平成22年9月例会 講話
石野 弥栄 愛媛大学講師
伊予等妙寺の縁起と説話
はじめに
 愛媛県の南西部、鬼ケ城連山の一つ郭公岳(標高一〇一〇メ―トル)の中腹から山麓にかけて、中世後期の全期間を通じて存在した等妙寺の寺跡(「等妙寺旧境内」と呼ぶ)があり、歴史的な重要性と遺構・遺物の残存性が評価され、平成二〇年三月に国指定史跡に認定された(補注一)。
 中世等妙寺の歴史的展開の様相、その性格などについては、近時、明らかにされつつあり、筆者もかつて研究の一端を発表したこと
がある(補注二)。しかし、その開基の様相については、等妙寺末寺である歯長寺の縁起(補注三)に簡略に触れられているものの、「等妙寺縁起」(以下「縁起」と略称する)がもっとも詳述している。ただし、「縁起」は後世に作成されたものと考えられ(後述)、少なからぬ誤記や後世の概念で記述したところがあり、使用にあたっては、かなりの史料批判を要する。
さて、「縁起」は、いつごろ成立し、どのような意図で筆録されたのであろうか。また、縁起によれば、等妙寺の開創は、曽我十郎・五郎兄弟とその従者である鬼王・段(団)三郎にまつわる伝承で語られているが、開基伝承の史的背景はいかなるものであろうか。
 ここでは、以上の諸問題について、私見を述べてみたい。
一「等妙寺縁起」の成立をめぐって
 (一)「等妙寺縁起」の写本について
 {縁起」の成立を検討する前に、まず縁起の写本について、簡単に触れておきたい。
 縁起の原本(草稿本・清書本を含む)は存在しないが、その写本が四本現存している。まず東京大学史料編纂所に二種の謄写本が架蔵されており、一本(甲本と呼ぶ)は文化元年(一八〇四)に書写されたもので、「奈良山等妙寺縁起」と題し、「夫考等妙寺旧儀‥‥」と書き起こしている。もう一本(乙本と呼ぶ)は年代が下って昭和三年(一九二八)の書写になり、「豫州奈良山等妙寺縁起」という内題がある。乙本の特徴は、全体的に一つ書きの形態がとられ、十三か条に分けて叙述されていることである。この形態の写本としては、安政二年(一八五五)に成立した「奈良山如意顕院等妙寺由緒」(愛媛県歴史文化博物館所蔵、以下「由緒書」と略称する。)に所収されている「豫州奈良山等妙寺縁起」や大正十二年(一九二三)、伊予史談会の西園寺源透氏の謄写した本が知られている(「南予の社寺」七所収)。昭和三十九年(一九六四)に愛媛の文学資料叢書に翻刻して収められたものは、形態・内容からみて、乙本とみられる。
(二)「等妙寺縁起」の成立年代について
 現存する「縁起」の写本には、成立年代を明記したところは認められない。したがって、今のところ、他の史料や縁起本文の記載から探ってみるより外にすべはないが、「縁起」の記述の中に、その成立年代を推定する手がかりがいくつか見出せる。
 一つは、等妙寺が室町幕府二代将軍足利義詮の御教書によって幕府の祈願所として、四国地域、とくに「庄内十八郷」(宇和荘域)を祈願するように命じられたという記述である。この記事自体、他に裏付ける史料を欠き、信用に値しないが、とくに宇和荘内の郷数につ
いては疑問である。中世における宇和荘には十五郷を検出できるが(補注四)、南北朝中期に十八郷あったとは考えられない。近世中期
に成立した「清良記」(補注五)巻二十八には、「西園寺殿の御社参ありければ、十七郷の諸将も残らず参り集い」とあり、戦国期の西園
寺氏の支配領域を近世の状況で記述したところが認められる。たしかに藤堂高から伊達秀宗へ引き渡された知行地は、「拾七郷弐百七
拾三ケ村」とあり、確認できる(「御年譜微考」)。したがって「縁起」に見える「庄内十八郷」という記載は、近世初頭の実態をもとにしたものといえよう。
