521回例会(2015711

明日香村小山田遺跡と菖蒲池古墳

飛鳥時代前期の古墳と蘇我氏)

前園 実知雄(奈良芸術短期大学教授)

 

 平成二十七年一月十六日の全国紙一面に、奈良県明日香村で新しい遺跡が発見されたことが大きく報じられた。四十年余り前の高松塚古墳の壁画発見以来、飛鳥時代の都のあったこの地域では、今までの古代史の常識を覆すような発見が数多くあった。

 なかでも今回の調査結果は、私たち研究者にとっても大きな驚きであり、また飛鳥時代を考

えるうえで貴重な情報をもたらしてくれた。甘樫丘から南に延びた丘陵の南端で、飛鳥の小さな盆地の西の入り口部に当たる尾根の先端部は、

現在奈良県立明日香養護学校の敷地になっている。今回その教室棟の建て替えに伴う発掘調査が行われ、私たちが予想もしていなかった、大規模な石敷きの東西方向の濠状の遺構が見つかったのである。

 

 調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所の関係者や報道機関には、前年の十二月二十四日と翌二十五日の二日間、事前の説明があり、私もその時初めて遺構に対面した。人頭大の石を斜面と底に敷き並べた状況を目にした時、私の頭に最初に思い浮かんだのが、ここから東南約二キロのところにある石舞台古墳の貼石を施した濠だった。石舞台古墳は一辺約五十メートルの巨大古墳だが、今目の当たりにしたものが、同様な施設だとしたら遙かにそれをしのぐ規模だ。

 

 建物が建つ前の地形図を見ると、わずかではあるが一辺五十メートルを超える方形に回る等高線が確認できる。

 立地と遺構の状況から考えられる最も可能性が高いものは、終末期(七世紀)の大方墳の周濠の一部だろう。遺構の西側部分の貼石の下部の造成土の中には六世紀後半の土器片が見られ、濠の埋没時に流れ込んだ堆積土には七世紀後半の土器が含まれていた。そのことから考えると、この遺構を建設した時期は、七世紀前半から中頃で、その機能を終えたのは、比較的早い七世紀後半ということになる。

 

 この遺構を古墳と考えると、墳丘側にあたる南側の構造は大きく異なっており、室生安山岩や結晶片岩の板石を加工したものを積み上げていることである。しかし、上部が削られてしまっているためその石積みがどこまであったかは分からない。この室生安山岩は一般的には「榛原石」と呼ばれ、板状に加工し古墳の石室や寺院基壇の築成に用いられることが、飛鳥時代に入ると行われるようになる。しかし八世紀の奈良時代以降はそのような使用法はなくなってくることから、この石材を多用する建造物は飛鳥時代、それも七世紀中頃を中心とした時代に多いことが知られている。

 この石材を用いた石室は、原産地の室生から飛鳥に通じる古道沿いに点在することから、私たちはこれを「磚槨墳の道」と呼び、調査を行ってきた。その結果、ほとんどの古墳が七世紀中頃に集中して築かれたものだということが分かってきた。

 

 いっぽうでこの石材を古墳の墳丘の裾に積んでいる例もある。それはこの道沿いの桜井市忍坂にある、舒明天皇押坂陵に治定されている段ノ塚古墳である。この古墳の石積みと、小山田遺跡のそれに共通する点があるということと、舒明天皇は十三年(六四一)十月に百済宮で崩御した後、皇極元年(六四二)十二月二十一日に滑谷岡(なめりはざまのおか)に葬られるが、九ヶ月後の皇極二年九月六日に押坂陵に改葬された、という『日本書紀』の記事に照らしあわせて、この小山田遺跡が舒明天皇の初葬地であるとの見方が、調査を担当した橿原考古学研究所から出され大きな話題となった。

 

