第529回例会(2016・3・12) 一遍と子規 今村 威 (一遍会 理事) 一遍(一二三九〜一二八九)と子規(一八六七〜一九〇二) は、鎌倉時代、明治時代という歴史の変革期に生きて、新しい文化の創成に生涯を捧げ、完全燃焼して一生を終えたことで、共通している。しかも死後に於いても、大きな影響力を発揮していることも似ている。さらにまた、文化創成の手法までが、同じなのである。 1 一遍の文化活動 よろづ生(いき)としいけるもの、山川草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。 (一遍上人語録巻上「興願僧都、念仏の安心(あんじん)を尋(たづね)申されけるに、書(かき)てしめしたまふ御返事」より) 詩人坂村真民が最も感動した一遍の言葉である。真民は、『一遍上人語録 捨て果てて』の中で、この境地を「子守歌を歌ってくれる母親の懐に抱かれた赤ん坊の安心しきった境地」に喩えている。そして「これこそが仏国であり、浄土であり、わたしたちの願う平和なのである」といっている。 一遍は、戦乱という迷妄の世界に苦しむ総ての人を救うために、「南無阿弥陀仏 必定往生六十万人」の念仏札を配って、北は奥羽の江刺から、南は九州の大隅まで遊行した。 この総ての人に働きかける手法に合わせて、一遍にはもう一つ、個性の尊重という考え方があった。 自受用(じじゆゆう)といふは、水が水をのみ、火が火を焼がごとく、松は松、竹は竹、其体(そのてい)をのれなりに生死なきをいふなり。 (一遍上人語録巻下一四) 「自受用」とは、薬師如来が、総ての人の病を癒すはたらきによって、薬師如来であり、阿弥陀如来が、総ての人を極楽に往生させるはたらきによって、阿弥陀如来であるというように、そのものをして、そのものたらしめる、はたらきのことである。 「其体をのれなりに」とは、そのものが、そのものならではの、はたらきをしている有り様(よう)のことである。「生死なき」とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)の迷いの世界を、生きかわり、死にかわりして、いつまでも迷妄の世界から脱却できない状態ではない境地、つまり悟りの世界に生きることである。だれしもが、己をして己たらしめている本性を、世の中のために活かして生きることこそが、迷いのない世界に生きることであるという一遍の教えは、一遍死後の室町時代に、阿弥衆、同朋(どうぼう)衆といわれるプロ集団を生み、今までとは違って、庶民が文化の担い手となった、新しい文化の創成へと発展した。 能、立花(生け花)、俳諧、茶道、作庭など、今日わが国が、これこそ日本の文化であると、世界に発信しているもののほとんどは、室町時代の阿弥衆、同朋衆たちによって、創成されたものである。一遍は、個性を尊重することで、すべての人が平等に迷いなく生ききる方法を教えてくれた。 2 子規の一遍観 子規の「散策集」明治二十八年十月六日の項に、 松枝町を過ぎて宝厳寺に詣づ。ここは一遍上人御誕生の霊地とかや。古往今来、当地出身の第一の豪傑なり。 と記されている。 子規が一遍について述べているのは、これだけである。子規が、一遍の教えを、どれだけ理解していたかは判らない。 「日本国語大辞典」(小学館)で、「豪傑」の項を引いてみると、 「[豪傑]@才知または武勇のひじょうにすぐれているさま。また、その人。いさおしひと。」とあって、文例として「読本・椿説弓張月―拾遺・四七回『御曹司は世の豪傑なり。いかでか匹夫の勇をもて、これを試み給ふべき』と、琉球王朝の忠臣陶松寿が、源為朝(このとき為朝は、琉球に漂着したことになっている)を評した言葉が引かれている。 子規は幼少の頃から、貸本の「読本」など講談ものを読むのを好んでいたので、この引用文も知っていたであろう。