はじめに
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『一遍聖絵』を読んでいくと、一遍上人(以下一遍と表記)が思慕し、尊敬し、生き方を学んだ平安時代の念仏者がいたことがわかります。一人は空也上人(903〜972)、もう一人は沙弥教信(?〜866?)です。一遍は、殊更この二人にあこがれ、その跡を辿ろうとしたことが、『一遍聖絵』にはっきりと書かれています。
まずはじめに、空也と教信を特徴付けるものとしてあげておかなければならないのは、二人は共にしやみ沙弥として一生を貫いたということでしょう。空也は晩年に叡山で正式に受戒して光勝という名を受けましたが、生涯沙弥名の空也で通しました。沙弥とは、二十歳未満の見習僧、正式の僧侶となる手続きを経ていない出家者、形は僧でも妻子を養い、正業についている者、を指す言葉です。
さて、この平安時代の二人の沙弥を一遍はなぜあれほど尊敬したのか、今日はこの二人の沙弥念仏者について、見ていきたいと思います。
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一遍と空也
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『一遍聖絵』によると、一遍は出家した最初の頃から、「空也上人は我先達なり」と言い、後に紹介する空也の言葉を心にとどめ、よく口にしていたと、伝えられます。また、一遍聖絵は、踊り念仏も、もとは空也が始めたものだと言います(これは確認できません)。一遍は空也の遺跡である京都の市屋に長く滞在し、踊り念仏を行っています。
また、『一遍上人語録』には、
むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申べきやと問ければ、「捨てこそ」とばかりにて、なにとも仰られずと、西行法師の撰集抄に載られたり。是誠に金言なり。
という一遍の言葉が残されています。
それでは、空也とはどのような人物だったのか、空也の生涯を見ておきたいと思います。
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空也の生涯
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主に、『空也(上人)るい誄』(空也上人の没後程なく、同時代の文人貴族・ 源為憲によって記された追悼文)による
空也上人は、903年(延喜三年)に生まれた。自分から父母について語ったこともなければ、出身地について語ろうとしたこともなかったので、出自ははっきりしない。
ただ、一説には、皇族の子供(醍醐天皇皇子説、常康親王王子説あり)であるとも言われていた。
子供の頃から家を出て、町に出て乞食したり、山野で修行をするという生活であった。まだ僧ではなく、優婆塞(在家信者)であった。この時期に、日本国中を回った。
道が悪く人馬が苦心しているのを見ると、自ら鋤を担ぎ道を直したり、橋のない川に橋を架けたり、井戸がなくて水に苦しむのを見ると、水脈を探り井戸を掘った。
野原に捨てられた死骸を集めて、油を注ぎ、阿弥陀仏の名を称えて回向した。
二十歳を過ぎて、尾張の国の国分寺に入り、剃髪し、名を空也と改めた。しかし寺に住む正式の僧とはならず、民間の仏教信者である沙弥として生き、乞食の生活はやめなかった。
播磨の国のみねあいでら峯合寺に一切経があり、数年間籠もって研究する。分からないところがあれば、夢に金人が現れて、教えてくれたと言う。(このとき、善導の著作と出会ったと考えられる。)
四国に赴き、阿波・土佐の霊場に参る。また、仏教の広まっていなかった陸奥・出羽に赴き、背に仏像を背負い、経論を担ぎ、大法螺を吹いて、布教し、多くの人を仏教に帰依させた。(会津にいくつか伝承あり)
三五歳の時(天慶元年)、京都に入り、市井の間に隠れて、乞食し、布施を得れば自分のものとはせず、仏事に使い、また貧民や病人に分け与えた。これによって、みんなから感謝され、市聖と呼ばれた。また、常に南無阿弥陀仏を称えていたので、阿弥陀聖とも呼ばれた。京都の東西に、井戸を掘ったので、阿弥陀井と名づけられた。
京の東の囚獄の門に仏塔を建て、囚人たちから、図らずも仏のありがたいお姿を拝むことができ、抜苦の因を得たと、涙を流して感謝される。
重病の老女を、毎日朝夕二度訪れ、戒律を破ってニンニクや生肉を買って与え、親身になって看病した。二月の看病の後、老女は回復した。回復した老女の様子がおかしいので尋ねると、精気がよみがえってきたので、体の交わりをもちたいと願った。上人は、少し考えた後、受け入れようとまでした。(すると、老女は老狐の姿に変わり、あなたはまことの聖者であると言って、消えてしまった。)
