一遍会8月例会(09.8.8)
一遍を陸奥国江刺(祖父通信墓)に道案内した男  河野道次
三好 恭治
一、 はじめに
@一遍・時衆の三〇〜四〇名の教団が丸3年に及ぶ猛暑・厳寒の遊行を可能にした経済的、政治的背景を如何にとらえるか。また、時衆の生命と通行(安全・安心)を保証した人的背景を如何にとらえるか。担保は「賦算」(南無阿弥陀仏による救済)だけか。

A『聖絵』に描かれた宗教的奇蹟(紫雲、踊念仏、係累同行(超一・(超二)・念仏房・聖戒)を如何に絵解き(解釈)するか。

B時衆の僧と尼僧は略同数(20名前後)で構成されるが、遊行時の宗教的運命共同体において尼僧が重要な役割(遊行に不可欠な役割)を担ったと考えられないか。

C3年に及ぶ東北遊行を支えた背景に東北・関東鎌倉武士団があり、その中心に通信の長子通俊(得能祖)の次男通重(一遍の従兄)が居た。京都から陸奥まで一遍・時衆を道案内したのは通重の二男通次(宿阿)であった。
二、一遍時衆の遊行を支えた奥州河野家
文治五年(1189)源頼朝による奥州藤原氏(平泉)討伐時、河野通信は長子通俊とともに従軍する。戦功により伊予国久米郡と陸奥国栗原郡三迫(サンノハザマ)を与えられる。【河野通信、奥州三の迫を給ふ(予章記)】

承久の乱(1221)で上皇側に加担した河野通信の所領はすべて没収され、通信は陸奥国江刺(極楽寺)に流刑となる。この乱中に通俊は戦死するが、その子通重は鎌倉方であったので、葛岡村地頭として所領は安堵される。のち、六波羅探題出仕となるが、老齢の為、次男の通次が六波羅探題大番役として出仕する。

奥州河野家は通俊の子通重から始まる。通秀と通重は、異母兄弟であり、一遍の従兄に当たる
【予州・得能家】

   通俊―通秀―通純―通村(通純実弟)― 通綱
【予州・得能家】

   通俊―通秀―通純―通村(通純実弟)― 通綱
【奥州・河野家】栗原郡三迫郷(のち葛岡村)地頭

   通俊―通重【珠阿]―(長男)敏行(稗貫家)[長阿]

               ―(次男)通次〔宿阿〕

               ―(三男)通綱
後年、予州得能家の通綱は、疲弊した一遍生誕寺である宝厳寺の再興を果たした。
三、一遍との出会い
 鎌倉武士である河野通次(〜1309「時宗過去帳」)は六波羅探題大番役出仕中、弘安二年(1279)、烏丸五条の因幡堂で一遍の布教に出会い、入道して「宿阿弥陀仏順道」の法名を授与される。縁あって一行の先導で奥州へ出立することになる。信濃から江刺までの道程は鎌倉武士団の諸領地であり、城主、武士、寺院の支援の中で炎暑・厳寒を通して無事に陸奥国までたどることになる。『聖絵』の中にこの間での時衆の死去や疲弊の記述が一切見当たらないことがその証左でもある。
 一遍聖絵』によれば、一遍は祖霊巡礼の思いが強く、時衆と共に弘安二年(1279)八月に京都から信濃国(善光寺)に向かう。同年歳末に同国佐久郡伴野(在家)、小田切の里(武士の館)、野沢城(城主:大井太郎・伴野太郎時信)を経て下野国(栃木県)小野寺に着く。翌弘安三年(1280)陸奥国(現岩手県)江刺で祖父通信の墓(現・北上市稲瀬町水越)に詣で、松島・平泉(源義経終焉地)を経て、常陸、武蔵国石浜(現・東京都浅草)に着く。翌々年、弘安四年(1281)、相州(神奈川県)高座郡当麻に「無量光寺」を開き、実母(大江氏)の持領地で過ごす。弘安五年(1282)3月鎌倉入りを果さず、片瀬の地蔵堂で数ヶ月を過ごし、7月に伊豆国(静岡県)三島に向けて出立し京都に向かう。
 江刺での一年は概ね次のような事績が残っている。

弘安三年 秋・冬 ○河野通信墓回向(すすき念仏)○極楽寺参拝○河野通重館(通信孫)○通重(珠阿弥陀仏)、通重妻(聞一房)、長兄・稗貫敏行(長阿弥陀仏)入信

弘安四年 春・夏 ○林長山光林寺落慶(落慶導師は一遍)○鎮守社、十王堂などを爾後建立する。別時念仏、踊躍念仏で勧化しながら南下していく。

(注)一遍の江刺での事績は、司東真雄(元奥州大学教授・住職)著「岩手県 時宗 略史」に拠る。
四、おわりに
論者は一遍時衆の遊行にあたっては、街道筋、社寺、市場での賦算は別として、移動に当たっては全国に点在する河野系武士団や有力鎌倉武士団の暗黙の了解や支援があって初めて実行できたと考えている。