 次に「曽我兄弟の臣下、鬼王、段三良(郎)也」という記述に注目すると、「曽我物語」の古態を示し、中世の成立という真名(真字)本には、「道三郎」と見え(東洋文庫『真名本曽我物語』、平凡社刊)、大石寺本には「丹三郎」とある(新編日本古典文学全集、小学館刊)。やや年代が下って謡曲の「小袖曽我」や「夜討曽我」には「団三郎」とあり、また江戸歌舞伎の「傾城阿佐間曽我」、浄瑠璃の「世継曽我」などいわゆる曽我物には「団(だう)三郎」とあり(日本古典文学大系・新日本古典文学大系、岩波書店刊)、人物表記の変遷がうかがい知られる。なお、江戸時代末期、安政二年(一八五五)成立の「奈良山如意顕院等妙寺由緒」(前掲)には「段三郎」と表記されているが、これは「縁起」の記述を踏襲したものとみられる。
 以上、地名や人物の表記から、現存の「縁起」が近世に成立した可能性があることを指摘したが、期間に幅がありすぎるので、他の史料によってもっと絞りこみたい。
 宇和島藩家老桜田家の関係史料を収録した「桜田家記録下 慶安―萬治」(宇和島叢書)に収める覚書(九月五日付)(伊達文化保存会所蔵)に「等妙寺ゑんきの事」と見え、等妙寺旧跡のある奈良山から目黒山(現北宇和郡松野町)にかけての絵図の作成、「そき(枌)役」を課された村々を記した書類の作成などが命じられているから、山境争論に資するため、「縁起」が宇和島藩当局から参考資料として閲覧を求められたものと思う。いずれにしても、「縁起」が江戸時代初期の十七世紀半までに成立していたことは明らかである。その他、「宇和旧記」(補注六)にも宇和島藩伊達宗時(「宇和島領寺院帳」には宗利と記す)が等妙寺旧跡のある奈良山に登り、「縁起」を閲覧したとの記事があり、「宇和旧記」の作者井関盛英も同縁起を使用してかなり詳細な記述をしている。
(三)「等妙寺縁起」成立の史的背景
 江戸時代初期に当縁起が成立したとすると、いかなる歴史的な事情によって、筆録されたのであろうか。等妙寺は、「宇和旧記」によると、板島の領主戸田勝隆によって寺領を取り上げられるなどして荒廃し、さらに天正十八年(一五九〇)に天火によって堂舎が焼失したので、十町ばかり麓に本尊を移し、芝村(現鬼北町)の有徳人で、鎌田正清(源義朝の郎党)の末流、正秀(法名は善正)が現在の寺地へ再建したと記す。以上の記事は、本尊を移した場所とみられる霊光庵も廃絶して関係史料を欠き、それを裏付けるものがない。等妙寺を奈良山下に移建した年代は定かではないが、江戸時代初期ではないだろうか。再建された等妙寺は、法勝寺(天正十八年以降、近江国大津の西教寺が兼摂)末の立場を離れ、比叡山延暦寺東塔北谷所在の惣持房(天正十一年心盛が初代住持となる)の末寺となり、やがて元禄十三年(一七〇〇)に江戸の東叡山寛永寺(輪王寺宮門跡管領)の直末寺になっている(補注七)。前述のごとく、「縁起」は、十七世紀半までに成立しているから、同縁起は、等妙寺が惣持房末寺の時代に作成されたものと推測される。その頃になぜ等妙寺の開創とその後 の歴史を叙述した「縁起」を筆録する必要があったのか、検討を要する。同縁起の中に比叡山の規式、つまり「六即七位ノ結界」にもとづいて等妙寺の結界法を定めたとあるが、等妙寺本来の結界法は、円戒(顕教の戒律)と密教(安鎮法)と陰陽道の戒律(反閉)を合せた戒家独特の結界法とみなされるので(「続天台宗全書「円戒十六帖」)、疑問である。「縁起」を作成するとき、延暦寺の結界法(規式)を強調したものとみてよかろう。このように考えてくると、等妙寺が比叡山の子院、惣持房の末寺として再出発したときか、その後に、新しい解釈によって、同寺の歴史(縁起)を作る必要性が生じたと考えられる。
二 等妙寺開基説話をめぐって
