522回例会(201588

河野氏の遠祖を語る  〜河野氏は本当に越智姓か?〜

八束 武夫(一遍会 会員)

 

一 はじめに 

河野氏は一般に越智氏から出たとされているが本当だろうか。このような素朴な疑問から興味をもちはじめ、河野氏の遠祖を尋ねる時間を重ねた。その結果、「河野氏は伊予郡を本拠とする凡直氏(おおしあたいうじ)一族の裔であるが、浮穴郡を経て風早郡河野郷で発展した開発領主である」という結論を得た。

この結論を得るにいたった考察を、つぎに述べてみたい。

 

二 古代の社会

 本論の理解を助ける範囲で古代社会の初歩的な用語を簡単に説明しておこう。

古い時代の事ははっきりわからないことが多いが、三世紀に前方後円墳が全国的に広まっていることから、おそらく、この頃畿内周辺の豪族連合の盟主が大和に擁立されて、初期の王権を形成していたのであろうとみられている。これを初期国家段階の「前方後円墳国家」と呼んでいる。この時代は、祖先(氏神)を同じくする擬制的な血縁集団の「氏(うじ)」を単位とし、豪族は大和王権内での地位や職掌を表す称号として「姓(かばね)」を与えられていた。「氏(うじ)」と「姓(かばね)」を重視する社会だったのである。「姓」としては、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)や直(あたい)などがあった。地方の豪族は、その地方の支配を認められ「国造(くにのみやつこ)」の称号と、多くは「直(あたい)」の姓を与えられていた。「国造」は六世紀頃になると、改編されて「評造」「評督」となり、律令制下では、「郡司」に編成された。

七〇一年には唐の律令に倣って「大宝律令」が制定され律令によって政治がおこなわれるようになった。いわゆる「律令国家」の成立である。これにより、地方は国ごとに国司が中央から派遣されて治めた。国司の下には、郡ごとに郡司がおかれ、国司の統治を助けた。郡司はかつての国造家から優先して採用されていた。中央集権政権でも、下部組織は地元の豪族に頼ったのである。

 

三 「河野氏=越智姓説」を振り返る

 通説では、「河野氏は越智国造(おちのくにのみやつこ)の小致命(おちのみこと)から出た越智氏の系統」といわれている。

その根拠として、(ア)『予陽河野家譜』に「河野越智姓」と自称している。(イ)鎌倉幕府の『吾妻鏡』に「伊予国の住人河野四郎越智通清」と認めている。(ウ)「河野氏の系図」に小致命が記載されている。ということがあげられる。アイは分かるとして、ウの「小致命」とは何者であろうか。平安時代初期に物部氏の伝承をまとめた『先代旧事本記』によると、「小市(おち=越智)国造は軽島豊明朝(応神天皇)の御世に物部連と同祖大新川命の孫子致命(小致命)を国造に定め賜う」とあり、物部氏の系図によれば、饒速日尊の一〇世孫に小致命がある。それゆえ、河野氏は物部氏の小致命(越智命)から出た越智氏であることが立証されるというのである。はたして、この推論は成り立つであろうか。たしかに、系図には「小致命」が組み込まれているが、それを根拠に越智氏の裔だといえるであろうか。

 

四 河野氏の系図を見直す

すでに、浅山圓祥氏は『一遍上人六條縁起』で、要約すると次のような説を立てられている。

ア 越智氏と河野氏は別系統

イ 河野氏の本拠は伊予郡