吐くホトトギス」と短絡的に捉えるのではなく、わが国のみならず中国、西欧での歴史的、文芸的な位置づけをも正当に理解して、初めて「ほととぎす」の真実に迫ることができるのではあるまいか。
ほととぎすの一声は、「生への予兆」であり、且つ「死への予兆」でもあり、南無阿弥陀仏の一声は生死を超克すると云えよう。
パワーポイント 記載原稿
@一遍と時鳥

『菟玖波集』の「郭公なかぬ初音ぞ珍しき 」は一遍上人が本当に詠んだか?


A宮中 御歌始
 
令和4年 御題「窓」

   世界との往き来難かる世はつづき
         窓開く日を偏に願ふ

令和3年 御題 「実」

    人々の願ひと努力が実を結び
          平らけき世の到るを祈る

B和歌と俳諧
連歌

和歌  平安期  天皇・貴族 冷泉家 京都御所    歌御会始

連歌  鎌倉〜江戸期 将軍・武家   室町・江戸幕府    連歌始

連歌始  室町幕府  正月19日
・      江戸幕府  正月20日 11日
    時宗 江戸 日輪寺住職 出仕

C「不滅の法灯」と「一つ火法要」


不滅の法灯
  天台宗 比叡山 延暦寺
  延暦七年(788年)  最澄 点火  
  <信長叡山焼き討ち(1571年) 立石寺分灯>

一つ火法要
  生・死・再生   臨終
  鎌倉期(13世紀)    一遍? 真教? 藤沢上人?

  法要前に本山全僧侶による「連歌式」

D明治初期の「道後八景」の杜鵑

義安寺蛍 <河野一族>   奥谷黄鳥 <宝厳寺> うぐいす

円満寺蛙<蓮池>        冠山杜鵑 <湯神社> ほととぎす

御手洗水鷄<伊佐爾波社>  湯元蜻蛉 <温泉元湯>

古濠水禽 <湯築城址>     宇佐田雁 <宇佐神社>

E小学唱歌「夏は来ぬ」の時鳥


卯の花の   匂う垣根に     五・七
時鳥      早も来鳴きて    五・七
忍音もらす  夏は来ぬ      七・(五)

佐々木信綱(作詞、小山作之助作曲の日本の唱歌)明治二十九年(1896)五月、『新編教育唱歌集(第五集)』にて発表。
卯(う)の花の、匂う垣根に     5・7
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて  5・7
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ  7・(5)
(注)佐佐木 信綱(明治五年〜昭和三八年)日本の歌人・国文学者。正三位 。勲六等。文学博士。学士院会員。芸術院会員。文化勲章受章。
「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」

F時鳥の故事来歴

@「時鳥」 
 時(季節)を告げる「渡り鳥」  田植え  弥生期、米と共に南方からの季節鳥。 (注)ホトトギス、カラス ウグイス

A「杜宇」「蜀魂」「不如帰」
 中国の故事や伝説にもとづく。

B「子規」
 啼き声ヵ?

Gホトトギスの故事来歴 (1)「時鳥」@

 
清少納言(生没年不詳)  『枕草子』(二四八段)
「賀茂へ詣づる道に、女どもの、あたらしき折敷のやうなる物を笠に着て、いとおほく立てりて、歌をうたひ、起き伏すやうに見えて、ただ何すともなく、うしろざまに行くは、いかなるにかあらむ、をかしと見るほどに、郭公をいとなめくうたふ声ぞ心憂き。「郭公よ。おれよ。かやつよ。おれ鳴きてぞ、われは田に立つ」とうたふに、聞きも果てず。いかなりし人か、「いたく鳴きてぞ」と言ひけむ。仲忠が童生ひ言ひおとす人と、「鶯には郭公はおとれる」と言ふ人こそ、いとつらうくけれ。鶯は夜鳴かぬ、いとわろし。すべて夜鳴くものはめでたし。 ちともそはめでたからぬ」

Hホトトギスの故事来歴 (1)「時鳥」A 

『枕草子』(四一段)

 ほととぎすは、なほさらにいふべきかたなし。いつしかしたり顔にも聞えたるに、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり。
五月雨のみじかき夜に寝覚をして、いかで人よりさきにきかむとまたれて、夜ふかくうちいでたるこゑの、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。
六月になりぬれば、音もせずなりぬる、すべていふもおろかなり。よる鳴くもの、なにもなにもめでたし。ちごどものみぞさしもなき。(四一段)

