第526回例会(2016・12・12)
歴史的事実の「記憶」と創出される「伝統」
大本 敬久(愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員)
1 「伝統」と「集合的記憶」

民俗学界では一九九〇年代に「伝統の創出」に関する論議が盛んとなった。その先駆はホブズボーム『創られた伝統』(前川啓治他訳、紀伊国屋書店、一九九二年)と岩竹美加子『民俗学の政治性―アメリカ民俗学百年の省察から―』(未来社、一九九六年)である。ホブズボームは、「過去」が政治的変動や権力の移動により塗り替えられ、「伝統」も現在の政治的な目的によって創造されることを示し、特に近代的な国民国家論の中で「創出される伝統」論を展開した。従来、「民俗」が過去から連綿と伝承されてきた自明のものであるという一種の幻想を克服するために、近代においていかに変容・伝承されてきたのかを問い直す動きであった。
民俗学の創始者柳田國男が終戦後に「日本人」の自己認識を促す研究傾向を強めたのも、政治・
社会との関連で位置づけられる。柳田は日本人の一体性を強調するため『先祖の話』(一九四五年)を公表した。それまでの仏教式の六道輪廻、地獄極楽中心の死後観念から、日本人独自の死生観を抽出、提示し、さらに『海上の道』(一九六一年)では日本人の先祖が列島へ渡ってきた経路を、大陸南部から沖縄、日本列島へ広がったと主張したが、これは、沖縄を含めて日本が一つだということを強調する意図が垣間見えるものであった。
 「伝統」は一般的に過去と現在との間の文化的、社会的継続として理解される。自然の時の流れとともに連なっていると感じられるが、ホブズボームは、歴史的に脈々と継承されているとされる伝統は、多くの場合新しいもので、比較的短期間の間に成立したものであることを指摘し、また儀礼やシンボルを用いて巧みに演出されることにより、ある慣習と関連づけられ、伝統として定着するメカニズムを論じた。「伝統」が創出されるのは、多くの場合、政治的権力が移行した直後や、社会的状況が激変した場合が多く、「伝統」が現状にそぐわなくなれば、新たな「伝統」が創出されるとし、これを日本の歴史に当てはめれば、戦国時代から江戸時代初期、幕末から明治維新期、昭和二〇年代、高度経済成長期がその時期に該当するともいえる。愛媛県内の民俗芸能など「村」において伝承されてきた民俗の起源伝承が戦国時代もしくは幕末から明治時代初期に求められるのも、この社会的状況の激変による「伝統」の創出といえるだろう。
 「伝統」の持つ特徴としては「集団の安定化」が挙げられる。同じ集団(国・地域・家)の中で、共通認識としての「伝統」意識を有することは、集団内部の自己同一性を高め、集団は安定する方向に向かう。つまり、政治的権力の移行や、社会的激変期において「伝統」を創出することは、新たな社会集団を安定化させる手段といえる。江戸時代の幕藩体制の確立期、明治新政府の確立期、戦後復興に関する研究には「伝統の創出」という視点は有用であろう。ホブズボームの「伝統の創出」論は、近代国家と民俗との相克という土俵の上での研究であったが、もっと広く個人・家・地域を基礎とした議論も必要であり、「過去」・「現在」を「伝統」を通して考える場合の重要なキーワードに「記憶」がある。
実は「伝統」の創出も一種の「記憶」の一作用であり、集団によって記憶が構築される「記憶実践」と位置づけられる。これは「集合的記憶」であり、モーリス・アルヴァックスが提唱したものである(『集合的記憶』行路社、一九八九年)。「記憶」は集団を集団たらしめる接着剤としての要素を持っているとし、「記憶」を数種に分類している。一つは「実際の体験者の記憶」(一次的記憶)であり、二つ目は「見聞者の記憶」(二次的記憶)、そして「情報収集者としての記憶」(三次的記憶)である。これらは、別々に存在するものであるが、集団の中で物語化されることによって共有化されていく。これが「制度化された記憶」であり、ここに集団の中での伝承性の萌芽が見られ、これにある種の権力が作用することによって「伝統」として創出される場合がある。つまり、「伝統」は単に意図的に創出されるというよりも、個人と集団の間柄の中で生み出されるプロセスがあることに注目すべきことを指摘している。

