第523回例会(2015・9・12) 一遍の法歌 〜捨・遊・法〜 三好 恭治(一遍会 理事) 一、はじめに 時宗の開祖といわれる一遍上人(1239〜1289)は、遊行聖、捨聖、湯ノ聖、医ノ聖、市ノ聖として広く世に広まった。「歌ノ聖」として 一遍聖に言及した著述は管見では知らない。一遍上人(以下一遍と表記する)の遺した法歌は、九八首(または百首)あり、うち二首(または四首)勅撰和歌集「玉葉集」に撰ばれている。一遍の後継者(二祖)である他阿真教は「読み人知らず」として、法弟である聖戒は「聖戒法師」として各一首選ばれている。 聖戒が編した『一遍聖絵』には六十首の和歌がり、うち五三首は一遍の歌である。優れた歌人でもあった二祖他阿真教が『一遍聖絵』制作に当たり聖戒に協力したとも云われている。 一遍にとって「法歌」は布教(賦算)にあたっての言語ツールであり、和歌を通して、貴族、寺社(禰宜、住持)、文化人、時衆との「場」「時」「念仏」の共有・共感・共生した言語コミュニケーションであったと考える。「和歌陀羅尼」として、鎌倉期には和歌もまた仏道の道として是認(連歌も同様)されていた。 二、鎌倉期の新仏教と顕密体制 鎌倉新仏教は顕密体制(奈良仏教―顕教と天台宗・真言宗―密教)下にあって、新たに誕生した仏教である。天皇、貴族らの権門に支持された旧仏教とは違い、武力により権力を握った武士層や富を蓄えつつあった町人、農村に支持された。 主な鎌倉新宗教には自力救済の禅宗(臨済宗・曹洞宗)・日蓮宗と、他力救済の浄土教(浄土宗・真宗・時宗)がある。中でも一遍の時衆(時宗は時衆の江戸期の名称であり、以後「時衆」とする)は、他力本願で「南無阿弥陀仏」を念仏し、先行する新仏教とは違い非定住民(山人・海人・遊民・被差別民・乞食など)が多く帰依した。地方の開発領主も顕密体制下の既存仏教を支援せず、鎌倉新仏教を支援した。 三、一遍の思想と行動(捨・遊・法) 一遍時衆を特色付ける信仰形態として「神祇崇拝」があり、一遍は各地の地神(地祇)や鎮守社(八幡社)を崇拝した唯一の日本仏教の開祖者である。同時に和歌(法歌)を詠んだ数少ない開祖者(他に道元がいる)で、和歌のほかに連歌にも一遍の句が残されている。 (注)「郭公なかぬ初音ぞ珍しき 一遍」(『菟玖波集』1367) (1)捨 家 棄 欲 ○空也上人は我先達なり。始四年は身命を山野にすて、居住を風雲にまかせてひとり法界をすすめ給き。おほよそ済度を機縁にまかせて、徒衆を引具給といへども、心諸縁をはなれて、身に一塵をもたくはへず、一生つゐに絹綿のたぐひ、はだにふれず、金銀の具手にとる事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠を全し給へり。 ○念仏の機に三品有り。上根は、妻子を帯し家に在りながら、着せずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食とを帯して、着せずして往生す。下根は、万事を捨離して、往生す。我等は下根のものなれば、一切を捨ずば、定て臨終に諸事に著して往生をし損ずべきなりと思ふ故に、かくのごとく行ずるなり。 ○衣食住の三は三悪道なり。衣裳を求(め)かざるは畜生道の業なり。食物をむさぼりもとるは餓鬼道の業なり。住所にかまふるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住をはなれるべきなり。 (2)遊 行 (賦算 踊念仏 法歌) @遊行(非定住) ○旅衣木のねかやのねいづくにか |