第525回例会(2016・11・21)
明治期の天徳寺
田中 弘道 (一遍会理事 )
明治維新・廃藩置県に伴ってなされた上知は天徳寺のような古寺に大きな打撃を与えた。奈良の興福寺の五重塔が売りに出された時代である。
「明治四辛未年五月、當寺十二世現住鵞山白 江西山天徳寺明細記」に「河野通宣、加藤嘉明、蒲生忠知、寛永十六年・・旧領主真常院御時代以来の寺領百石の内、半分現米五拾石去歳庚午十二月廃止相成申候」・・本山妙心寺宛の報告である。
太政官布告で現在の境内地だけを除き、外の社寺領を上地させたのである。さらに境内地も「民有の証ナキモノ」は官有地に編入された。廃藩置県により寺社領の法的根拠が失われ、地租改正によって全ての土地に地租を賦課する原則を立て、全ての土地に対する免税特権を廃棄することを目的としていたのである。
「明治二十五年一月 嘆願書 下書き」
「明治二十五年一月廿日 愛媛県知事宛嘆願書」
(佛殿、方丈、・修繕、再建ニ付下賜金願)に当時の状況が記されている。
「・・住職河野鵞山ハ自然負債ヲ相高メ明治十
年二月末寺景徳寺ヘ転居仕り因リ・・亦明治十九年暴風雨ノ為ニ伽藍建物多クハ破損転倒仕候・・(下書き)」
「・・残ル五拾石ハ山林免租地ヲ以テ給セラル(此山林ハ過ル明治九年地租改正ノ際当寺の所有リ除カシ方今官有地ト成レリ)・・・檀家モ十中ノハ九皆士族ニシテ大抵家禄ヲ奉還シ檀林ノ凋落亦極レル・・明治十年来殆ニド廃寺ノ惨ヲ現シ開山以来ノ宝物什器散失・・実ニ当寺ハ古 勅願道場トシテ中興本派開山大定聖應国師ノ遺跡・・時ナル哉回復ノ運来リ明治十六年来歴ノ正シキ古社寺御保存ノ御趣旨アル亊ヲ奉戴セリ・・・有志ノ輩躍然タリ因テ即ハチ従来所有ノ宝物目録及再興建築ノ絵図面並ニ将来維持ノ方法書等相添ヘ進達致候・・奉懇願候也・・(嘆願書)」
藩政改革、地租改正により、天徳寺の伽藍の維持は困難を極める。明治十年、寺は無住となり「寺什器宝物等散乱少なからず」の惨状を呈するにいたった。【慶長十七年臨済録抄 南源和尚教衆】などが流失したのはこの頃である。
この文書は幸いにも北鎌倉の「松が岡文庫」の所有となった。同文庫は鈴木大拙の発願に賛同する有志(石井光雄、岩波茂雄、安宅弥吉、小林十三、五島慶太ら)により昭和二十年に設立された。大拙博士の蔵書が中心でおよそ七万冊におよぶ貴重な専門書が収められている。安藤嘉則はこれら蔵書の目録整理作業中に「南源臨済録抄」を発見された。柳宗悦が収集し、松ヶ岡文庫に寄贈された佛書の中の一冊である。
天徳寺には古代寺院・弥勒寺伝承などを伝える多くの資料がある。大半は藩政時代中期以降に書かれたものである。臨済録抄は本来講義録であるが、面白いことに、その中で弥勒寺伝承を語っている。こうした臨済録抄の発見は、天徳寺伝承が慶長年間からあること、多幸山天徳寺から伝えられたことを示すものであり、天徳寺の由緒を考える上で貴重な文書である。
明治十九年、末寺、檀徒が協議を重ね、末寺の祖満和尚が天徳寺に在住し法務を務めることになる。彼の任務は廃寺の危機にある寺の経営を安定させる事であった。祖満和尚は岡倉天心の活躍など新しい時代の動きを感じ取り、そこに活路を見出していったのである。
以後、祖満和尚は「古社寺保存法」に期待を寄せた。

