はじめに
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中世には「蟻の熊野詣」(正しくは蟻の熊野参り)とよばれるほど、貴賎を問わず多くの巡礼者が熊野三山(本宮・那智・新宮)に参詣したのです。熊野参詣を隆盛に導いたのは、熊野社(三所権現)の勧進や布教活動などの自助努力もありますが、地方(在地)の先達(修験者〓山伏〓熊野参詣の案内人)や、それを支援する檀那の力に与る所が大きかったと考えられます。これまでの研究では、中世の伊予国は、全国的にも先達や檀那数は多い地域といわれていますので、それだけ地域史研究の観点からも、究明に値するテ━マを含んでいると思われます。
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現在にいたるまで、中世の伊予国における熊野信仰については、先達の所在(拠点の寺社)・分布等を究明した中央の研究者による業績がありますが[補注一]、檀那は、主として地域の領主(武士)がなることもあって、地域史からの視点による検討が必要でしょう。この方面では、古くは三浦章夫氏、近時には山内譲氏による研究が知られていますが[補注二]、ここでは、これまであまり取り上げられなかった、師檀契約を結ぶ願文の検討を中心に、伊予国の熊野信仰における檀縁関係の実態について、お話しいたしましょう。ただ、本題に入る前提として、中世における熊野信仰の広がりを概観しておきたいと思います。
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一 中世熊野信仰の広がり
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熊野信仰は、熊野三所権現の成立した十一世紀末以降に盛んになりました。式内社としての熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)に加えて、のちに那智社が成立し、それらが一体化したのです。熊野三山は、それぞれが同じ神を祀っていることが特徴的であるのみならず、神仏習合化(神仏混淆性)が最も顕著であるという性格をもっています。本宮は阿弥陀仏、新宮は薬師如来、那智社は千手観音を本地とし、本宮の主祭神の社殿を証誠殿といい(「一遍上人絵伝」に描かれている)、浄土思想の流行と相まって、極楽浄土(西方浄土)を意味するようになりました。また、新宮は東方瑠璃浄土、那智は補陀落浄土とも説明されるようになり、一般に受容されやすい性格を帯びていったのです。とくに、不浄視されていた女性などへも寛容的であり、女人禁制の厳しい高野山なとど対照的で、親しみやすいものでした。ただ、南北朝末期に高野山側が「熊野者、他国降臨之神体、男女猥雑之瑞籬也」と非難、攻撃しているように(「高野山文書」)、熊野信仰は、ややもすれば、品位を欠く点もみられ、戦国期から江戸時代にかけて、伊勢信仰、高野山信仰の隆盛にともなって、低調になっていったのです。
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熊野信仰は、熊野三所権現の成立した十一世紀末以降に盛んになりました。式内社としての熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)に加えて、のちに那智社が成立し、それらが一体化したのです。熊野三山は、それぞれが同じ神を祀っていることが特徴的であるのみならず、神仏習合化(神仏混淆性)が最も顕著であるという性格をもっています。本宮は阿弥陀仏、新宮は薬師如来、那智社は千手観音を本地とし、本宮の主祭神の社殿を証誠殿といい(「一遍上人絵伝」に描かれている)、浄土思想の流行と相まって、極楽浄土(西方浄土)を意味するようになりました。また、新宮は東方瑠璃浄土、那智は補陀落浄土とも説明されるようになり、一般に受容されやすい性格を帯びていったのです。とくに、不浄視されていた女性などへも寛容的であり、女人禁制の厳しい高野山なとど対照的で、親しみやすいものでした。ただ、南北朝末期に高野山側が「熊野者、他国降臨之神体、男女猥雑之瑞籬也」と非難、攻撃しているように(「高野山文書」)、熊野信仰は、ややもすれば、品位を欠く点もみられ、戦国期から江戸時代にかけて、伊勢信仰、高野山信仰の隆盛にともなって、低調になっていったのです。
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熊野三山へ参詣する道(熊野古道)は、紀伊路、伊勢路があり、紀伊路はさらに大辺路・中辺路・小辺路の三ル━トがありました。中世には主として中辺路が一般的となり、公式ル━トにもなりました。熊野参詣道には、多くの王子社(熊野権現の御子神を祀る分社、九十九王子と称せられる)が設けられ、参詣者は道すがらここで奉幣したり、経供養をしたり、法楽の催しをしたりして、旅の労苦や愁いを一時なりとも忘れたと思われます。
熊野参詣は、平安時代、院政期から貴族階級の間に盛んになり、法皇・上皇や女院、院の近臣、女房たちが、難路の苦しみを厭わず、大行列をなして、度重なる参詣を果たしたのです。鎌倉時代に入ると、地方の武士たちも貴族たちと同様に、参詣をする者が現れ、熊野信仰は、今までにない広がりと安定した基盤をもつようになったのです。