Iホトトギスの故事来歴 (2)「杜宇」「蜀魂」「不如帰」

長江流域に蜀国(古蜀)があり、
杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。
後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、山中に隠棲した。
望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。(「生」の予告)
後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず)と鳴きながら血を吐くまで鳴いたと言う。(「死」の予告)

Jホトトギスの故事来歴 (3)「子規」 

唐・李白
蜀国曽聞子規鳥 
宣城還見杜鵑花 
一叫一廻腸一断 
三春三月憶三巴

「子規鳥」はホトトギスの「啼き声」?
「杜鵑花」は「赤色躑躅」?

Kホトトギスの漢字/啼声@

杜鵑・霍公鳥・郭公・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂

明代の李時珍『本草綱目』禽部三「杜鵑」(とけん)の釈名に「其ノ鳴「不如帰去」(フキョキコ)。ト曰ウガ如シ。」とあり、
日本では「本尊建てたか(ホンゾンタテタカ)」・「天辺かけたか(テッペンカケタカ)」・「特許許可局(トッキョ キョカキョク)」が一般的である。

「ホトトギス」も啼声ヵ

Lホトトギスの漢字/啼声A

李白「蜀国曽聞子規鳥 宣城還見杜鵑花 一叫一廻腸一断 三春三月憶三巴」
後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず)と鳴きながら血を吐くまで鳴いたと言う。(「死」の予兆・予告・・・悲嘆)

M一遍と「ほととぎす」 『筑波集』@

勅撰の連歌集の嚆矢は『菟玖波集』である。連歌が日本武尊の新治筑波の問答歌に起こるという説による最初の連歌撰集で二〇巻からなる。二条良基が連歌 師救済と共撰、延文元年(一三五六)に成り、翌二年勅撰に準ぜられた。
(注)救済(ぐさい)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての地下の連歌師。弘安七年(一二八四)〜永和四年(一三七八)。
古来の連歌を「付合」を主として二千句余集める。『菟玖波集』に集録されている一遍の郭公の発句は以下である。

N一遍と「ほととぎす」 『筑波集』A

遊行の時、兵庫の島につきたりけるに、浄阿上人待向ひたりける夜の連歌に
 月に鳴けめぐり逢う夜の子規   託何上人
善阿法師一遍の仏事の席に一日千句侍りけるに
 頼むぞよ十声一声ほととぎす   能阿法師
文和三年〈1354〉四月、家の千句連歌に
 待てばこそ鳴かぬ日のあれ子規  堂誉法師
 郭公なかぬ初音ぞ珍しき     一遍上人
  一遍上人の発句になぜ「詞書」がないのか? 金井清光指摘

O一遍と「ほととぎす」 『筑波集』B


連歌の座での句の披露が
「ほととぎす なかぬはつねぞ めづらしき」
とすると、二通りの解釈ができる。
郭公鳴かぬ初音ぞ珍しき(郭公は鳴かず?)
郭公鳴かぬは常ぞ珍しき(郭公は鳴いた?)
 明らかに初音の句が優れているが、二様の解釈ができるのが俳諧の面白味かもしれない。

P『一遍聖絵』 (第七・ 二七段) @

弘安七年(1284)閏四月一六日、関寺より四条京極の釈迦堂にいり給ふ。貴賎上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすこともえざりき。一七日ののち、因幡堂にうつり給ふ。そのとき、土御門入道前内大臣、念仏結縁のためにおはしまして、後におくり給へる、
 一声をほのかにきけどほとゝぎす
     なほさめやらぬうたゝねのゆめ
   返事        聖
 郭公なのるもきくもうたゝねの
      ゆめうつゝよりほかの一声 
(注)「一声」とは「南無阿弥陀仏」のこと。
(注)土御門入道通成前内大臣は村上源氏、源通親の孫、中院通政

Q『一遍聖絵』 (第七・ 二七段) A

2年後の弘安九年(1286)、一遍が尼崎に居る時、土御門入道がまた和歌を送ってきた。

ながき夜の ねぶりもすでに さめぬなり
    六字のみなの いまの一声
一遍&時衆と土御門家の関係はこれを機に密接になり、後の『一遍聖絵』に制作に土御門家が援助したと推察される。

