第519回例会(2015・5・13) 「一遍語録」の思想 杉野 祥一(一遍会 理事) はじめに 今年度から、卓話のシリーズとして、講話が始まる前の30分で、「一遍の語録を読む」を私が担当することになりました。また非常に長いシリーズになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。それでは、これから、一遍聖(以下、一遍と略記)の法語を読んでいきたいと思います。 ひとりとかなし 六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり 独りむまれて独り死す 生死の道こそかなしけれ 百利口語 過去遠々のむかしより 今日今時にいたるまで おもひと思ふ事はみな 叶はねばこそかなしけれ 別願和讃 一遍の人間観がよく語り出された言葉だと思います。思うに、「ひとり」と「かなし」は一遍を理解するうえでの最初のキーワードではないでしょうか。様々な人を見てかなしと思える人は、自らの根底にかなしさをもっている人です。この「かなし」があればこそ、一生を遊行し通し、できるだけ多くの人に念仏の救いを広めようとした一遍があったのだと思います。 捨 て る むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の撰集抄に載せられたり。これ誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。 消息法語5 二番目のキーワードは、「捨てる」です。一遍ほど捨てることに徹底した仏教者はいないのではないでしょうか。この中で特に注意をひくのは、「極楽を願ふ心もすて」とまで言われていることです。自分が願うというのは、結局自力我執を超えていないということです。それを超えたところで念仏しなさい、ということでしょう。 そして、なぜ一遍本人がそれほどまでに捨てなければならなかったのかについて、語ってくれるのが、次の言葉です。 また云(いわく)、念仏の機に三品あり。上根は、妻子を帯し家に在りながら、著(じゃく)せずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食とを帯して、著(じゃく)せずして往生す。下根は、万事を捨離して、往生す。 我等は下根のものなれば、一切を捨てずは、定めて臨終に諸事に 著(じゃく)して往生をし損ずべきなりと思ふ故に、かくのごとく行ずるなり。 門人伝説44 一遍が自分を常に厳しく見つめていたことがよくわかります。 念 仏 と は さて、このように捨て切って唱える念仏とはどのようなものでしょうか。 かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の道理もなし。 よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。 念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願に欠けたる事もなく、あまれることもなし。この外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚かなる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏。 消息法語5 絶えず南無阿弥陀仏と唱え、唱え通すうちに、自分が念仏を唱えているという意識が消えていき、誰が念仏を言っているのかわからない、口が勝手に念仏を唱えている、というようなことが起こるような気がします。そうなれば、耳に入ってくるあらゆる音が念仏に聞こえ始める。全ては念仏に満ち満ちているという世界が開けてくるのではないでしょうか。これは自分の心の問題ではない、と一遍は言っているのでしょう。 このことを端的に語っているのが次のキーワード、「念仏が念仏を申す」です。 念仏が念仏を申す また云(いわく)、我体(わがたい)を捨て南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱といふなり。されば念々の称名は念仏が念仏を申すなり。しかるをも、我よく意得(こころえ)、我よく念仏申して往生せんとおもふは、自力我執がうしなへざるなり。おそらくは、かくのごとき人は往生すべからず。念不念・作為不作為、惣じてわが分にいろはず、ただ一念、仏に成るを一向専念といふなり。 門人伝説16 自分が救われるために、自分が念仏しているという気持ちが消えないうちは往生できません、と言っています。それでは、往生とはどういうことでしょうか。 往 生 と は 南無阿弥陀仏ととなへて、わが心のなくなるを、臨終正念といふ。この時、仏の来迎に預りて極楽に往生するを、念仏往生といふなり。 消息法語2 南無阿弥陀仏を称へて息たえ命終らん時、必ず聖衆の来迎に預りて、無生法忍にかなふべきなり。是を念仏往生といふなり。 消息法語3 一見すると、この二つの言葉は矛盾するようにも取れますが、決して矛盾するのではないと、一遍は教えてくれます。 消息法語3 念仏往生とは、念仏即往生なり。南無とは能帰の心、阿弥陀仏とは所帰の行、心行相応する一念を往生といふ。只今の称名のほかに臨終有るべからず。唯南無阿弥陀仏なむあみだ仏ととなへて、命終するを 期(ご)とすべし。 消息法語7 ただ今の念仏の外に、臨終の念仏なし。臨終即平生なり。(中略)只今、念仏申されぬ者が、臨終にはえ申さぬなり。遠く臨終の沙汰をせずして、よくよく恒に念仏申すべきなり。 門人伝説78 念仏と往生は別にあるのではない、念仏を言って帰依するものと帰依される阿弥陀仏が相応じ、一つになることが往生なのだ、と一遍は言います。このことと命が終わることも、また別のことではない、念仏を唱え通して命が終わる時を待っていなさいと言います。 また、信心が定まらなくても、念仏を唱えることが大切であると、一遍は教えてくれます。最後のキーワードは、「南無阿弥陀仏が往生するなり」です。 南無阿弥陀仏が往生するなり 心品(しんぽん)のさばくり有るべからず。この心は、よき時もあしき時も、迷いなる故に、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が往生するなり。 門人伝説85 また云(いわく)、決定往生の信たらずとて、人ごとに嘆くは、いはれなき事なり。凡夫のこころには決定なし。決定は名号なり。しかれば決定往生の信たらずとも、口にまかせて称せば往生すべし。この故に往生は心によらず、名号によりて往生すべし。決定の信をたてて往生すべしといはば、なお心品にかへるなり。わがこころを打ちすてて、一向に名号によりて往生すと意得れば、おのづから又決定の心はおこるなり。 門人伝説25 名号は、信ずるも信ぜざるも、となふれば他力不思議の力にて往生す。自力我執の心をもて、兎角もてあつかふべからず。極楽は無我の 土(ど)なるが故に、我執をもては往生せず、名号をもて往生すべきなり。 門人伝説27 念仏や往生は、自分の迷いや疑い、信心の正しさや深さといった心の問題を超えたところで起こることである、極楽を求め念仏をする私が往生するのではない、それでは往生はできない、念仏をひたすら唱え通し、念仏になりきったところでしか、わからない事柄である、と一遍は教えてくれているように思います。 |