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鎌倉幕府が東国に開かれたこともあり、東国武士の間に熊野信仰が広がりを見せたといわれ、熊野三山末社の数は、中部・関東・東北が圧倒的に多く、関西地方は遠くそれに及びません。また、熊野三山関係の社領荘園は、膝下地の紀伊国や東海地方に多く、四国・九州地方などは極端に少ないことが指摘されています。当然、社領荘園には、熊野の末社が勧請されて、熊野信仰が盛んであったとみられがちですが、実は、熊野参詣隆盛の背景には、参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(修験者〓山伏)、熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師、檀那として御師の経済的支援をする武士、この三者の緊密な結合関係を形成するシステムが樹立されたことにあります。
とくに檀那は御師と師檀関係(檀縁関係)を結び、その名前(個人及び集団中の個々人の名前)や住所を記した名簿(願文)を提出したのです。檀那の名やその在所は、御師の家に伝わった文書によって確認されますが、中世後期には、檀那を金銭で売買することが一般化するので、売券類、譲状、寄進状、借銭状、請取状などの経済関係の文書に見られるのが特徴です。檀那を売買するという行為は、現代的感覚からすると、違和感を覚えますが、中世には、一種の経済的利権を表すものとして、社会的に承認されていたのです。
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二 伊予国における熊野社と先達寺院
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まず、伊予国における熊野信仰の基盤となったとみられる熊野社については、今まで先学がすでに拾い出されておられますし[補注三]、私も江戸時代における南予の宇和島藩・吉田藩の地誌(宇和旧記・吉田古記)や「宇和郡神名記」(宝暦一〇年作成)から抜き出しています。ただ、それらの熊野社は、古代・中世以来の確かな史料にはほとんど姿を現さず、中世の熊野信仰の拠点になりえたかどうか、定かではありません。それに、中世の伊予国において、熊野社領荘園は、全くといってよいほど設けられていません。わずかに建武三年(一三三六)二月に足利尊氏が熊野新宮衆徒に西条荘を与えているくらいで(熊野速玉神社文書)、それも一時的な恩賞の意味合いが強いものです。
それに対して先達である修験者(山伏)や檀那の数については、熊野本宮の場合、伊予国は、全国有数であるという調査結果があります(宮家準氏著『修験道組織の研究』、春秋社発行、参照)。
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当国の先達の特徴としては、真言系の旧仏教寺院(四国遍路の札所になったもの)、伊予国の東半分の比較的海岸に近い地域に多いこと、石鎚山・出石山という二大修験霊場、一宮(三島社)という大社、主要な寺社(宇摩郡新宮の熊野神社、石手寺の鎮守社など)を拠点にしたことなどが指摘されています。ただ、在地における修験者の活動を具体的に知る史料はきわめて少なく、実態が明らかではないのが残念です。その中でも、風早郡の熊野谷権現社(ゆやだにごんげんしゃ)の事例は、詳細な点が分かるので、きわめて興味深いものがあります。当社の社僧(修験者)である池内氏(河野氏分流)は、檀那の守るべき社役を定めていますが、「当所より熊野参けいの人ハ、湯屋谷権現へ先参也、ふさた候へハ、道中にてしちありと申しつたへ候」と述べています(池内家文書、明応九年九月九日付熊野谷権現社僧勝賢置文)。
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三 檀縁関係からみた伊予の熊野信仰
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売買の対象になった檀那(武士)は、(一)檀那の一族、一門、(二)地域、(三)先達に分類されるといわれています。(一)と(二)について、具体例をあげて検討してみましょう。 売買の対象になった檀那(武士)は、(一)檀那の一族、一門、(二)地域、(三)先達に分類されるといわれています。(一)と(二)について、具体例をあげて検討してみましょう。
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中世の伊予国で最大の武士団を形成したのは、河野氏です。これまで熊野社の檀那として河野氏を取り上げた研究はありませんが、年不詳の「潮崎氏檀那目録」(近藤喜博著『四国遍路』に引用)に登場します。