R「時鳥」詩華集   中国  李白

聞王昌齡左遷龍標遙有此寄    李白

楊花落盡子規啼
聞道龍標過五溪
我寄愁心與明月
隨風直到夜郎西

S「時鳥」詩華集  中国 孟浩然

聞砧

杜鵑聲不哀,斷猿啼不切。 
月下誰家砧,一聲腸一絶。
杵聲不爲客,客聞髮自白。
杵聲不爲衣,欲令遊子歸。

(21)「時鳥」詩華集   イギリス ワーズワース

ウィリアム・ワーズワース

神聖な吟遊詩人、空の巡礼者よ
君は心配事がいっぱいの地上を嫌うのだろうか
心と目が露に濡れた地面で休息するとき
翼は空に焦がれているのか
震える翼が音楽をまだ生み出すとき
君は自ら巣に帰ることはない

ナイチンゲールに日陰の森はまかせて
輝かしい光の住処は君のもの
君は気高い直感と共にこの世界にハーモニーを注ぎ込む
ひばりは高く舞う賢者、決して彷徨うことはない
天国と故郷の親しい場所に忠実だ

(22)「時鳥」詩華集 イギリス ブラウニング


さあ、フルートを鳴らそう!
まだまだ聞こえないよ
鳥たちは昼も夜もにぎやかな様子だ。
ナイチンゲールは谷間の中で
ツグミは大空の下で
元気に歌っている。
そう、元気が大事。
このまま元気に今年の春を
迎えようじゃないか。

(23)『野鳥雑記』  柳田國男
(八)
 
昔名古屋の近くの村で、五つ六つばかりの男の子が、人に連れられて物詣に行く途中、頻しきりにこの鳥の啼く声を聴いて、一人で嬉しそうに笑っていた。
どうして笑うかと人が尋ねると、それでもあの鳥が「ととさへ、かかさへ」と啼くものをといったというのは、親のない児であったのであろう。
その年麻疹ましんを病んでその子は死んだと、真澄の奥州の紀行の中に書いてある。

(24)『野鳥雑記』 柳田國男<続>

郭公は時鳥の雌などという俗説もあるが、これがまた同じように冥土の鳥であった。古い物語に母一人子一人、夕の山路を物淋ものさびしく通っていると、早来(はやこ)早来とこの鳥が啼いた。そうして心付いて見ると、背の幼な児は死んでいたという。
今では我々の耳にはカッコウとばかり聞えるが、ハヤコもしくはアコという以前の語音に近かったために、特にあの鳴声を怖れていたものと思われる。
他の小鳥が寝処を捜す時刻になってから、この二色の鳥ばかりが際限もなく鳴いて来る故に、憂ある者は殊に耳をそばだてざるを得なかったのである。

(25)鹿児島の民話 ホトトギスの兄弟

昔、むかしのお話。あるところに、貧しい兄弟がおりました。
弟のほうは大変優しく親切で、体の弱い兄の為に毎日毎日山へ行き、沢山の山芋を掘って来ては、その芋を煮て兄に一番おいしい部分を食べさせておりました。
反対に、自分は芋の蔓や先端の部分など、あまり美味しくないものをこっそりと食べていました。
しかし、自由に外出することのできないことの出来ない兄はすっかりひねくれており、
「自分だってこんなに旨い芋を食べられているのだから、あいつは隠れてもっともっと旨いものを食っているのだろう。」
そう考えては、弟の持ってくる山芋に不平ばかり述べておりました。
自分は満足に食べられず栄養が不足しても、せっせと兄の為に毎日山芋を取ってくる弟。
そんなある日のこと、弟はとうとう疲れて動けなくなり、倒れてしまいました。

(26)鹿児島の民話 ホトトギスの兄弟<続>

「あの弟め、自分ばかり旨いところを腹いっぱい食べて寝転んでいやがる。」
そんな弟の様子を見た兄は、ついに憎しみのあまり包丁で弟の腹を割いてしまいました。
弟の腹の中にあったのは、芋の蔓、芋の先端、筋張ってばかりの不味そうな山芋。
どれも決して美味しいと言えるものではありませんでした。
「あぁ、あぁ、そうだったのか。悪いことをしてしまった。すまない、すまない。」
弟を殺して初めて弟の優しさに気付いた兄は、後悔と悲しみのうちにとうとうホトトギスとなってしまいました。
そうしていつまでもいつまでも鳴き続けたのでした。
それ以来ホトトギスは
「掘って煮て食わそ 弟恋し(おととこいし)」
と鳴くようになったということです。