 しかし、私はそれとは違った可能性を考えている。小山田遺跡のある丘陵は、先にも述べたように飛鳥の盆地の北西にある甘樫丘から南に延びる丘陵の先端部に位置している。この南北の丘陵は、いわば飛鳥の盆地を守る西の壁のような存在とも言えよう。この西側には、推古天皇の初葬地の可能性が強い植山古墳、欽明天皇を葬った可能性の強い五条野丸山古墳、小谷古墳といった六世紀後半から七世紀前半にかけての注目すべき古墳が多く築かれているが、なかでも注目すべき古墳が、小山田遺跡の百メートルあまり西北の丘陵先端にある菖蒲池古墳である。

 古くから横穴式石室の中には、他に例を見ない二つの家形石棺が納まっていることはよく知られていた。石室の壁面には漆喰が充填され、石棺の内側には漆が塗られた豪華な造りで、その被葬者についても様々な意見が出されていた。

 墳丘については残り具合が良くなく、その形、規模についても不明だったが、ここ数年の橿原市教育委員会の調査によって、丘陵を削り平坦地を造成した墓域は一辺八十から九十メートルにおよび、その中央部に一辺三十メートルの方墳が築かれていたことが明らかになった。墳丘周囲は石で囲い、外側には石敷きの残る部分もあった。また小山田遺跡で多量に見つかった加工した「榛原石」の板石も墳丘の周囲で見つかっている。

 

 小山田遺跡が方墳であれば、この菖蒲池古墳とは主軸がほぼ一致し、推定墳丘の規模は石舞台古墳を超える六十メートル前後と見られる。この二つの遺跡が飛鳥の西の入り口部で平行して前後に並ぶことは、偶然とは考えられない。

 そこで思い浮かぶのが、『日本書紀』の皇極元年(六四二)の記事である。現代語訳すると以下の通りになる。(また国中の百八十にあまる部曲(かきべ)を召し使って双墓を生前に今来に造った。一つを大陵といい蝦夷の墓。一つを小陵といい入鹿の墓とした。死後を他人に任せず、さらに太子の養育料として定められた部民を集めて墓所の工事に使役した。このため上宮大姫王(聖徳太子の娘)は憤慨して嘆いて言われた。「蘇我臣は国の政を恣にして無礼なことが多い。天に二つの太陽がないように、地にも二人の王はいない。どうして皇子に封ぜられた民を勝手に使うのか」)と記されている。

 この翌年の皇極二年(六四三)十一月には、蘇我入鹿主導の斑鳩の上宮王家襲撃事件が起こり、そして皇極四年(六四五)六月十二日の乙巳の変によって入鹿が惨殺されることにつながってゆく。『日本書紀』には入鹿が殺された翌日の十三日のこととして次のように記している。(己酉(十三日)、蘇我臣蝦夷たちは、殺される前に、『天皇記』・『国記』珍宝を焼いた。その時船史恵尺は素早く焼かれる『国記』を取り出して、中大兄に奉った。この日、蝦夷と入鹿の屍を墓に葬ることを許した。また泣いて死者に仕える者が認められた)。

 

 これらの記事から蘇我蝦夷、入鹿父子の最期、さらに造墓と埋葬に関する様子がうかがえるが、考古学的事実との関連性についての現時点での見解を述べておきたい。

 先に述べた通り、小山田遺跡と菖蒲池古墳は東西約百メートルの間をおいて平行に位置している。また菖蒲池古墳と小山田遺跡(方墳と考える)の規模は一辺で一対二の割合になり、大陵と小陵の記述にも合致する。ともに七世紀中頃に築かれたもので、七世紀末の藤原京の時期には周濠は埋まり、近くにはその時期の建物群の存在も知られている。

 『書紀』によれば、二人の墓の造営開始時期から突然の死までは約三年である。謀反の罪で殺された二人ではあるが、埋葬を許されたことは、やはり生前の功績を認めざるを得なかったのだろう。私は大陵は完成していなかったのでは、と考えている。若し石舞台古墳を超える規模のものが存在していたなら、何らかの地上痕跡かもしくは伝承が残っていても不思議ではないはずである。

 そう考えると、菖蒲池古墳の石室内に残る二つの豪華な石棺の存在が大きな意味を持ってくる。私はこのまったく同型式で時期差のない、たぐいまれな石棺の被葬者こそ蝦夷、入鹿の父子の可能性がきわめて高いと考えている。