子規の「古往今来、当地出身の第一の豪傑なり」と『椿説弓張月』の「世の豪傑なり」とは言い回しも似ている。子規の一遍への理解は、この程度であったのかも知れないが、文化活動の手法は、とてもよく似ている。それを、「俳句の革新」と「写生文の創成」からみてみよう。 3 子規の文化活動 俳句の革新 子規が、「季語」という、自然との接点を重んじる俳句に専念したことは、興味深いところである。一遍に言わせれば、俳句を作ることは、「山川草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」の境地に遊ぶことであると言うかも知れない。 子規が生涯をかけた「俳句分類」の一つに、「俳家全集」がある。これは、室町末期から江戸末期までの俳人一三三人の俳句約二万二千五百句を、時代別俳人別に分類したものである。子規はこの作業を通して、短詩型の俳句にも、時代性と個性があることを確信した。 明治二八年、子規が、漱石の下宿「愚陀仏庵」に帰省して、松山の俳人結社「松風会」の会員を相手に、俳句革新運動を開始したとき、テキストに用いたのが、この「俳家全集」である。ここで子規が唱えた俳句革新の核は、「写生」(この時は「写実」といっていた)である。 「写生」とは要するに、「自分の目で見て、自分の心に感動したものを、自分の言葉で表現する。しかも誰しもにもわかるように」という「個性(おのれ)」を尊重するものである。 写生文の創成 子規の業績の最大のものは、写生文体の創成であろう。子規は、「誰もがどんな目的にでも用いることの出来る文体」を求めて、全国の文学愛好者に、雑誌「ホトトギス」を用いて、日記という形の写生文を募集する。明治三三年十月の「ホトトギス」第四巻第一号から始めて、二年間に、国から、採用されただけでも一六六編の応募があった。 例えば、 ○土佐国室戸崎灯台職員の「灯台日記」 八日 前零時、号笛で起され、夜間第三当直を勤む。今夜は空気の疎通が多すぎるので火口(ほぐち)ボウくくと鳴り燈火振動す。抑揚弁を捻って少し塞ぐ。燈火鮮明定度に復す。二時気象観測をする。 ○はるの「縫物日記」 六日 晴れ。風有り。夜に入りて夕立あり。朝八時にゆきて十一時にかへり、後十二時にゆく。きのふの羽織をくけ上げて圧(おし)をかけておく間に、巾着の型とりて裏うちもなしはて、針さしの掃除などしてしばらく友を待ち合わせ、四時に皆とつれだちてかへる。 このようにして、子規自身も含めた、全国の文学愛好者たちが、切磋琢磨を重ねた結果、今日我々が駆使している「だれもが、どんな目的にも用いることができ、誰にでもわかる文体」が創成された。このだれもが平等に享受できる文化の創造を願った点も、一遍と共通している。 一遍と子規が、一人一人の個性を尊重し、総ての人々が支え合って、平等に幸せを享受できる文化を、創成していった手法を、われわれは、よりよき世の中を実現するために、活用し続けなければならない。 第529回例会(2016・2・13) 田中冬二の叙情 堀内 統義(日本現代詩人会会員) 田中冬二(明治二十七年〜昭和五十五年)は籠居の詩人ではないか。旅の詩が多い冬二をそう呼ぶことに矛盾はないと考える。臥遊の詩人といってもいい。ひとり自分の心に坐し、籠もって空想にふける。彼の詩の本質には、そうした傾きが見られる。 代表的な作品を読んでみよう。 ふるさとにて ほしがれひをやくにほひがする ふるさとのさびしいひるめし時だ 板屋根に 石をのせた家々 ほそぼそと ほしがれひをやくにほひがする ふるさとのさびしいひるめし時だ がらんとしたしろい街道を 山の雪売りが ひとりあるいてゐる 少年の日郷土越中にて 白く乾いた街道。板ぶきの屋根に石をおいた家々が、ひっそりとつらなっている。がらんと人気ない気配がわびしい。