古社寺保存法(明治三十年六月十日)とは 
 第一条 古社寺ニシテ其ノ建造物及宝物類ヲ維
持修理スルコト能ハサルモノハ保存金ノ下付ヲ内務大臣ニ出願スルコトヲ得
第二条 国費ヲ以テ補助保存スヘキ社寺ノ建造物及宝物類ハ歴史ノ証徴、由緒ノ特殊又ハ製作ノ優秀ニ就キ古社寺保存会ニ諮詢シテ内務大臣之ヲ定ム・・・等の内容を含んだものである。
申請に当たっては、県、国を納得させる「由緒書、明細書」の提出が必要であった。その原典になるのが、
「明治二十四年十一月十一日 由緒書」である。
その末尾に「依願本山妙心寺ヨリ繁山祖満和尚住職ヲ命ス 同月十一日入院式ヲ執行ス」とあり、祖満が住職になった時作成されたものであることが分かる。作成の目的ははっきりしないが、内容は天徳寺の由緒である。
「多幸山天徳寺ヲ今ノ地ニ移サレ江西山
  天徳寺ト改メラレ以後由緒左ノ如シ」
など、章を明確にしていること、
「一 明治三年庚午藩政改革ニ付寺領廃止」
「一 同十九年乙戍八月三日鵞山和尚示寂後住之義法類末寺及檀徒協議数會ニ及フト明治三年以来寺宇衰癈□一方依テ復住之良法不□立末寺浄福寺前住祖満和尚ニ依頼シ在住シテ法務ヲ勤ム」 など、箇条書きを徹底していること、古文書の引用を良く用いることなどの特徴を有する。特に幕末明治期の記録は他に例がなく貴重である。
由緒作成に当たっては、何を撰び出し、何を選び出すか、如何に書くか、歴史観が重要である。・・歴史観、価値観は二十年前に書かれた鵞山の明細記とは明らかに違う。祖満和尚は先人から引き継がれてきた寺の由緒にも見直しを行い、修正することを厭わない、明細帳では箇条書きを徹底するなど、分かり易い表現を用いている。こうした彼の姿勢、性格が、明治という激動の時代に天徳寺を復興させた要因のひとつであろう。
古社寺保存法に向けての申請作業は数年間に渡って行われ、その間に作成された複数の「由緒書(申請書)、明細書(添付資料)」が天徳寺に残されている。寺の歴史を研究する上で貴重な資料になっている。・・明治三十年五月二十八日に認可を得ることができた。

申請書・最終版と思しき資料を紹介する。
「 當寺者 人皇三十四代 推古天皇御宇四年即法興六丙辰歳冬十月念五日 勅詔厩戸皇子當伊豫国ヘ行啓アリ葛城大臣並高麗国ノ高僧恵慈恵總ニ大法師等モ扈従而當国司散位大夫乎智宿祢益躬に令旨アリシカシテ熟田津就田津飽田津乃三津に三大伽藍ヲ草創即当寺ハ斯一ニシテ伊與邑石湯ノ奥餘戸谷ヱ建設在処ノ天徳山弥勒寺ノ後ナリ抑日本全國四十六ケ寺ノ一ニ列スル処ノ勅願所ニシテ国家鎮護ノ霊場ナリ・・・」
明治六年の地租改正条例に基づく官民有区分では祭典・法要に必要な境内地も「民有の確証」のないものは官有地に編入された。昔からの慣習に基づいて土地を利用していた社寺にとって非常に厳しかった。
明治三十二年の「国有土地森林原野下戻法」は、その行過ぎを是正し「民有の証」があるものについては下戻処分により元の所有者に返還する処理を行うものであった。天徳寺は明治二十六年に一度払下願をして却下された経験があり、天徳寺の対応は早かった。申請を行い、明治三十八年に聞届けられた。以下に天徳寺の動きの一端を以下に示す。
【明治廿六年上地官有地所払下願 却下  】
【明治三十三年頃 上地山林下戻申請書却下】
【明治三十六年十月 境内地編入願    】
【明治三十八年三月内務省指令
境内編入ノ件聞届ク  】
【明治三十八年 社寺明細帳記入届    】      
【明治四十一年 不要存置国有林払下願  】    
【明治四十一年 山林伐採並びに果樹植付願】  
【明治四十二年 寺有山林藪現在届    】
【明治四十二年 得能通義檀徒総代選任届 】     
【明治四十四年 宝物境内外出陳認可願  】    
【明治四十四年 宝物、古文書、
古建造物調査書届  】
【明治四十四年 佛堂建物整理調査届   】     
【明治四十四年 山林地開墾上申書     】 
 
 祖満和尚の単独の編纂物も一部あるが、、申請書などは住職・祖満と檀家総代の連名で行われる。檀家総代は山本、宇高、奥平などの旧藩士である。異色の存在は得能通義である。彼は明治二十五年から天徳寺の事務方の仕事をしている。明治四十二年に檀徒総代に任命される。それまでは彼の仕事は裏方であり、檀家総代不在の時、代印を押すことはあったが、普通は彼の名が出ることはない。彼の存在は明治四十四年まで確認できる。
大正三年三月廿三日  得能通義 
大量院直翁通義居士没
大正六年九月二日 繁山祖満
前住當山萬谷祖満長光禅師