(27)民話 ホンドウタテタカ(本堂建てたか)@

 むかし、むかし。 あるところにお寺があって、和尚さんが一人で住まっていたって。
この和尚さん、お寺の本堂を建てたいと思っていたけどお金が無かったって。
 和尚さん、どうにかしてお金を集めたいと考えたけど、いい思案が浮かばなかった。縁側に座って思案していたら、そこへ、ほととぎすが飛んできた。目の前の木の枝に止まって、
 ? 庖丁(ほうちょう)欠けたか、 と啼(な)いた。
 和尚さん、 「ほととぎすめ、わしが刃の欠けた庖丁使うてるのを知ってるんじゃろか」というてなげいていたが、そのうち、ハタと気がついた。
「そうじゃ、おおい、そこのほととぎすどんやぁ。お前(め)は朝早うから働いてるから、お金がよっぽど貯まっとるじゃろうなぁ。

(28)民話 ホンドウタテタカ(本堂建てたか)A

 わしゃ、本堂を建てたいと思うとるんじゃが、欠け庖丁を使うくらい貧乏(びんぼう)なのはお前も知っておろう。そこで相談じゃが、少し寄進(きしん)してくれんかのう」
和尚さん、こう呼びかけたら、ほととぎすは、 「調子いい」と返事したと。
 「そんなら、貸してくれんかのう」というたら、「ほんなら、六月まで貸してやろう」というた。
和尚さん、ほととぎすからお金を借りて本堂を建てたと。
次の年の六月になった。けど、和尚さん相変わらず貧乏で、ほととぎすに返すお金が無いんだって。? ホンドウタテタカー、本堂建てたかぁ と啼いて、毎朝さいそくに来てるんだって。
滋賀の民話【金貸しほととぎす】

(29)万葉集 大伴家持の霍公鳥

万葉集での霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌 153首。
大伴家持が詠んだ歌が多い。 

暁(あかとき)に 名能里(なのり)鳴くなる 霍公鳥(ほととぎす) いやめづらしく 思ほゆるかも
<越中守大伴宿祢家持:『万葉集』四〇八四>

 卯の花の 共にし鳴けば 霍公鳥(ほととぎす) いやめづらしも 名能里(なのり)鳴くなへ <越中守大伴宿祢家持:『万葉集』四〇九一>

 ホトトギスが自分の名前を自ら鳴きながら飛んでいくという「ホトトギスの名のり」。

(30)正岡子規と時鳥@ 俳号 子規

正岡常規が「子規」と号したのは、明治22年5月9日に喀血した後です。数十句作ったというのもこの時です。(「啼血始末」中の「子規子」参照)

子規は、この年、ホトトギスを文献から集中的に集めています。題して「八千八聲」上下の大作です。俳句分類の始まりがここにあると考えられます。

「八千八聲 上」―中国資料をはじめとして、万葉集、八代集、家集、日記、狂歌、長唄、都々逸、など歌類
「八千八聲 下」―平家物語、菟玖波集、吾妻問答、新撰菟玖波集〜芭蕉・蕉門 の俳諧連歌、発句、狂句
上下二冊の稿本です。 改造社版「子規全集」第20巻に収められています

(31)正岡子規と時鳥A  喀血始末

明治22年(1889)5月9日 真砂町の寮で突然喀血 
翌10日、寄宿舎初代監督「服部嘉陳」送別会出席 帰寮後喀血
その後1週間ほど喀血続く。
「時鳥」の題で四,五〇句作る。子規と号す。
「卯の花をめがけてきたか時鳥」
「卯の花の散るまで鳴くか子規」

「八千八声鳴いて血を吐く時鳥」  子規『八千八声』

(32)おわりに

 「正岡子規→喀血→血を吐くホトトギス」と短絡的に捉えるのではなく、わが国のみならず中国、西欧での歴史的、文芸的な位置づけをも正当に理解して、初めて「ほととぎす」の真実に迫ることができるのではあるまいか。
ほととぎすの一声は、「生への予兆」であり、且つ「死への予兆」でもあり、南無阿弥陀仏の一声は生死を超克すると云えよう。
  郭公なかぬ初音ぞ珍しき     
  郭公なのるもきくもうたゝねの ゆめうつゝよりほかの一声 
一遍の連歌発句として、記憶しておきたい。