第518回例会(2015・4・11) 一遍と日蓮 小沼 大八(一遍会 代表) 一遍〈1239〜89)と日蓮(1222〜82)は共に、鎌倉新仏教の最後を飾る祖師として、ほぼ同時代を生きた。末法思想を共有し、共に易行を説くが、志向する方向は大きく異った。 ・一遍・・・末法時代には時機相応の教えが必要。所依の経典=浄土三部経。易行他力の称名念仏。南無阿弥陀仏はインド語の音訳。出典は観無量寿経にある。 ・日蓮・・・末法の時代こそ正法が必要。正法=法華経。易行としての唱題目。南無妙法蓮華経は経典名。ナムサダルマプンダリカスートラの漢訳。 1、 末法思想 末法思想によれは、わが国の末法元年は平安末期の永承七年(1052)とされる。そして鎌倉時代(1183〜1333)になると、末法到来を実感させる出来事が続発した。天変地異と政変の続出がそれである。 こうした事態にもっとも敏感に反応した人物が日蓮だった。こうした出来事が頻発する真の原因はなにか。この苦況から日本国を救う正法はなにか。それを見極めるべく、日蓮はあらゆる仏典を渉猟する。そしてついに達した帰結が「正法=法華経」の確信だった。それに比すれば各宗派が依拠する仏典はすべて方便の教え(権教)に過ぎない。この信念に立って日蓮は法華経の行者に徹し、その宣布に身命を賭したのである. それとは反対に、一遍の語録にはこうした時代相に対する言及がほとんどみられない。最大の国難・蒙古来襲についてさえ、かれは口を閉ざした。三界の出来事はすべて幻化であるという達観が,こうした有為転変の社会からかれを引き離したのである。一遍が遁世(捨聖)の道を歩むに至ったゆえんである。一遍は語る。「三界は有為無常の境なるが故に一切不定なり、幻化なり。此界の中に常住ならんとおもひ、心やすからんと思はんは、たとへば漫々たる波のうへに、船をゆるがさでおかむとおもへるがごとし」(『一遍上人語録』巻下)。一遍にとってはこの三界中、真実なるものはただ六字名号だけだった。「凡そ名号の外は皆幻化の法なるべし。一切頼むべからず。一切真実といふは南無阿弥陀仏なり。たとひ往生を願ふ志切なりとも名号を称せずんば往生すべからず」(『播州法語集』)。 末法の時代の有為転変を幻化とみて、ひたすら浄土への往生を希求すべきか、それともそれを実相とみて世直しに邁進すべきか、一遍と日蓮を分かつ分水嶺といえよう。 2.天変地異 日本は殊のほか災害の多い国である。日本列島は地震列島、火山列島であり、そして台風銀座に当たっている。特に中世は気候が不順で天変地異が多発し、異常気象が続発した時代だった。ちなみに一遍や日蓮が生きた時代を取り上げてみても、たとえば『吾妻鏡』は次のように記す。 康元元年(1256)二月、暴風雨と洪水。八月、暴風雨と赤痢の流行。正嘉元年〈1257)二月、京都方面に地震。 五月、関東一帯にかなりの地震。 六・七月、激しい日照り。八月二三日、前代未聞の大地震。正嘉二年〈1258)春、鎌倉に烈風。 六月寒冷冬ごとく苗育たず。七月、烈しい日照りで草木枯れ死す。一〇月一六日、鎌倉で大洪水。 だから日蓮三十九歳の著作『立正安国論』は危機感に満ちている。「近年より近日に至るまで天変地夭、飢饉疫病、遍く天下に満ち、広く地上に蔓延る。牛馬巷に倒れ骸骨路に充てり。死を招くの輩すでに大半に超え、これを悲しまざる族、敢えて一人もなし」。 中世史家黒田俊雄によれば、中世社会は飢餓、疫癘、殺戮の絶えぬ社会だったという。 「飢餓は慢性的にたえずくりかえされた。河川の本流を制御することができず、大部分が谷川や劣弱な田畠でしかなかった中世では、ひとたび旱天がつづけば稲はたちどころに枯れた」(『日本の歴史』八巻。「蒙古襲来」)。 3.鎌倉時代の政変 古代の貴族政治が終わり.鎌倉時代は武士という新興階級が本格的に政権を担い始めた時代である。当然ながら政争にはただちに武器が使用され、血なまぐさい武力闘争が繰り返された。鎌倉時代の政争は次の三段階に分けられよう. 第一段階・・・幕府と朝廷との覇権争い。源家三代(頼朝、頼家、実朝〉の滅亡を契機に朝廷方が再び政権を取り戻そうとした・・・一二二一年承久の乱。 |