505回 (2014.3.8
一遍上人 「自受用」(じじゅゆう)の教え
今村 威 (一遍会 理事)
『一遍上人語録』巻下「門人伝説」(門人が伝え聞いた教え)に、次の言葉がある。

 

一四 又云、今、他力不思議の名号は、自受用の智なり。故に仏の自説ともいひ、亦随自意ともいふなり。自受用といふは、水が水をのみ、火が火を焼(やく)がごとく、松は松、竹は竹、其体(そのてい)をのれなりに生死なきをいふなり。然(しかる)に衆生、我執の一念にまよひしより已来(このかた)、既に常没(じようもつ)の凡夫(ぽんぷ)たり。

爰(ここ)に弥陀の本願他力の名号に帰しぬ

れば、生死なき本分にかへるなり。これを「努力翻迷(ぬりきほんめい)、還本家(げんほんげ)(努力(つと)めて迷(まよい)を翻(ひるがえ)して、本家に還る)」といふなり。名号に帰するより外は、我とわが本分本家に帰ること有ペからず(『法然一遍』日本思想体系10 岩波書店 三二五ページ)。

 

『広説仏教大辞典』(中村元・東京書籍)によれば、「『自受用の智』とは、阿弥陀仏自らが愛用する智慧。阿弥陀仏が自ら功徳利益を受けて活用する智慧」とあり、阿弥陀仏が、全ての人を極楽浄土に成仏させることを楽しむ知恵をいう。また、「生死」とは、『総合佛教大辞典』(法蔵館)によれば、「輪廻とも訳す。業因によって六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)の迷界に生まれかわり死にかわりして輪廻することで涅槃(さとり)の逆」ということであるから、「生死なし」とは、迷いから解脱して、悟りの境地に入ることである。「南無阿弥陀仏」と唱えて、「我も仏もなかりけり」の境地に到達すると、全ての迷いから解脱して、自分本来の姿に気づき、目覚めることが出来、それを楽しむ境地に至るのである。

 

 本来の自分に目覚めると、その人ならではの、個性のある芸術や優れた技能が生まれる。中世には、時衆の間に阿弥衆とか同朋(どうぼう)衆とか呼ばれるプロ集団が出来て、能、狂言、俳諧、立華(生花)、茶道、平家琵琶(平曲)ひいては語り物、刀傷治療の外科集団、宮大工、庭造りなど、今日世界に誇る日本文化のほとんどが、この間に生まれている。

『平凡社大百科事典』によれば、室町時代中頃には、全国に二〇〇〇の時宗の道場があったということで、それを拠点に、そうしたプロ集団が、全国を巡りながら、世の中に自分ならではの特技を実践できる楽しみ、喜びを発揮していったのである。

 この、人それぞれの個性や特性、特技を尊ぶ気運は、江戸時代にも受け継がれている。寺子屋教育は、基本的に個別指導で行われ、読み書きの基礎教育が終わると、進路に応じて「往来物」と呼ばれる専門の教科書で、各種職業の心得や専門用語を学んだ。「往来物」は七千種もあったという。「往来物」で個性発見の糸口を身に付けると、専門技術は、大人になつてから現場で実地に当たって学び取らせる。さらに識字力が高かったから、専門家になると、自分で専門書を書いて、世に広めることも少なくなかった。

 

 この流れは、近現代でも、職人文化として受け継がれている。地方にも、村宝と呼ばれる鍛冶屋や大工といった職人が必ずいた。平成二五年三月三日放送のNHK Cool Japan「職人」によれば、外国の若者たちは、日本の職人文化を、「自分の仕事に情熱を持っている」「金よりプライドを大切にしている」「日本では全ての職業は、ほぼ平等に評価されている」と高く評価していた。職人たちが、名利という迷界を脱却して、自分ならではの特技に生きるすばらしさを、彼らはちゃんと見抜いていた。

 

 しかし現代日本では、自分の持つ特性を活かす喜びを尊ぶ気運は、急速に失われている。平成一〇年、一年間の自殺者が三万人を超えて以来、二四年に自殺対策に取り組む人たちの懸命の努力によって、二万八千人近くに減少するまで、一四年にわたって三万人の自殺者が続いていた。個々にはさまざまな深い理由があるのであるが、毎年決まったように三万人の自殺者があるというのは、日本中に極めて生き苦しい雰囲気が充ちているからに違いない。楽しかるべき学校でも、いじめや登校拒否が多発している。平成二六牛三月七日の愛媛新聞には、「児童虐待最多二万件」の記事が出ていた。日本人の多くが、自分を見失って、迷いの中にある証拠である。

 

 平成二五年二月一八日放送のNHK総合テレビ「視点・論点」で、奥地圭子氏(NPO法人東京シユーレ理事長)は、「多用な学びの保障を」と題して、「個性を無視した画一的な学校教育の中を、どううまく渡ってゆくかが、家庭や社会の主たる価値観になっている。そのため、学校に自分を合わせられない大勢の児童生徒が、苦しんで、いじめや登校拒否など問題を生じているのである」と述べている。奥地氏は、自分の子どもが登校拒否のみならず、拒食症に陥ったが、優れた精神科医師のカウンセリングを受けさせたところ、ただ一度で、「僕は僕でよかつたんだね」と明るく語り、全ての問題が解決した体験から、行き場のない生徒たちのために、生徒本位の学習が出来る学校として、「東京シユーレ葛飾中学校」を経営し、校長を勤めている。奥地氏が資料として挙げた日本青少年研究所による「高校生の生活意識と留学に関する調査」のうち、「自分が価値ある人間だと思うか」の質問に対し、「そう思う」と答えた生徒が、米国四六・一%、中国三七・〇%、韓国三六・五%、日本七・三と、日本が格段に低い理由を、奥地氏は、日本の教育が、生徒の個性を尊重せず、競争教育になつてしまっているからだと説いている。現代の日本では、江戸時代の寺子屋教育と全く逆の教育が行われているのである。

 

 「女性にも教育を」と主張して、それに反対するイスラム教徒によって頭を撃たれながら、九死に一生を得たパキスタンの少女マララ・ユフザイさん(一六歳)が、教育の重要さについて「学ぶことを通じて、新しい世界と出会うことである。大切なことは、みんな平等だということを学ぶことである」(平成二六年一月八日NHK「クローズアップ現代」)と述べていることに、耳を傾けたい。

 

 日本人は、高度成長に酔いしれているうちに、「名利第一」の価値観に陥つてしまっている。この価値観に立てば、常に競争に追い立てられ、孤立し、成功者は一割もいないであろう。殆どが落伍者になる外はない「名利第一」の価値観に、二度とない人生をゆだねることは、あまりにも愚かしい。一遍上人の「自受用といふは、水が水をのみ、火が火を焼(やく)がごとく、松は松、竹は竹、其体(そのてい)をのれなりに生死(迷いの輪廻)なきをいふなり。」の教えに、一人一人が今こそ目覚め