2 「記憶実践」と「忘却実践」

現在、私の「記憶」についての関心は、災害や戦争の歴史的事実がいかに次世代に受け継がれていくかという点である(災害の記憶化のメカニズムについては近刊『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』二一号で公表する予定)。先に挙げた愛媛県内の民俗芸能も起源伝承が戦国時代の武将の慰霊をもとに始まったとする事例が非常に多く、戦争という歴史的事実を後世に「記憶」として伝承させる一種の装置として民俗芸能は機能しており、それは村落においての「集合的記憶」であるといえる。
同時代的な問題としては、太平洋戦争の体験(歴史的事実)をめぐる「記憶」は、民俗学における「過去」と「現在」の関係性を考察する上で、重要なテーマに位置づけられる。例えば、明治時代の日清・日露戦争の「記憶」・「伝承」は、もはや直接的聞き取りでの情報収集は不可能に近く、「記録」および、集合的記憶の媒介となる物質(モニュメント等)から、戦争の歴史が再構成されるのみである。戦争体験とは、戦闘行為のみならず、その時代を経験した各個人の体験も含まれる。当然、兵士を送り出した家族も戦争体験者であり、各個人の体験という事実は膨大な歴史的情報量といえる。これに対して、次世代に「記憶」として継承される情報量はごく一部である。歴史的事実の継承にあたっては、「語り」と「記録」がその媒体となる。その「語り」についても、「語られること」・「語られないこと」があり、戦争体験で言えば、「語りやすいこと」・「語りづらいこと」が明確に分かれる。また、公文書・メディアよる記録は膨大であるが、個人的体験の記録は、前者に比べて多くはない。すべての戦争体験者が自分の体験を綴るわけではなく、記録するのはごく一部の体験者である。また、 体験者の中でも差異が見られる。以前、愛媛県内の図書館に収蔵されている戦争体験記の一覧を作成したことがある。それは『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』(国立歴史民俗博物館、二〇〇五年)にて公表しているが、その一覧を作成してみて気づくことがある。元兵士、学生時代に勤労動員した方々、戦災に遭った方々の体験集は多いが、それに比べて戦争未亡人・遺児が直接語った体験集は少ない。戦争未亡人・遺児は、最も身近な人を戦争で失った悲しみを経験しており、しかも昭和二十年代後半までは国家補償もない状態での生活を余儀なくされた。この方々の戦争体験集が少ないのは、体験を綴るには、あまりにも現実が厳しく、書くに書けない、もしくは伝えるに伝えられない状況があったと察する。「語りづらい」、「記録しづらい」代表例だといえる。また、戦争体験記を執筆した年代を分類すると、昭和二〇年代には少なく、昭和三〇年代後半〜五〇年代前半に多いという傾向がある。これは遺族会や戦友会の活動の活発化や記念誌の発行が一つの要因といえる。歴史的事実のうち、個人の体験が「語り」「記録」化(個人史的記憶)されるのは、世代の交代による「記憶」の薄れへ の危機感が契機になる場合があるが、この時期の体験記の増加はそれにあてはまるといえるだろう。
「語り」は口頭伝承となって次世代に伝えられ、「記録」されたものも、後世に引き継がれ、やがて「歴史」として再構成される材料となる。しかし、それは歴史的事実の総体からいえばごく一部である。そして「語り」や「記録」された内容も執筆者個人の取捨選択により、「語られること」・「語られないこと(語りづらいこと)」、そして「記録されること」・「記録されない(記録したくないこと)」に選り分けられているのである。
 「伝統」は、国家などの権力による創出の側面があると指摘したが、個人レベルの体験・記憶・記録に関しても、様々な取捨選択が行われている。日清・日露戦争の場合、戦争体験は「ナショナルな語り」(国家による集合的記憶・制度化された記憶)によって歴史が再構成されている現状があるという印象があるが、「ナショナルな語り」に回収されない個人的体験の語り・記録も当然、存在する。歴史的事実の伝承(「記憶」・「記録」)は、国レベル・地域レベル・家レベルのそれぞれの次元があり、それぞれの存在の相互作用があることを忘れてはいけない。近年の戦没者祭祀の議論でいえば、祭祀を国家に回収することに力点を置き、地域や家が行ってきた戦没者祭祀との関係性の議論が希薄という印象がある。国家による戦没者祭祀が一種の「伝統」として国家によって創出されている側面も垣間見える。これは祭祀を対象とする民俗学に課せられた重要なテーマといえるが、同時に、戦争という歴史的事実が、集団的そして個人的伝承として後世にどのように「語り」・「記録」されていくのかという同時代的な動きを注視することも、民俗学の課題といえる。それは個人、そして集団による「 記憶実践」がテーマの中心になるといえるが、現在の戦争観・社会的状況や「語らない」・「語りづらい」体験を鑑みると、「記憶実践」とは逆に「忘却実践」という視点を強調した上で、これを歴史学・民俗学の中で概念化する必要があるのではないだろうか。「記憶」と「忘却」のはざまで、過去は再構成され、集団にとってあるべき「伝統」(言葉は悪くいえば「都合のよい伝統」)が創出されるのであり、今後は歴史的事実の「記憶」・「忘却」を国家・地域・個人の各レベルで考察する視点がますます重要となると考えている。