そもそも寺社の縁起は、各々の寺社の開創の由来を説くもので、宗教性、歴史性をもつが、布教目的(唱導)のために、文学性を帯び、物語化する。前述のように、「縁起」は、開基以後の等妙寺の歴史を叙述しているが、多くの紙幅を費やしているのは、開基の記事である。それは、「曽我物語」の主人公である曽我十郎、五郎兄弟とその従者鬼王・段三郎に関連する説話に覆われている。その開基説話の第一話は、等妙寺の開山理玉和尚(静義上人・救上人)(補注八)が奈良山中で寺地(戒場)占定のための三七日(二十一日間)の修法を終え、下山する途中、二人の若者(実は曽我兄弟の亡霊)に会い、彼らの住居に泊めてもらった際、修羅道に迷って苦しむ彼らに灌頂受戒を施し蘇生させ、二人は理玉和尚の寺院建立、法華経安置によって信心を深めたという。第二話は、理玉和尚が黒土郷目黒村(中世村落としての確証なし)の奥山に住む二人の老人(実は鬼王と段三郎)に会い、主君の曽我兄弟同様に修羅の道で苦しむ彼らを救済したので、彼らは理玉に報恩のため、牛玉・鹿玉・大豆の三粒を献じたという。もちろん、この説話は史実ではなかろうが、なぜ曽我伝承で等妙 寺の開基が語られるのか、どのような人々がこの伝承をもたらし、誰が筆録したのか等々の問題について、検討を加えねばならない。
 すでに角川源義氏は、「縁起」に見える曽我伝承、宇和島市伊吹八幡神社にまつわる伝承(曽我兄弟が建久年間にその郎党に軍配を奉納させたという「伊吹木之記」の記述)などを紹介し、南伊予地域が曽我伝承の本場の感があるとの指摘もある(角川源義著『語り物文芸の発生』)。また、同氏は、鬼王、団三郎が高野山に登って主君の後世菩提を弔ったという「曽我物語」諸本の記述を踏まえて、高野山の談義僧や高野聖などの廻国聖との関わり、九州における地神盲僧の活動などを想定されているが、確たる証拠があるわけではない。
曽我兄弟を祀る神社は、兄弟縁りの関東地方に多いが、西国にも少なくない。とくに南伊予・西土佐地域には、広く曽我兄弟縁りの曽我神社が祀られている。甫喜本一氏は、『縁起』に見える曽我伝承をはじめ、喜多郡内子町大瀬の曽我十郎神社、宇和島市三間町金銅の曽我神社、高知県四万十町十和の曽我伝承、高知市比島町の龍乗院に伝わる「瀬登りの太刀」にちなむ伝説(伊豆国箱根権現の別当行実が曽我兄弟に与えた太刀を持って故郷の土佐国日下庄に帰り、その死後、太刀が奪われそうになったところ、大蛇に変身して仁淀川を往来する人々を悩ませたので、鞘を納めて祀り、太刀が元の鞘におさまったという話)を紹介されている(補注九)。
角川氏は前掲書で「曽我物語」の成立に箱根権現にいた覚明上人か比叡山に関係深い人物、とくに伊豆山・箱根両権現を支配した安居院(あぐい)聖覚の流れをくむ唱導文芸僧たち(「神道集」という本地物の文芸作品を作成した唱導僧)との深い関わりを指摘している。また、「曽我伝承」は、研究者によって「曽我物語」を語り伝える時宗の聖や熊野系の歩き巫女・比丘尼・修験者(山伏)との関係が指摘されている。ただ、今のところこれら唱導者と等妙寺との関係を示す証拠も見出せないので、想像の域を出ない。
なお「縁起」や曽我伝承の成立を探る上で、一、二指摘しておきたい点がある。まず一つは、等妙寺周辺における曽我伝承の存在である。「縁起」の曽我伝承の舞台ともなった目黒村(吉田藩領。現愛媛県北宇和郡松野町)には、「曽我の元祖の形見石」、「鬼王か墓」、「鬼ケ城」という曽我兄弟の従者鬼王に関連する場所があったという(『南路志』所引「楠目氏筆記」)。これは、「由緒書」(前掲)に収める「豫州奈良山等妙寺曽我兄弟之記」や「勧化帳」(前掲)にも見え、等妙寺僧や等妙寺に関わる修験者などが修行した地の存在を想定できよう。また、「縁起」に見える鬼王、段三郎兄弟が住む屋敷のさまは、土佐国幡多郡下山郷奥屋内村(現高知県幡多郡四万十町)の黒尊社にまつわる怪異談に登場する黒尊神の住居のそれと酷似していて(『南路志』幡多郡大宮村条)、モチ―フ的に同じものではあるまいか。
