平成21年5月度例会講話
建物に浮かぶ時代・・・愛媛の近代
犬伏 武彦
幕末から明治への時代・・・押さえつけられていたエネルギーが噴出した時代が建物にうかがえることが面白い。残された建物から時代の様相や人間の姿が浮かぶのです。

釣島灯台
 明治六年(1873)松山沖の釣島に灯台が建設されました。近代国家建設の歴史が松山沖の小さな島に刻まれています。

伊能測量と中島
 文化五年(1808)八月五日、幕府天文方、伊能忠敬測量隊は、興居島から由利島を測り、津和地・怒和島・中島そして十日睦月村、野忽那島を測りました伊能忠敬の測量隊に大洲藩から絵図方野合付添という御用掛をした東寛治という侍がいました。微禄の藩士ですが、規矩術を学び、大洲藩領の絵図を数多く遺しているのです。「伊能忠敬に弟子入りを願い出て、許された。寛治にとって生涯の誇りであった」と、家人に伝わっています。伊能忠敬の偉大さは言うまでもありませんが、その陰には東寛治のような地方の名もない人間がいたのです。

中島粟井・米澤家住宅
 中島・粟井に江戸時代から続く海運業を営んだ家があり、建物が残っています。九州・日向や土佐・宿毛で生産される木炭を買い付け、大阪市場へ運び、問屋とやりとりして利益を上げていたのです船主・米澤家の家屋敷は、海運業で栄えた粟井の歴史と船主の暮らしぶりを伝える貴重な例です。

椀船・桜井漆器
 今治市桜井に江戸末期から漆器の卸販売を行う「小谷屋」があり、『冬下り和城物語』と題された航海日記が遺されています。明治四年(1871)十二月朔日、桜井浜を一隻の船が出帆しました。積まれた荷は桜井漆器、船主・宇之助のほか五人の売り子が乗り込んでいました。桜井を出た船は波止浜、安居島、平群島、八島と風待ち、潮待ちを繰り返しながら宇和島に着いたのが十二日の朝。十五日から天秤棒を担いで城下で漆器を売り始めました。船中で年を越し、正月は六日より売始め、二十一日には藤蔵など三人は岩松へ、友吉は三間へと行商の範囲を広げ、二月初めまで桜井漆器を売り歩いたのです。愛媛の伝統工芸として桜井漆器は有名ですが製造産地としての歴史は浅いのです。原料の漆も木地にも恵まれない桜井になぜ、漆器製造が興ったのでしょうか?

開明学校
 『国の重要文化財・開明学校』から思われる一番のことは、『開明』と付けられた校名だと思います。この言葉に人々の気持ちが表れています。自由で、縛られていたものから解放されていく明るさを感じたのではと想像されます。

福島県安積開拓入植者住宅
 福島県郡山市に旧松山藩士、その家族の暮らした家が残っています。明治政府が国営事業として猪苗代湖から疎水を引き士族授産のため安積開拓を決定、その入植者として松山から移り住んだ人の家です。

郡山市指定重要文化財・旧小山家住宅は次のように説明されています。
「この住宅は、明治十五年(1882)に旧松山藩(四国・愛媛県)から安積町牛庭地区に入植した「愛媛松山開墾」十六戸の一棟です。郡山市内にあって、入植者住宅の様子を知り得る遺構は、現在二棟しか残っておらず、その中でもこの住宅は完全な形で当時の入植者住宅を知りえる唯一の遺構と認められます。平成五年、この住宅は寄贈され、開拓の歴史を常に記憶にのこしていただくため、重要文化財に指定し安積開拓百二十年記念事業として復元いたしました。入植者の住宅は自己資金の差などの関係でその大きさに差がありましたが、この住宅は必要最小限の住宅であったことがうかがえます。」

