平成22年8月例会 講話
わが国の遊女
 現代我が国に伝わるほとんどの文化は神仏信仰と、それに纏わる芸能とを切り離すことができない。その文化は遊行者たちによって保存・伝播されたが、その中に遊女と呼ばれる女性が存在した。今日では遊女は快楽の対象、いわゆる売春婦としてのいわば低落した女性像として捉えられている。古代から存在した我が国の遊女の本質はどうであったのか。
遊女は『倭名類聚抄』に「遊行女児・ウカレメ・アソビ」とあり、詳しくは昼間遊行する者を遊女といい、夜、性を売るものを夜発というと遊女と売春婦を区別している。
また、『万葉集』や『更級日記』には遊行女婦として登場し、彼女たちは、品良く、教養もあり歌舞に優れたた美しい女性であったと記されている。平安時代に大江匡房によって著わされた『遊女記』『傀儡子記』にも遊女や傀儡女が声美しく歌舞に優れた女性で、遊女は交通の拠点である港に、傀儡女は旅をしながら存在し、当代の人々を楽しませたと描かれている。このように当時の遊女は決して低落した女性ではなく、『遊女記』にあるように、摂関家に寵愛を受け、宮廷に招かれた女性も多くいた。そのような貴族や遊女の諸相が多く見られる『梁塵秘抄』は後白河院が編纂した今様を集録した歌詞集と自伝ともいうべき口伝集とで成立する。今様は現代の流行歌のようなもので神仏の影響を受け、郷土性を持ち下層階級に流行した伝承歌謡である。口伝集には波乱の生涯の後白河院が今様に執心し、それを学ぶために傀儡女を宮廷に招き、師弟を超えた情愛を注ぎ交流した様子が描かれた。
『梁塵秘抄』の中には巫女・遊女を謡った歌が多く、これらが神歌・法文歌として収録されていることで神仏の影響を受けていることは明らかであり、今様を謡うことは神仏と一体になる神聖な遊びであった。『平家物語』にも平清盛に招かれた白拍子の祇王が清盛の仏御前への心変わりに謡った歌  
 仏もむかしはぼんぷなり 我等も終には仏なり いづれも仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ
とある。(『梁塵秘抄』の232歌と同様の歌で232歌は後二句が三身仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ とある)
  
 遊女の起源は古代、天皇が崩御した時に行う殯に奉仕した人々で組織された『令集解』にある遊部が始まりといわれる。遊部では主に鎮魂歌舞を行い、携わった者は遊行する女系の芸能者だと思われる。遊部の項では、天皇の死後一年ないし二年の間、殯所の中で死者に最も近づいて奉仕し、供物を捧げたり、太刀や戈を持って鎮魂の呪文を唱えたりする。元々、遊部の遊は歌舞することであって、その目的は死んで間もない新魂が荒れたり祟ったりするのを鎮めることであった。遊部の女性は古墳築造の葬制が変化し殯が廃止された頃にはその役割を失い神社の仕事は男性中心へと移り代った。死者の霊魂を鎮めるという職能女性は、対象を天皇や貴族から地方の民衆へと移し、遊行しながら里山で鎮魂歌舞を行うようになった。これが宗教者と芸能者を兼ねた民間巫女の姿であり、『万葉集』の遊行女婦につながる女性であった。宗教的機能とそれに伴う芸能的機能を発揮したのが我が国の遊女の本来の姿であった。遊部の行った葬祭儀礼を遊ということから聖なるものや他界との交感が遊であり、この儀礼に選ばれた女性は、宗教的な立場から巫女と呼ばれていたものが 遊女と呼ばれるようになった。このように古代から存在した我が国の遊女は、神と直結した巫女が起源であり、遊女が巫女の後裔である以上、遊女もまた聖性を具えていたことは明らかである。
 古代伝承に表われた最も古い遊びの事例は『記紀』にみえる天の安河のほとりにおける神集いである。天照大神が岩戸に籠り天宇受売命のエロティックな踊りで誘い出された時の表現は「汝命に益して貴き神坐す。故歓喜して楽ぶぞ(あそぶ)ぞ」と楽で表わされ、高木神の返し矢に当たって死んだ天若日子の妻や父が嘆き悲しんだ時は「如此行ひ定メ而、日八日夜八夜、以ち遊びき」と遊で表わされている。即ち、遊が死者に纏わる行為に使われたことに注目すると、遊とは心的状態を指す言葉として心を慰むより魂を慰むというべきで古代の殯所での行為がそれに当たる。聖なるものや他界との交感が遊即ち神遊びであった。神遊びから端を発した我が国の遊びは神仏混交の中世以降、現世利益と、来世への期待という浄土思想と相俟って世俗的な芸能へと発展し、一つの文化として形付けられていった。神の行為が貴族へ下降するようになり、遊びの内容は貴族の管弦・詩歌・舞楽などの享受を意味するようになった。このように遊は『梁塵秘抄』にみられる今様のなかでは戯れと同意語となり庶民や幼児の行為にも繋がる言葉となった。仏教に影響を受けた我が国の遊 びを、橋本峰雄氏は「この世俗的な遊びの精神は仏教の無常観の世俗化と民間への浸透によって我が国独特の形成を早くからみていた。」といい、『梁塵秘抄』にある
  遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子どもの声聞けば、わが身さえこそ揺るがるれ
は日本人固有の遊戯衝動であるといわれる。子どもの戯れ遊びの中にも成仏の道に繋がるという考えで、遊戯の心に任せて自在に振舞う行動そのものが大乗遊戯で、一遍の踊念仏にも通じるものと思われる。
  はねばはね 踊らば踊れ春駒の
  のりの道をばしる人ぞしる
の歌は魂に揺さぶられ歓喜踊躍せずにはいられない、まさにこの遊戯衝動であろう。
 あるいは遊の字義について白川静氏は「遊とはすべて自在に行動し、移動するものをいい、もと心霊の遊行に関して用いた語である。我が国の遊部が喪祝として神前に与かるものであったことは、遊の古義をなお存するものであり、遊君・遊女なども、もとは神に仕える者であった」と述べ、なお「遊ぶという語も神遊びが原義であり、あそばすという敬語もそこから生まれる。」また「遊は神と共にある状態をいう」と述べられている。
 これらからも日本の神仏に近い聖なる女性が我が国の遊女の真の姿である。現在我々が知る性的性格を持つ売春婦としての姿は近世にみられるようになるが、本来は芸能によって人々を楽しませることが目的であった。
 『梁塵秘抄』には卑賤視された遊女と、波乱の生涯の後白河院との貴賤を超えた交流がみられ、そこには古代から遊に内在する神の存在と当時の浄土思想が両者の心境に共通し、神仏と芸能との深い関係を窺うことができる。果たして、古代から遊を身に纏うという資質を持ち合わせた我が国の遊女は、神仏習合という日本独特の宗教を、遊行という手段で保存・伝播した芸能者であり宗教者でもあった。