四六歳になって、比叡山に登り、天台座主延昌から、大乗戒を受け、名を光勝としたが、空也の名を捨てず、山を下りるともとの生活に戻った。
その後、大規模な慈善事業のリーダーとして活躍した。近畿に疫病が蔓延し、死人が多く出ると、供養のために、大観音像などを建立したり、『大般若経』600巻の書写を計画し、十三年かけて完成し、供養会には、多くの貧しい人を招いて、食飯供養を行った。
天徳年間(957-961)、五六歳頃、伊予松山の浄土寺に、三年間草庵を結び、念仏を伝える。浄土寺に空也像あり。
六〇歳頃に、千観内供(918-983)との出会いがあった。宮中の仏事を取り仕切る地位にあった千観内供は、以前から死の不安を抱えて悩んでいたが、仕事からの帰り道、四条河原で空也を見かけ、「どうすれば後生に助かることができるでしょうか」と教えを請うた。空也は、「あべこべです。そのようなことは、あなたのような方にこそ問うべきであるのに、私などはさまよい歩くだけです。知っていることなどありません」と言って立ち去ろうとする。さらに千観が袖をつかんで必死になって問えば、空也は一言、「いかにも身を捨ててこそ」とだけ言って、去っていった。千観はその場で衣装を脱ぎ捨て、地位を捨てて、庵に籠もってしまった。
空也上人は、972年(天禄3年)九月十一日、京都の西光寺(現六波羅蜜寺)で亡くなった。六十九歳であった。
最晩年、念仏を通じて親しくつき合っていた老女があり、善友と称し合っていたが、上人は自らの死が近いことを覚って、この老女に衣を仕立ててくれるように頼んでいた。入滅の朝、老女は召使いに、「我が師は今日亡くなられる。急いでお届けなさい」と言って、衣をもたせたが、召使いは日が暮れてから帰ってきて、その日空也上人が亡くなられたことを伝えた。老女は全く驚かなかったと言う。
入滅が近づくと、体を清め、きれいな衣を着て、香炉を炊いて座り、西方に向かって瞑想した。そのとき、音楽が上空から鳴り、香気が部屋に満ちたと伝えられる。
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空也の言葉
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名を求め衆を願ふとせば、身心疲れ、功を積み、善を修せんとせば、けもう希望多し(必要以上に望みが出て、悩みが増える)。孤独にして境界(地位)無きにしかず、称名して万事をなげうつにしかず。閑居の隠士(独り住む世捨て人)は貧しさを楽となし、禅観に幽室せば(座禅して瞑想すれば)、かん閑(しずけさ)を友となす。とうえ藤衣しきん紙衾(粗末な衣・紙わら藁でできた布団)はこれ浄服、求めやすくして盗賊の恐れなし。
『一遍聖絵第七』
心に所縁(執着)なくば、日暮るるに随って止み、身に住する所なくば、夜暁くるに随って去る。忍辱の衣(堪え忍ぶ心)厚ければ、杖木瓦石に痛からず。慈悲の室深ければ、罵詈誹謗(悪口やののしり)聞こえず。口に信せて称する三昧なれば、市中是れ道場。声に随う見仏なれば、息精(出入りする息)即ち念珠なり。夜々仏の来迎を待ち、朝々最期に近づくを喜ぶ。三業(身と口と心の働き)を天運に任せ、四儀(行住坐臥のふるまい)を菩提に譲る(仏道に捧げる)。
『一遍聖絵第四』
(東都囚門に石塔を建てて詠んだ歌)
一たびも南無阿弥陀仏といふ人の
はちす蓮のうへにのぼらぬはなし
『拾遺和歌集』
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空也の出現の意味
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空也が現れ、活動した意味とその後の影響を、空也の弟子であったよししげ慶滋やすたね保胤が、的確な言葉で、短く言い当てています。
てんきよう天慶(938年)よりさきつかた以往、道場しゆうらく聚落に念仏三昧を修すること希有なりき。何に況や小人愚女多くこれを忌めり。上人来りて後、自ら唱え他をして唱へしめぬ。その後世を挙げて念仏を事とせり。誠にこれ上人の衆生をけど化度するの力なり。
(よししげ慶滋やすたね保胤『日本往生極楽記』十七「沙門空也」の結び)
空也は、まさしく、称名念仏を一般の人々に広めた最初の人であったと、知ることができます。一遍は、空也のこうした面に強い魅力を感じたのでしょう。
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一遍と沙弥教信
