第524回例会(2016・10・10)
一遍の師・聖達上人と伊予河野氏
三好 恭治 (一遍会理事 )
一、 はじめに
 時宗(時衆)の祖である一遍智真は、浄土教の始祖法然上人の曾孫弟子に当たる。法系図(「法水分流記」「浄土法門源流章」)によれば、法然の直弟子が証空(浄土宗西山派)、証空の弟子に聖達、華台、如仏(河野通広 一遍父)、聖達の弟子に聖観(聖達実子)、一遍、仙阿(時宗宝厳寺派祖)、聖戒(時宗歓喜光寺派祖)が続いている。一遍の父如仏は法然の孫弟子に当たる。
 一遍に浄土教を教授した聖達上人について、既に公表されている文献と、聖達が入寂した「原山松岡院知恩寺」の由緒譚から、一遍の師・聖達上人と伊予河野氏の縁を訪ねてみたい。

二、「一遍聖絵」による聖達上人と一遍
「一遍聖絵」には、聖達門への入門から熊野の神託を受けた一遍の再々訪までの三箇所が描かれている。

(一)第一巻@ 建長三年(一二五一)
 建長三年の春、十三歳にて、僧善入とあひ具し、鎮西に修行し、大宰府の聖達上人の禅定にのぞみ給ふ。上人、学問のためならば、浄土宗の章疎文字よみをしてきたるべきよし、示し給ふによりて、ひとり出て、肥前の国清水の華台上人の御もとにまうで給ひき。
上人あひ見て、「いづれの処の人、なにのゆゑにきたれるぞ」と問ひ給ふに、事のおもむきくはしくこたへ申されければ、処の上人、「さては、昔の同朋の弟子にこそ。往事のまだわすれず。旧好いとむつまじ。さらばこの処に居住あるべし」とて、名字を問ひ給ふに、随縁と申すよし答へ申し給ふに、「随縁雑善恐難生」といふ文あり。しかるべからず」とて、智真とあらため給ひき。
さて、彼の門下につかへて、一両年研精修学
し給ふ。天性聡明にして、幼敏ともがらにすぎたり。上人、気骨をかゞみ、意気を察して、「法機のものにはべり。はやく浄教の秘蹟をさづけらるべし」とて、十六歳の春、又、聖達上人の御もとに、おくりつかはされ給ひけり。

(二)第一巻A 弘長三年(1263)から数年後  
 建長四年春のころより、聖達上人に随逐給仕し給へり。首尾十二年、浄土の教門を学し、真宗の奥義をうけ給ひし程に、弘長三年癸亥(みずのとゐ)五月廿四日、父如仏帰寂の時、本国に帰り給ひぬ。(略)「しかじ、恩愛をすてゝ無為にいらむには。たゞし、いま一度師匠に対面のこゝろざしあり」とて大宰府へおもむき給ふあひだに、聖戒も出家をとげて、あひしたがひたてまつりき..。

(三)第一巻J 建治二年(1276)
 国中あまねく勧進して、いづちともなくいで給ひぬ。次の年、又事のゆゑありて、予州をとほり九州へわたり給ひて、聖達上人の禅室におはしたりければ、なのめならず悦び給ひて、わざと風呂結構して、たゞ両人いり給ひて、風呂の中にて仏法修行の物語し給ひけるに(略)

三、 聖達上人と一遍の父・通広

 建久三年(一一九二)源頼朝が征夷大将軍となり源平の戦いで勲功のあった伊予の河野氏の統帥河野通信(一遍の祖父)は幕府の重臣として迎えられたが承久三年(一二二一)の承久の乱では鳥羽上皇方に組し敗北、通信は江刺に流罪となり、伊予の河野領はすべて幕府により没収された。その子通広(一遍の父)は京で浄土門(証空門下)の修行中であり災難を逃れた。修行中に聖達や華台との接点(「昔の同朋」(『一遍聖絵))があった。(病気説もある)
 嘉禄三年(一二二七)の「嘉禄の難」以降、通広は京を離れ伊予に向かったと思われる。一方、師である証空は奥州へ弘法の旅に出て、「同朋」の聖達は京に残ったが、嘉禎二年(一二三六)以降証空の命により伊予へ弘法に赴く。伊予の拠点は府中のあった今治(桜井)と推定されるが、ここで川野執行の寡婦と再婚している。「川野」は河野であり「執行(しぎょう)」は河野氏の氏神である大三島神社の神宮寺の上首として寺務を行う僧職であったと推量される。川野執行と通広は河野一族として縁戚であり、通広も執行を頼って府中に着ており、聖達と再会したものと思われる。川野執行の妻は薩摩国地頭伊集院某氏の女であり、聖達は隣国の肥前国藤津荘地頭の出身であり両家が遠縁であったとも考えられる。その後、聖達は川野執行の子(題意・通教)を養子とし、妻子を連れて大宰府三笠郡の弘西寺に移る。
後年、通広の子である一遍が成長し、『一遍聖絵』によれば、建長三年(一二五一)に「僧善入とあひ具し、鎮西に修行し、大宰府の聖達上人の禅定にのぞみ給ふ」ことになる。近世初期に成立した『一遍上人年譜略』によれば、この年、通広(出家して如佛)が「同朋」の聖達を僧善入を伴って尋ねており、一遍一行は出掛けていない。真偽は現在では確かめられていない。聖達上人と一遍は父通広を通じて、「同朋の子」として、「河野氏の子」としての縁により強く結ばれていたのは歴史的な事実と云えよう。