 近年甘樫丘の南の麓で入鹿の居宅と見られる遺構群が見つかっている。「谷間(はざま)の御門(みかど)」と呼ばれた彼の邸宅に対して、蝦夷の居宅は「上(かみ)の御門」と呼ばれていた。近い将来この丘陵の一角でその遺構も明らかになるだろう。

 小山田遺跡の存在がこのような考えを導き出してくれたが、実はそれだけではない。蝦夷の父である蘇我馬子、祖父に当たる蘇我稲目の姿もかすかに浮かんで来始めたのである。

 

520回例会(2015613

一遍上人の『遊戯三昧』の世界

〜よろづ生きとしいけるもの 踊りまわける〜

圓増 治之愛媛大学 名誉教授

 

十三歳から十二年間太宰府の聖達に師事して仏教修行した一遍上人は、、父の死にあって伊予に帰って還俗した。しかし七年後再び出家することになったが、その原因となったのは『一遍聖絵』によれば次のようなものであった。ある時一遍上人が子供と輪鼓で遊んでいた時に、輪鼓が地面に落ちて回転が止まった。これを見て一遍上人は思った。輪鼓は人がこれをまわせばまわるが、まわさなければまわらない。輪廻もこれとおなじだ。輪廻は身(しん)(身体)口()(言語)意()(心意)のはたらきによってわざわざつくりだされたのであって、したがってこのはたらきが止まない限り、地獄・餓鬼・畜

生・修羅・人・天の六道を輪廻して止むことはない。未来無窮(むごう)の生死に輪廻するのも、我身の身口意の自業自得ということに成る。したがってもし身口意の自業がとどまるならば、輪鼓が廻るがごとく六道に輪廻することも止まざるをえない。このように思いいたった一遍上人は、輪廻を脱するために、さっそく家を捨て、故郷を捨て、旅にでたのであった。さらにその旅先の熊野では同行の妻子をも「はなちすてる」。以後一遍上人は捨てることに徹した。そして、一切を捨てて念仏を称えることに徹したのであった。

 

一遍上人によれば、一切を捨てて念仏を称えれば、仏も我もなくなる。仏と我というような

区別があることで、その間にあれこれの道理、分別が入ってきて、善だの、悪だのという区別がうまれる。仏も我もなくなれば、そのような分別の入ってくる余地はない。この世界は善きにつけ悪きにつけことごとく浄土である。この世界以外に求めるべきものはないし、この世界を厭うてはならない。この世界で生きているもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音にいたるまで念仏でないものはない。人間だけが世にたぐいない弥陀の本願に預かっているのではない。草木の一本一本にいたるまで南無阿弥陀仏の名号が偏在しているのである。

 

普通よく説かれる西方浄土は、善行、あるいは厳し修行を積んだ人や信心の篤い人が死後に行くことのできる世界であり、そこでは絢爛たる宝楼珠閣がたち、芳香がただよい、美しい楽の音が流れ、天人が舞い踊り、阿弥陀仏のありがたい説法を聞くことができるという。しかし、一遍上人の説く「浄土」はこのような死後のあの世の世界ではなかった。一遍上人にしたがえば、私たちが一切のことをうち捨てて念仏を称えるなら、いま現在の山河草木、吹く風、立つ浪のことごとくが、唱和して念仏を称え、南無阿弥陀仏となって現れ、私たちが現に生きている世界が、そのままで浄土に変容するというのであった。それはまさに「念仏三昧」ともいうべき世界である。

 

山河草木、吹く風、立つ浪といった自然のことごとくが南無阿弥陀仏となって、南無阿弥陀仏を唱えているところ、そこはまさに南無阿弥陀仏と南無阿弥陀仏とが遊び戯れているかのようなところである。そこへ身も心も捨て入れて南無阿弥陀仏を唱える。それは山河、吹く風、立つ浪、よろず生きとし生けるものと遊び戯れ、よろず生きとし生けるものとともに南無阿弥陀仏を唱えているかのようにもみえるであろう。その世界はまさに「遊戯三昧」の世界ともいえるのではないだろうか。