魚類製造家屋
 明治二十二年(1889)三月、由良半島ではもっとも半島の先にある網代(現愛南町)に、とてつもない大きな建物が現れました。建物の名は、「魚類製造家屋」・・・住宅にしては大きすぎます。棟札が残されていました。そこに訴えかけるような建て主の言葉があるのです。
 「我が国の海産物が豊かであるのは天が与えてくれたもので、採りても尽くさざる無尽蔵ともいうべきものである。・・・英国のごとき世界に冠たる海軍国の元は水産業にある。捕獲、製造の規模が大きく、両者が具備し完全なるが故による。よく考えてみると大日本国は東洋の孤島にして、東洋の英国といってもよい。そして英国人も人であり、大日本国人も人である。資質や能力を天から公平に与えられているが、英国と異なるのは何故か。それは人為の作用、考え方や努力の差による。ここに魚類製造家屋の建築をし海産製造の隆盛をはかろうとするが、それは英国規模の九牛の一毛にも及ばない。ああ、遺憾なり。明治二十二年三月 浦和盛三郎稿」由良半島の先、網代に残された「魚類製造家屋」を目の前にするとき、近代の夜明けを駆け抜けるように生きた男の姿が浮かんでくるのです。

本芳我家住宅
 内子町・本芳我家は木蝋業も営み、江戸時代の後期に製蝋の基礎を築き、独自の晒蝋法の技術を開発し、三代目・弥三衛(やざえ)のとき最盛期をむかえました。伊豫式箱晒法として製品の品質は優秀で、国内のみならず、海外にも知られるようになりました。その成功は、製品のブランド化です。明治二十三年(1890)には、旭鶴の商標をもって他社製品と差別化をはかり、国内外の博覧会に出品し、数々の入賞・褒章を受けました。内子と芳我家の繁栄の最盛期でありました。
 しかし、明治三十年(1897)を過ぎると、パラフィン蝋の普及により、内子の木蝋業は急速に衰えていきます。大正八年(1919)には本芳我家は木蝋業を廃業、同十年(1921)には、内子の製蝋業はほとんど転廃業しました。

農村部の近代・・・栗田家
 内子町五十崎・栗田家・・・明治二十七年(1894)着工、明治二十九年竣工。身分の呪縛から解き放たれた自由・・・時代を待っていたかのような家を建てました。明治と時代が移っても接客や格式を重視する意識から抜け出ることは難しかったのです。旧庄屋など地域の支配層は、身分による制限から開放された自由さを、江戸時代には実現できなかった規模や意匠や格式を積極的に建築に取り入れました。近代における建築の一つの流れと考えられるのです。

楼閣への憧れ
 明治23年(1890)、道後湯之町町長となった伊佐庭如矢は建物の改築・新築など温泉の近代化に着手します。先ず、天保時代に改築された養生湯を二層楼に改築。次には一の湯、二の湯、三の湯のある神の湯の建築を立案します。建築費が十三万円を超える巨額と聞いた町民はびっくりしました。町民の大反対のなか、伊佐庭如矢は「後世に残るものを建てなければ、道後温泉の将来はない」と、全力を傾注して「神の湯」の建築にあたります。えらいのは、町長ばかりではありません。町会議員達は、家屋敷を担保として銀行から借り入れ、これで建築費の支払いをすることとして、難関を切り抜けたのです。
 明治二十七年(1894)四月十日、大建築ができあがりました。この日は天気晴朗。楼上で落成式を行い、小牧県知事が入浴初め、道後に住む八十歳以上の翁・おうなを招待して入浴させました。一年八ヶ月を要して落成・・・桁行十間、梁間三間半、大屋根入母屋造、総三階建。大屋根の中央に方八尺の塔屋(震鷺閣)を載せ、棟のうえに白鷺を据えました。江戸時代なら庶民には入ることの出来ない楼閣建築です。楼閣とは高いところから天下をとったように眺めを見下ろす、秀吉とか織田信長とか天下人しか建てられない建物でした。そびえるように建つ道後温泉の建物を見て、そこに誰でも入れる。時代が変わったことを実感させる建築です。

建物を見る面白さは、大きさや形にもありますが、そこに浮かんでくる人間の姿や思いですね。それを知ると建築物が生き物のように感じます。