四、聖達上人の生涯
 元久元年、肥前国藤津郡古枝村通山(現・鹿島市)で誕生する。藤津郡地頭大村一族の総領家の嫡子で、幼名は託羅丸という。幼時に母を亡くし、近隣の菩提寺で得度した。承久三年十六才で京都西山華台往生院の善恵房証空に入門し、証空門下の法興房浄音に預けられる。
嘉禄三年(一二二七)の「嘉禄の難」により証空は門弟を連れて奥州に弘法の旅に出るが、
聖達は往生院に残留する。その後、証空の命を受け、伊予国を弘法し、川野(河野)執行(詳細不明)の寡婦と再婚、執行の息子道教(通教ヵ)を継子とする。この時期に、河野通広(一遍の父)と再会していると考えられる。
 宝治元年(一二四七)証空は示寂するが、その頃に聖達は筑前国正覚寺から大宰府三笠郡弘西寺に移っている。原山寺とは別寺である。建長三年(一二五一)から聖達の元で10数年修行することになる。
 文永六年(一二七〇)六七歳で肥前国藤津郡古枝村(現・鹿島市浜町)に帰郷、「原山知恩院」に入る。開山は聖達、第二祖は継子聖恵(詳細不明)である。建治二年(一二七六)一遍の再訪時に、継子聖恵は一遍の遊行に同行する。
弘安二年(一二七九)七六歳で原山松岡院知恩寺(はるさんしょうこういんちおんじ)で入寂している。寺の山号は、聖達上人が滞在した大宰府原の地名と肥前国藤津郡の大村一族の氏神・松岡権現からとり命名したと云われる。

五、一遍の遊行と聖達上人継子聖恵 

 聖達の継子聖恵の詳細は不明であるが、伊予国の河野執行の息子である可能性は否定できない。聖達は執行の寡婦(薩摩国地頭伊集院某氏の女)と再婚するが、継子とした息子は道教(通教ヵ 法名題意)しか判明しない。数名の男児がおり、それらを継子として引き取ったかもしれない。
「原山松岡院知恩寺由緒譚」によると継子聖恵は建治二年(一二七六)に一遍に同行しているが、『一遍聖絵』では建治元年(一二七五)に伊予国から九州に渡り聖達上人の禅室を訪ねている。「由緒譚」では文永六年(一二七〇)に肥前国の「原山知恩院」に入山している。通説は大宰府の禅室である。
 豊後国の守護大友兵庫頭頼泰の帰依もあり二年余九州に滞在し、「他阿弥陀仏はじめて同行相親の契りをむすびたてまつりぬ。惣じて、同行七八人相具して、弘安元年(一二七八)夏の此、与州へわた」(『一遍聖絵』)っており、「由緒譚」の記述とは全く矛盾しない。
継子聖恵が一遍遊行同行七八人の一人であれば「時衆過去帳」(遊行寺)に記載されている可能性もある。

六、おわりに
本拙論は一遍会例会卓話(平成二七年九月)の講述である。現地(鹿島市浜町 原山松岡院知恩寺)での調査は未実施である。
『一遍聖絵』『一遍上人年譜略』『宝厳寺蔵 河野系図』(平成二五年焼失)と「原山松岡院知恩寺由緒譚」を現地資料として活用した。「由緒譚」については福岡在住の山村信明氏論文と大宰府史跡解説員の杢尾幹雄氏論文による。拙論への引用、掲載を許可頂き厚く深謝します。併せて、橘俊道・梅谷繁樹共著『一遍上人全集』(春秋社二〇〇一)をテキストとして用いた。