平成21年3月度例会講話
子規「散策集」と宝厳寺界隈
〜記録収集を通して〜
二神 将
一 はじめに

 本日は一遍会と長岡ご住職の特別なお計らいにより、三十九年の歴史を有し、数々の成果を挙げられて注目されておられます一遍会でお話する機会を与えて頂きましてお礼を申し上げます。これから、私が長年ライフワークとして取り組んでいます道後湯之町の地域史研究から子規の「散策集」と宝厳寺界隈について少しお話をさせて頂きます。
 私の家は代々、宝厳寺さんの檀家でございます。以前、家史を調べていた時に、一度、ご住職にお願いして過去帳を見せて頂きました。それによりますと、古いものでは江戸時代の安永七年(一七七八)の記録がありました。また宝厳寺の墓地には、江戸中期の享保十三年(一七八三)、今から二七一年前の墓もあります。昔、父から聞いた話では大正時代に墓地整理をしたそうでもっと沢山の墓石があったと言っていました。そうするともう少し、時代は遡ると思いますが、何れにしましても、古くからの宝厳寺さんの檀家であることは間違いございません。

二 遊行上人の名号と伊予廻国布教

 そこで、家に何か古い物がないかと探しました。すると今日お持ちしました遊行上人の名号の掛け軸が二本見つかりました。痛んでいて見苦しいのですが持って参りました。
 遊行第五十四代他阿尊祐(そんゆう)上人の「南無阿弥陀仏」の名号です。記録を調べますと尊祐上人は、寛政七年(一七九五)に伊予国を巡廻、宝厳寺にも滞在され庶民の教化をされており、この時に頂いたものと思われます。次の(写真2)は、第五十九代尊教(そんきょう)上人の書かれた名号です。尊教上人は、明治十三年(一八八〇)に伊予国を巡回布教しており、宝厳寺にも滞在されておられます。また、この尊教上人については、県立図書館に直筆の県下巡回布教届が所蔵されています。
 これによりますと「教導巡回御届 神奈川県下相州鎌倉郡藤沢駅、時宗總本山清浄光寺住職大教正他阿尊教、今般各府県下布教巡回候ニ付當七月中、其管下宗内寺院ハ勿論其他適宜場處ニテ巡回教導仕候条此段豫テ及御届候當宿寺ヨリモ其都度御届可申上候也、右、明治十三年七月七日 大教正他阿尊教 印、愛媛県令岩村高俊殿」とあり、県下布教を愛媛県に届けています。そして、立て札設置を宝厳寺尾野泰善住職が出願した事や、県が許可した教導建札(写真4)が、宝厳寺門前、湯月町(温泉本館前)、札之辻、三番町(松山中央郵便局辺りか)の四ヶ所に設置された事などの記録が残されています。
 江戸時代、時宗は幕府から手厚い保護を受けていましたが、特に遊行上人の廻国布教には、人足五十人、馬五十頭の大名行列並の徴発権が与えられていました。正徳五年(一七一五)、第四十九代一法上人が二十一人の僧侶を従え、藩主松平定直公に対面しています。また、寛政七年(一七九五)の布教では、「小野家文書」によると上人一行は、御免傘・御朱印持十人、伴僧七人、羽織姿の庄屋や組頭四十九人が続き、駕籠舁三十八人、人足五百六十二人等と馬十五頭、総勢七百九十二人の大行列が新居浜地方を巡行したと記録されています。

三 記録から見た宝厳寺略史

 慶長元年(一五九六)以前の古図(写真5)によると宝厳寺のある奥谷一帯は、林光庵(一遍上人の御誕生地といわれている)など十二房の塔頭と本堂や奥の院など多数の建物が散在する大寺院であったことが分かります。しかし、明治十三年(一八八〇)の寺院敷地台帳では一反六畝余(四六〇余坪)になっています。幕末、宝厳寺境内の様子は寺院明細帳によると本堂、庫裏のほか鐘楼門、天神堂、観音堂、大破した塔頭・林光庵(明治初年に取除)や路地門もありました。子規らが訪れた頃は、門前に遊郭ができ、附近の風景は一変しましたが、境内の観音堂が南向きであった事ぐらいで建物は、今と変わっていません。