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一般の人々にとっての称名念仏ということで忘れてはならないのが、空也よりもさらに100年ほど前の沙弥教信です。『一遍聖絵』によりますと、一遍は、亡くなる三年前(弘安九年1286)、加古川の教信寺を訪れ、四〇〇年近く前の念仏者沙弥教信を忍んでいます。そのとき、余程の思いがあったのか、一遍は、「教信上人のとどめ給ふ」と言い、教信寺に一泊した、と伝えられます。また、臨終直前には、「いなみ野のほとり辺にて臨終すべきよし思つれども、いづくも利益のためなれば進退縁にまかすべし」と一遍は語ったが、はたせず、神戸で亡くなった、とされます。印南野の辺とは、教信寺のあるあたりを指す言葉です。一遍は、自分が死んだ後は「野にすててけだものにほどこすべし」と語ったと伝えられますが、この言葉がどれほど教信への思いによって発せられたものであるかは、後に紹介する教信の臨終の物語を読めば、おわかりいただけるかと思います。
さらに、『播州法語集』には、一遍の言葉として、
念仏の機に三品あり、上根は、妻子を帯し家にありながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食とを帯して、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。我等は下根のものなれば、いっさいを捨ずは定て臨終に諸事に著して往生を損ずべきものなり。よくよく心に思量すべし。
とあります。上根とは沙弥教信のことを言っていることは、疑うことができません。
また、親鸞聖人も、常に、「われはこれ教信沙彌の定なり(同類のものである)」と語っていたと、覚如上人(親鸞の曾孫)が『改邪鈔』に書き残しています。
沙彌教信のことを伝える最も古い文献は、先にも引用しましたよししげ慶滋やすたね保胤の『日本往生極楽記』(985)です。それでは、読んでみましょう。
摂津国しまのしもの島下郡かちお勝尾寺の住職勝如は、別に草庵をつく起りて、その中に蟄居せり。十余年の間言語を禁断す。弟子童子、相見ること稀なり。夜中に人あり、来りて柴の戸を叩きぬ。勝如言語を忌むをもて、問ふことを得ず。ただしばぶき咳の声をもて、人ありと知らしむ。戸外にて陳べて云はく、我はこれ播磨国かこのごおり賀古郡賀古うまや駅の北のほとり辺に居住せる沙弥教信なり。今日極楽に往生せむと欲す。上人年月ありて、その迎へを得べし。この由を告げむがために、故にもて来れるなりといふ。いいおわ言訖りて去りぬ。
勝如驚き怪びて、明旦弟子の僧勝鑑を遣し、かの処を尋ねしめ真偽をみ検せむと欲せり。勝鑑還り来りて曰く、駅の家の北の竹のいおり廬あり。廬の前に死人あり。群がれるいぬ狗競い食せり。廬の内に一の老嫗・一の童子あり。相共に哀哭せり。勝鑑便ち悲べる情を問ふに、嫗の曰く、死人はこれ我が夫沙弥教信なり。一生の間、弥陀の号を称へて、昼夜休まず。もて己の業となせり。隣里の雇ひ用ゐるの人、呼びて阿弥陀丸となす。今嫗老いて後に相別れぬ。これをもてな哭くなり。この童子は即ち教信の児なりといへり。勝如この言を聞きて自らおも謂へらく、我の言語なきは、教信の念仏に如かずとおもへり。故に聚落に往きいた詣りて自他念仏す。期の月に及びて、急にもて入滅せり。
教信の臨終は、866年のことだとされています。平安時代の初期のこの時期に、一雇われ労働者に過ぎなかった者が、称名念仏をすでに行い、生涯常に念仏し通したということは、驚くべきことです。(円仁の遺言によって比叡山で不断念仏が始まったのは、856年のことです)
しかし、沙弥教信の物語は、時代を経るにつれてだんだん大きくなり、12世紀の『往生拾因』には、頭は食われずに、石の上で微笑んでいたとかが付け足され、14世紀の『峯相記』では、教信上人は興福寺の碩学であったが、世間の苦を嫌い、高徳の身を隠して、一労働者として生きていたが、日想観の実践を行うために賀古駅に住んでいたとか、さらに19世紀初頭の『播磨名所巡覧図絵』では、教信は清浄堅固の高僧とされ、光仁天皇の皇子であったが出家した、とまで書かれることになりました。
しかし、本当に大切なのは、沙弥教信が非僧非俗のままに妻子と暮らし労働しつつ念仏していたことです。しかも沙弥教信の念仏はひたすら阿弥陀様の名を称える称名念仏であったと100年ほど後に書かれた『日本往生極楽記』に明記されています。ここに、親鸞や一遍といった鎌倉時代の偉大な念仏者も深い感銘を受けたに違いありません。
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