平成21年6月度例会講話
『予州亥之助漂流記』
〜漂流百十日、十三名全員の命を救ったもの〜
今村  威
 『予州亥之助漂流記』は、幕末期に外国まで漂流して帰国した船子(船員)亥之助を取り調べた松山藩の記録である。亥之助は、伊予国松山和気郡興居島の船子で、今年(弘化三・一八四六年)四三歳。一七年前(文政一三年)より、稼ぎのため大坂に行き、北前船に乗り、奥羽、江戸、越後、蝦夷(北海道)松前、壱岐、対馬などまでも往来する。九前(天保九年)より、兵庫西ノ宮内町中村屋伊兵衛の船千二百石積み(約三三四トン)永住丸の船子となる。およそ六年前(天保一二年)外国に漂流して今年(弘化三年)伊予に帰国できた。

永住丸の乗組員は、沖船頭(船長)紀州善助、舵取(航海長)予州亥之助、表仕(船頭・舵取の補佐役)能州儀三郎、賄(事務長)阿州八太郎、水主(カコ・船員)同弟七太郎、紀州弥市、播州岩蔵、肥州太吉、能州勘次郎、惣助、豆州万蔵、奥州要蔵、炊キ(炊事係)同国三平の計一三名である。十分な食料もないまま太平洋を漂流すること一一〇日、一人の死人も出さなかった。

漂流から帰国までの経過は次の様である[()内は太陽暦]。天保一二年八月二二日(一八四一年一〇月六日)兵庫出港、奥州宮古に向かう。十月一二日(一一月二四日)下総銚子沖で、暴風に遭い、帆柱も舵も失って漂流が始まる。天保二二年二月二日(三月一三日)太平洋上で邑宋船(フィリピン、メキシコ間を往来するスペイン船)に救助される。三月一七日(四月二七日)北亜墨利加カリフォルニア半島サンルーカスに着船上陸。サンホセを経て、天保一四年三月一〇日(一八四三年四月九日)マサトランに着き落ち着く。弘化元年三月二九日(一八四四年五月一六日)廈門(アモイ)行きイギリス船に乗船、マサトランを出港。五月二〇日(七月五日)マニラ着。六月一五日(七月二九日)廈門着。以後、舟山など中国沿岸をたどり、弘化二年六月二六日(一八四五年七月三〇日)乍浦出港、七月一二日(八月一四日・遭難より一三六〇日)長崎着。様々な取り調べの後、弘化三年五月七日(一八四六年五月三一日)長崎発、小倉を経て五月一八日(六月一一日)ようやく松山に帰り着いた。

  『亥之助漂流記』には漂流し始めて二七日目の十一月八日(一二月二〇日)、「米僅ニ一升残レルニ、雨水五、六合、酒三升、砂糖少々入レ、粥ニ炊キ「今日ハ米ノ食ヒ仕舞也トテ、十三人ノ者共ウチ泣キクチ泣キ是ヲ頂キ、是ヲ限り此世ノ別レナレバトテ、銚子盃取出シ残レル水少々入レ、別レノ盃取カワシ手ニ手ヲ取合ヒ泣悲シミ倒レ伏タル有様ハ実ニ哀レナル事ニテ之アリ。其後ハ一粒ノ米之無ク、白砂糖ヲ嘗メ酒ヲ飲ムヨリ外ハナシ。サレドモ追々体労レ、空腹ニ成リテハ酒ヲ気強ク飲ムトモ咽ニ通ラザル故、白砂糖ヲ酒ニ和シ、釜ニ入レ焚キ詰メ酒気ヲ湯気ニ洩シ是ヲ少シヅツ食シテ辛キ命ヲ繋ギ、其日ヲ送リ候。又天気ノ穏ナルトキハ、麻縄ヲ以テ体ヲ縛リ、船ヨリ釣リ下ロシ、船底ニ付キタル牡蠣貝ナド取リテ喰ヒ、又魚ヲ釣ル道具ヲ持タル故、ダマシト云へル物ニテ、少々ハ魚ヲ釣り、取交シ食べ候へドモ、十三人ノ事ナレバ引キ足り申サズ。精力日々ニ衰へ、船ノ垢(閥伽)取捨ル事ヲダニ仕カネ、既ニ七、八人ハ飢ノ病ニ臥シ居タリ。」と記されている。水盃を交わして、「生きるも死ぬもみんな一緒だ」と誓ったのを堅く守って、たまに手に入る僅かな食料を平等に分け合っているの は、極限の飢餓状態ではなかなかできることではないが、この平等に徹した生き方が、精神的な安定をもたらし、一同を餓死から守ったのである。