宝厳寺の歴史はこれぐらいにして、宝厳寺と道後湯之町の関係について、次の事実を指摘しておきます。

 ○幕末・明治初年頃 地元の人たちによって宝厳寺頼母子講が行われていた。住民は「講」を作り、家の改築や事業資金を得ていた。
 ○明治二十五年 宝厳寺立て籠もり事件。多額の借金による道後温泉本館改築工事に反対した町民たちが三日三晩、宝厳寺に立て籠もり気勢を挙げた。
 ○明治三十四年 道後警察分署が宝厳寺内に置かれた。トラブルが多発する松ヶ枝遊郭対応のために近くに置かれた。
 ○明治三十六年 道後湯之町の衛生幻灯会を宝厳寺本堂で開く。湯治客や四国遍路など他県から流入する伝染病対策のため衛生講座が実施された。このことから、宝厳寺は現在の公民館の役割を担っていたことが分かります。

四 子規「散策集」と宝厳寺界隈

 子規は、明治二十八年十月六日、親友夏目漱石と二人きりで道後温泉入浴と湯之町散策に出かけました。温泉本館は、前年四月に落成したばかりで、その豪壮な建物と色鮮やかなギヤマンに輝く振鷺閣、清潔な浴槽が人気となり、また、八月には、道後鉄道(大街道・道後・三津口間)が開通したばかりでした。二人は入浴後、山手にあった大禅寺の鷺谷共葬墓地を尋ね、子規の曾祖母小島久の墓を探したが見つからず、引き返して道後湯之町一番の名勝地鴉渓にあった料亭「花月亭」で休憩、昼食をとり、ひとときを過ごしました。
 そして、二人は花月亭を出て、宝厳寺に向かいました。以下、「散策集」より『・・・松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ こヽは一遍上人御誕生の霊地とかや古往今来当地出身の第一の豪傑なり妓廊門前の楊柳往来の人をも招かでむなし一遍上人御誕生地の古碑にしだれかヽりたるもあはれに覚えて、「古塚や恋のさめたる柳散る」、宝厳寺の山門に腰うちかけて、「色里や十歩はなれて秋の風」・・・』以下省略

(1)「古往今来当地出身の第一の豪傑なり」の意味するもの
 普通、豪傑といえば、剛力無双の武将を連想しますが、子規は、一遍上人であるというのです。広辞苑によると「武勇にすぐれ、度胸もすわっている人」とあります。一遍上人は、国宝「一遍聖絵」を見れば明らかなように捨聖、生き仏となって民衆を救済しました。正に信念の人、豪傑だったのです。ところで子規は、豪傑という言葉が好きだったようで、漱石に送った書簡の中でも西郷隆盛を英雄豪傑と称え、また芭蕉一門には豪傑多しといっています。
 子規が、ここ宝厳寺門前で一遍上人を豪傑といった七年後、三十五年の生涯を閉じました。肺結核という死病に取り付かれ、病床六年、俳句革新をやり遂げ、今では現代文の創始者とまでいわれる子規もまた、立派な豪傑だったのです。

(2) 子規・漱石は、一遍上人像を拝観したか。
 もし、拝観しておれば、記録魔でもあった子規は、何か書き遺したでしょう。釈迦と同じ鳳眼を持つと云われる子規の事です。上人立像から発せられる気に思わず合掌したでしょう。住職の許可がなければ厨子は開かれなかったでしょうが、拝観して名句を遺して欲しかったと思うのは私一人でしょうか。

(3)一遍上人御誕生舊跡碑の変遷
 この御誕生舊跡碑は、元弘四年(一三三四)得能通綱によって建立されましたが、建立場所は、宝厳寺古図によると惣門の右側にあったと記録されています。その後、古碑は遊郭入口の左、右と変遷を経て、大正十五年(一九二六)には現在の山門下に落ち着きました。子規が松ヶ枝遊郭入口で見た柳は、島原や吉原遊郭の目印にもなった風に漂う揚柳であり、悲しい運命に弄ばれる女性の姿そのものだったのでしょう。しかし、今、山門下に植えられた柳は、遊郭から聞こえる嬌声もなく、遊行上人に因んだ能楽「遊行柳」の舞台、栃木県芦野から中川重美氏によって分枝された柳そのものなのです。

(4) 松ヶ枝町の町名の由来 天神ヶ均  
 古来、宝厳寺の左側高台には天満宮(一間四方の小堂)があり、町民たちは、ここで「おなぐさみ」といって弁当持参で食事を楽しみました。この高台からは三津の沖が一望できる景勝の地でもありました。この場所は、古図等から今の駐車場、北側山手でしょう。この辺り一帯は宝厳寺の境内で、此処には一本の古松があり宝厳寺の目印になっていました。町民たちは、この古松に因んで、宝厳寺の塔頭跡にできた通りを松ヶ枝町と名付け、遊郭を松ヶ枝遊郭と呼びました。