いま一つ注目されるのは、「縁起」(乙本)に「山中造営之節、西園寺家ノ衆殊更致勢力、就中伊豆淵千波党尽粉骨、仏閣庫院七堂共ニ造営成就シ了」とある記述である。つまり、鎌倉時代末期に等妙寺堂舎の造営を終えたのは、宇和荘の領主西園寺家に仕える「伊豆淵千波党」の尽力によったというのである。これは、かなりの当て字が使用されているものの、出(いず)淵(ぶち)流仙波氏(武蔵七党のうち村山党)をさしているものとみられる。しかし、武蔵国入間郡仙波庄を本貫とする関東武士の仙波氏が伊予国喜多郡出淵村(現伊予市中山町)へ移住したのは、鎌倉時代後期〜南北朝初頭とみられるから(補注一〇)、宇和荘領主京西園寺家の被官(家人)になっていたとは考えがたい。「歯長寺縁起」では歯長寺・等妙寺の檀越として活躍したのは、開田善覚であるから、出淵流仙波氏をここで登場させた意味は不可解である。これについては、十分な解答を出すことはできないが、一、二仮説を提示しておきたい。一つには、「縁起」の筆録者(たとえば等妙寺僧)が出淵流仙波氏の出自をもつものかもしれないし(現在、等妙寺周辺に出淵姓がある)、喜多郡出淵村と関わりのある人物かもしれない(補 注一一)。あるいは筆録者が仙波氏の発祥地(現埼玉県川越市)に関係しているのかもしれない。この地には、中世から近世にかけて喜多院(無量寿寺)という談義所(学問道場)があり、江戸時代には東叡山寛永寺を江戸に創設した天海僧正が住持を勤めたこともあり、関東屈指の天台宗の巨刹である。等妙寺が江戸時代初期に比叡山延暦寺の子院の末寺になり、やがて寛永寺直末寺になる趨勢のなかで、同一法系の天台僧の等妙寺への入寺もありえる。
結び
本小稿では、等妙寺の開基を説いた「等妙寺縁起」をめぐって、その成立時期、開基説話成立の史的背景などについて考察した。積み残した課題も少なくないが、それらについては、別の機会に改めて検討してみたい。
〔補注一〕 等妙寺旧跡の国史跡指定に至る経緯については、『史跡 等妙寺旧境内保存管理計画策定報告書』(鬼北町教育委員会 平成二二年三月発行)参照。
〔補注二〕 拙稿「等妙寺をめぐる在地情勢」・「等妙寺の開創と展開」(『旧等妙寺跡』鬼北町教育委員会 二〇〇五年発行)付論参照。
〔補注三〕拙稿「「歯長寺縁起」の世界―南予中世社会の一断面―」(『伊予史談』三三〇号 二〇〇三年)参照。
〔補注四〕拙稿「宇和荘内郷村の形成と展開」(西南四国歴史文化論叢『よど』七号 平成一八年)参照。
〔補注五〕拙稿「『清良記』の成立と素材について」(『伊予史談』三三九号 平成一七年)参照。
〔補注六〕「「宇和旧記」の基礎的研究」(『研究紀要』九号 愛媛県歴史文化博物館発行 二〇〇四年)参照。
〔補注七〕「宇和島領寺院帳 一」等妙寺条、『大成郡録』等参照。
〔補注八〕等妙寺開山理玉和尚の法系上の位置づけについては、補注二拙論及び拙稿「伊予における天台律系寺院の創立と展開」(『日本中世の西国社会』清文堂出版 近日刊行予定)参照。
〔補注九〕甫喜本一「四国西南地域の曽我伝説」(西南四国歴史文化論叢『よど』八号 平成一九年)
〔補注一〇〕拙著(共著)『歴史探訪 伊豫仙波一族』(大護神社奉賛会発行 二〇〇八年)参照。
〔補注一一〕山内譲「曽我兄弟と山吹御前」(『ソ―シアルリサ―チ』二一号 一九九六年)は中世の喜多郡・浮穴郡山間部における熊野信仰の広まり、「曽我物語」との関係を詳説する。