 ちょうど漂流一一〇日目の天保一三年二月二日(三月一三日)、外国船が近づいてきた。見慣れない黒船である。はしけ二艘を降ろし、鉄砲三挺ずつ積み、手に手に二〇数センチの短剣を持ち、漂う永住丸の回りを廻り、偵察した上で、異国人五、六人が永住丸に乗移ってきた。そのうちの一人が、船頭善助に「観藤」の文字を書いて見せた。善助が「くゎんとう」と読むと、「彼はハボン(日本人だ)」と叫んだ(中国人であれば「クヮントン」と読む)。すると異国人たちは急に友好的になり、「ここにいては死んでしまうから、あの船に移れ」というようなことを身振り手振りで教え、永住丸に残っていた大事な積荷まで運んでくれるので、一同恐ろしくは感じられたが、しかたなく異国船に乗り移った。

 この船は長さ一五、六問(約七メートル)、幅四間(約七メートル)位、帆柱三本、麻の白帆を九つ掛けたりっばなもので、二八人が乗船し、フィリピンからメキシコへ向かうスペイン船であつた。大洋を渡る船は、予定の日数と人数を勘案して必要な水を貯え、出港しているものである。それが不意に一三人もの救難者を乗せたものだから、水に不自由することは避けられない。亥之助らは、炊かれた飯がいつも堅いことで、その事を知る。

 スペイン船がこれほどまでに友好的であつたのには、深い訳がある。慶長一四(一六〇九)年、フィリピンからメキシコに向かつていたスペイン船が、上総国御宿の沖で、岩礁に乗り上げて難破した。五〇余人が溺死し、三〇〇余人が御宿海岸に漂着する。御宿の村人たちは平等心をもって献身的に救助にあたり、中でも御宿の海女たちは、仮死状態のスペイン人を、素肌で抱いて温め、次々に蘇生させたと伝えられる。スペインの船員たちの問には、長く「オンジユク・アマ」の言葉が語り伝えられていたという。この船に、スペインの貴族で、フィリピンの臨時総督を務めて帰国途上のドン・ロドリゴがいたので、スペインとの交易を望んでいた徳川家康によって優遇され、四〇日近く江戸に滞在した。将軍秀忠は、スペイン船を建造し、使節を同乗させてメキシコに送り届けた。ドン・ロドリゴ著『日本見聞録』には、「世界で最も美味なるパンは、江戸のパンである」と書かれている。亥之助らを助けたスペイン船の船員たちは、二三三年前の「オンジユク・アマ」たちへの恩返しをしようとしたものと思われる。

   ところで永住丸乗組員たちは、その後メキシコからアジア方面に向かう外国船に二、三人ずつ乗せてもらい、中国沿岸までたどり着いている。しかしアヘン戦争直後の現地では、「日本へ帰ると、異国帰りは殺される」との流言がまことしやかに語られていて、せっかく救助されながら、日本に帰ることを断念した漂流者たちも多かった。永住丸乗組員中確かに帰国できたのは、船頭善助、舵取亥之助、賄八太郎、水主弥市、同太吉の五名に過ぎず、後の八名は、異国で別れたきり、消息は不明という。亥之助は、松山藩から僅かに一人扶持を与えられて、藩外へ出ることを禁じられた。