(5)宝厳寺と伊佐爾波神社
この二つの社寺は背中合わせにあります。日本では明治維新までは神仏習合が行われ、宝厳寺は伊佐爾波神社の宮寺であったようです。つまりこの二つの神社と寺院は兄弟のような関係でありました。維新後は、神仏分離令により、宝厳寺にあった天満宮は伊佐爾波神社へ、伊佐爾波神社にあった鐘楼は宝厳寺に移されました。今は天満宮社殿も鐘楼もありません。

(6) 鴉渓と花月亭
 子規と漱石が食事休憩した花月亭(写真7)は、伊佐爾波神社石段下、道後駅に向う坂道の左側にあり、この料理屋の奥に名勝「鴉渓」があったのです。この鴉渓一帯(道後十六谷の一つ烏谷)には湯神社の神官烏谷一族の屋敷がありましたが、天保元年(一八三〇)頃、松山藩の高名な儒者大高坂天山が隠棲した処でした。天山死後、明治十七年、荒廃していたのを惜しみ地元有志が、宮島の紅葉谷公園を真似て再開発し、清流沿いに紅葉や灌木を植え、簡素な休憩所や小料理屋を設けました。現在は、旅館「ふなや」の一部になっていますが渓流部は、昔はもっと鬱蒼とした幽谷の観があったようです。
 子規が友人に出した書簡や柳原極堂の証言によると、子規は一刻も早く、帰京して俳句革新を成し遂げたいと焦っていました。肺結核に冒されていた子規には、もう時間がありませんでした。子規は、漱石と今後について相談もしたでしょう。後に文豪となる二人の青年が、この花月亭で、或いは鴉渓を散策しながら夢や悩みを語り合った記念すべき場所なのです。もっと顕彰すべき場所なのです。

(7) 湯神社と河野七郎明神
 歴代遊行上人は、伊予国に十数回巡行していますが、道後温泉入浴は楽しみにしていたようです。また、開祖一遍上人と関係の深い伊佐爾波神社、湯神社、河野七郎明神、岩崎大明神及び龍穏寺には必ず参詣しています。
 一遍上人の父河野七郎通広公(別府氏祖)は、上人二十五歳の時に亡くなったと云われ、冠山に葬られました。此処に河野七郎霊社が建立され、地元の人たちから七郎明神として崇拝されました。場所は、冠山東側石段の中腹東側(写真8)にありました。その後、城山から移築された児守社に合祀され、今では湯神社に一緒に合祀されているそうです。

(8)道後湯之町と放生池
 今、道後駅前にある放生園は、坊っちゃんカラクリ時計や足湯で、人気の観光スポットになっています。この放生園は、捕らえた生き物を解き放す儀式放生会(ほうじょうえ)を行うために湯神社が、元文二年(一七三七)御手洗川沿いに池を掘り、池畔に花木を植えた放生池でした。その後、村有となり、村民により整備され、子規らが訪れた頃は、池の周囲に料理屋が出来、名物の下火(花火)会場や納涼場所になっていました。その後、石手ダム完成の影響もあって埋め立てられ、種々の変遷を重ねて今日の姿になったのです。 

(9) 当時の道後湯之町商店街
 道後湯之町は、三層楼の温泉本館が出来るまでは、湯治客相手の半農半商のひなびた温泉町でした。しかし、道後本館新築ブームにより、近隣からの大勢の湯治客が来るようになると、商店は専門化し、名物の道後煎餅、餡(かん)ころ、甘酒、湯晒もぐさ、道後団子や竹細工、扶桑木製品、温泉絵図なども売られるようになりました。今に続く古い店は、道後煎餅の玉泉堂(明治十六年創業)、相原菓子店(後のつぼや菓子舗、明治十七年創業)、山澤酒店(明治十九年開店)、水口酒造(明治二十八年創業)のほか、富喜、かど半、島屋、白久などの商店がありました。

 最後になりますが、この年は七月に松山二十二連隊の日清戦争凱旋帰国で賑わったものの、例年十月六、七日に行われる秋祭りもコレラ病が蔓延したため二十三、四日に延期され、道後名物の神輿の鉢合わせもなく、寂しい秋祭りでした。
 本日は、私の拙い話を長時間にわたりお聴きして頂きありがとうございました