山の雪売りが歩く昼飯時であるというのに、ここに注ぐ光は弱い。夏とも思えない光線、光量の乏しさではないか。 越中は彼の両親のふるさと。冬二はそこで暮らしたことはない。 冬二は七歳で父を喪う。父は明治財界きっての傑物安田善次郎の知恵袋、懐刀といわれた人物。安田銀行の東北への勢力扶植推進を担って秋田にあったが急死したのである。 東京に在住する母方の祖父・太田弥五郎の強い希望で残された冬二一家は東京へ。 この太田弥五郎の妻、つまり母方の祖母は安田善次郎の妹。 ところが、冬二が十二歳の晩秋、母も病に倒れて死別するのである。幼い弟や妹はそれぞれ縁を頼って親族に引き取られ、離ればなれに。彼は母の弟安田善助に引き取られる。 冬二の全集年譜には、幼い頃作文に才を示すとあるが、こうした生育環境下、孤独で精神的な飢えを心中に堪えた少年は、それを埋める空想癖を養い、それが作文の才に反映しているといえよう。そのように生きたからこそ、詩人田中冬二が形成されたのだ。ひとり自分の心に坐し、籠もって空想にふけった少年時代は、いつまでもこの詩人の基層に確固として存在したのだ。 もうひとつ代表作を読もう。 青い夜道 いつぱいの星だ くらい夜みちは 星雲の中へでもはひりさうだ とほい村は 青いあられ酒を あびてゐる ぼむ ぼうむ ぼむ 町で修繕した時計を 風呂敷包に背負つた少年がゆく ぼむ ぼむ ぼうむ ぼむ・・・ ・・・ 少年は生きものを 背負つてるやうにさびしい ぼむ ぼむ ぼむ ぼうむ・・・ ・・・ ねむくなつた星が 水気を孕んで下りてくる あんまり星が たくさんなので 白い穀蔵のある村への路を迷ひさうだ この作品では、冬二の詩の大きな特徴である「悲しみ」や「寂しさ」という要素が、絵画的にあるいは音楽的に均衡、調和し、もっとも輝かしい諧調に彩られて、ここに祝福されている。 「あられ酒」とは、もち米の粕が溶けきれずに、あられのようにまじっている味醂酒。みぞれ酒ともいう。 星空をいただく遠い村への眺望、清澄な山気と、その星明りに村がとけあっている。少年の孤独な思いそのものとして、時計が幻聴のように「ぼむ ぼむ ぼうむ ぼむ ・・・ ・・・」と、ものがなしく鳴る。 歩き疲れ眠気に襲われる少年。はたしてこの道はどこまでつづくのか。不安に包まれ、村への路に迷いそうになる。 ここに描かれている景色は、彼がつくりあげたイリュージョン。幻想ではあるがゆえに読者だれもの胸を、青い風のように吹き抜けて小さな物語を紡いでいる。 くずの花 ぢぢいと ばばあが だまって 湯にはひつてゐる 山の湯のくずの花 山の湯のくずの花 黒薙温泉 昭和三年七月から銀行が、土曜日の半休を実施。銀行員であった冬二は、その恩恵による時間を小さな旅にあて詩の制作に励んでいる。 黒薙温泉は、越中の黒部渓谷から一寸側に入った谷間にある。俳画のような温雅静閑の詩情。越中は仏教の盛んな地域。何ごとにも南無阿弥陀仏を唱える。この老夫婦も湯に浸かりながら念仏を唱えたであろう。それは省略された。「だまって」というのはそのあとの心のやすらぎといえる。 ひなびた山村、山間の温泉への旅を重ねる冬二。旅という動的な側面と、周縁の山村や温泉場に籠もり、自らの孤独に耳を傾ける静的な側面との不思議な共存。「くずの花」のぢぢいとばばあの湯は、冬二の夢想を育て揚げる小宇宙。くずの花は冬二にとって聖痕ともいえる。 この田中冬二が若いころ憧れたのが越智水草。立教中学時代、早稲田の英文学科進学を夢見たが、家庭の事情で果たされず銀行員に。 山陰出雲今市に赴任した下宿の自室を「草愁詩社」と名づけたが、それは冬二がもっとも愛した越智水草の名作『草愁』にちなんだこと。 「文章世界」「中学世界」の投書家中の俊秀であった越智水草は、松山子規会会長をつとめ、『子規歳時』など多くの著作がある若き日の越智二良氏である。 |