同国(伊予国)河野ノ一族十八ケ村、其外トウコ・トウセン一円、 並川野ゝ一門十八ケ村々一族ケイツ書立有、代弐拾六貫文分とあります。目録という史料の性格上、断片的なことしか分かりませんが、河野氏一族を一括して表す「十八ケ村」という概念(「予章記」などにも見える)をもとに、檀那を二十六貫文という熊野社の檀那売買としては、かなり高額な値段で売却されているのは注目されます。「十八ケ村」で括れない河野一族、それも道後・道前地域における河野氏勢力圏全体を把握するので、そのような値になったのでしょう。興味深いのは、各氏族から提出された系図を根拠にしているところです。しかし、河野氏一族を示すという「十八ケ村」というのは、きわめて図式的、概念的なものとみられ、それらをもとに檀那を売買するといっても、実際には難しかったと考えられます。このように氏族単位に檀那を売買する方式は、一般的ではありません。伊予国では、他に善成坊什湛という先達から仙波氏一門等の檀那の権益を実報院という熊野那智社の御師へ売却している例が知られているだけです(熊野那智大社文書)。河野氏の有力家臣で、熊野社の檀那として見えるものも少なくないので
す。例えば、伊予郡大平の天神山城主の森山氏とその一門、久米郡岩加羅城主の志津川氏、浮穴郡小田(のち久万の大除城主)の大野氏などです。この三氏が共通の先達としたのは医王寺(現東温市)で、年不詳の医王寺引檀那注文(新出熊野本宮大社文書)に「しつ河遠江守殿、森山殿、小田大野殿」が見えます。
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以上の有力な氏族単位を檀那として把握する形態とは異なり、地域の小規模な武士集団を檀那として捉える方式も見られます。例えば、応永元年(一三九四)正月十六日の伊予郡長田郷岡田衆中檀那注文(新出本宮大社文書)によれば、岡田衆という伊予郡の武士集団(小田・町田・長田・東・北・森・向居・田中・大西・安松・重延等諸氏)が見え、その他、長田郷内の農民や氏族単位の檀那(一家中)もいて、随明寺僧橋本坊を先達としていたといいます。こういう地縁的な結合形態(河野氏の軍事組織でもあったか)を利用した檀那も存在したのは、興味深いものです。
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次に喜多郡の事例をあげてみましょう。この地域は、中世には河野氏の支配領域ではなく、宇都宮氏やその系列の武士をはじめ、比較的規模の小さい領主が割拠していたのです。そういう状況が熊野の檀那の分布状況にも如実に反映されています。年未詳の喜多郡八多喜寺が先達であった檀那注文(那智大社文書)によると、津々喜谷氏(宇都宮氏家臣、滝之城主、在所は横松)、水沼氏(粟津郷)、上須戒の向居氏、延尾氏、篠尾氏、臼杵氏のグル━プ、笠間(宇都宮一族)、土屋、市木のグル━プ、下須戒氏(矢野氏流)、出海の兵藤氏、富永氏流の小田大野氏・立花氏・石原氏・宇津氏など、五つの系列に区分されています。これらは、地縁的、氏族的に纏まりのあるものです。これらの在地領主らの中には、下野国から移住してきた宇都宮氏とその被官、三河国設楽郡から移りすんだとみられる兵藤氏や大野氏など、他国から伊予国へ来た武士たちも交っています(補注四)。
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喜多郡には先達寺院も多く、伊予国の中でも熊野信仰が顕著に見られます。ただし、喜多郡の事例で注意しなければならないのは、喜多郡菅田の清谷寺に伝わったという暦応三年(一三四〇)十月十八日付の檀那譲状(「大洲旧記」所収)です。しかし、この文書は、文書様式からみても、譲状ではなく、内容的にみても、清谷寺という一地方の修験寺院が道後河野氏を始め、喜多郡内の武士たち、宇和郡の西園寺氏、宇和郡須智郷の北ノ川氏など有力な領主多数を檀那とするなど、誇大な記載をしていて、年代的にも疑わしいものです(補注五)。後世、修験者は、信仰圏(霞という)を誇大に吹聴して、虚勢を張ることもあるので、これもその一種とみられます。
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むすび
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以上、伊予における地域の在地領主(武士)を檀那とする熊野信仰の実態について、いくつかの事例をもとにお話しいたしましたが、現地調査を踏まえた体系的な研究にはほど遠く、今後の課題としたいと思います。
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(補注一)新城美恵子「中世後期熊野先達の在所とその地域的特徴━陸奥・伊予国を例として━」(『法政史論』第六号 一九七九年)、石倉孝祐「伊予国における熊野師檀関係」(『神道宗教』第一二二号 一九八六年)、弓野瑞子「中世伊予の熊野信仰」(武田佐知子編『一遍聖絵を読み解く』所収、一九九九年)
(補注二)三浦章夫「室町時代における伊予国の庶民信仰」(『伊予史談』一七五号一九六四年)、山内譲「曽我兄弟と山吹御前━中世伊予の地域間交通と熊野信仰━(『ソ━シアルリサ━チ』第二一号 一九九六年)
(補注三)石倉前掲論文及び多田史談会での石野の講演(平成一七年三月三日)「中世多田の領主と宗教━多田宇都宮氏・安楽寺・下木坊━」レジュメ参照。
(補注四)拙稿「兵藤氏の伊予国移住・土着をめぐって」(『長浜史談』第二九号 二〇〇五年)
(補注五)拙稿「中世伊予における熊野信仰史の一齣━いわゆる清谷寺檀那譲状への疑問を中心に━」(西南四国歴史文化論叢『よど』第十号 二〇〇九年)
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