 

しかし、「遊戯三昧」という言葉は、『一遍上人語録』でも『一遍聖絵』でも見いだせない。これに対し、「遊戯三昧」という言葉は禅仏教では古くから悟りの境地を表す言葉として古くから好まれて用いられた。禅仏教で「遊戯三昧」の世界に至る道は、もちろん自力修行の「参禅」ということになる。自力で道を窮めることは誰もが容易になしうるようなことではない。自力で「禅三昧」の世界に入るには苦しい修行が必要とされる。しかし、自力の道は、難行の道であるばかりでなく、その門をくぐり抜けて「遊戯三昧」にあずかることができるのは、その難行に耐えたものだけということになる。

 

念仏門の他力の道もやはり同じような「遊戯三昧」の世界に通じる。一遍上人の「聖道浄土ことば異なりといへども、詮ずるところこれ一(いつ)なり」という言葉にもあるように、聖道門は自力の行、浄土門は他力の行という違いだけで行き着く先はおなじ「遊行三昧」の世界であるといえるだろう。しかし大多数の人は、難行の道をいくのに耐えうるほど強くはない。したがって、「吾等ごときの凡夫は、一向称名のほかに、出離(しゆつり)の道をもとむべからず。」ということになる。逆に言えば、ひたすらに念仏を称えさえすれば、私たち凡夫といえども、「遊戯三昧」の世界にいることが許されるということになるのである。ひたすらに念仏を称えるのは「田夫野人・尼入道・愚痴・無智」にいたるまで誰にでもできることである。いわゆる易行(いぎよう)である。誰であれひたすらに念仏を称えるならば、貴賤高下の隔てなく誰もがともに「遊戯三昧」の世界にある。その点で、自力で開かれた「遊戯三昧」のような、孤高に遊ぶといった「遊戯三昧」とは大きく異なる。

 

他力にひたすら身をまかす念仏三昧には周りの人をそのうちに巻き込む力がある。その力こそ他力の力である。そのようにして開かれた「遊戯三昧」の世界で人々はともに踊躍し、ともに「法界にあそぶ」ことができるのであった。 かくして、一遍上人の踊り念仏は全国各地で多くの民衆を巻き込んで広がっていったのであった。かつて一遍上人は回転する輪鼓が地に落ちて止まったのを見て、自業がやめなければ輪廻もやむことがないと悟って出家したのであったが、今や一遍上人の始めた「踊り念仏」に於いてひとり一遍上人のみならず、そこの集まったおおくの道俗の民衆があまねく輪廻を脱し、「法界にあそぶ」ことができたのであった。その意味で「踊り念仏」こそまことに「大乗遊戯」というにふさわしいということができるだろう。

しかし、今日私たちは科学技術の力によって一遍上人の生きた時代とは比較にならないほど大きな業に業を重ね生きている。その結果、地球の温暖化、原発事故、環境破壊などの負の報酬を自業自得的に受けとらざるを得なくなっている。このような時代にあって、なお私たちは一遍上人の時代のように「踊り念仏」によって「遊戯三昧」の世界に入ることが許されるだろうか。 

 

近代科学技術の時代前夜ともいうべき19世紀末のヨーロッパ、「神」の束縛を解かれた人間は無限の可能性の内に投げ出され、進むべき方向を見失ってしまった。そういう時代状況の中で、哲学者ニーチェは、人間は無限の可能性のうちで偶然との戯れによって新たな価値を創造できるような「遊戯三昧」の世界に強くあこがれたのであった。しかし、今日巨大科学(giganic science)の時代には偶然がもたらす出来事、すなわち事故ほど恐ろしいものはない。今日では自然がもたらす「禍」以上に人間が自業自得的に招く「禍」が恐ろしい。そのような時代にあって私たちはいまだなお無邪気に「遊戯三昧」を楽しむことができるだろうか。