12月度例会講話
俳 聖 芭 蕉     
〜一句として辞世ならざるはなし〜
菊 池 佐 紀
一、元禄ルネッサンス

 徳川家康が天下を平定して世の中が落ち着いてきた貞享、元禄の時代には「武士無用論」を唱える者もあるほど平和が続き、武芸の代わりに学問が奨励され、庶民の暮しも楽になる。
畳が作られ、一日二食が三食になり、珍しい菓子や蕎麦などができて人々を喜ばせた。町人の子も寺子屋で学び、読み書きを覚えるようになった。文字を書けるようになると、人間は「表現欲」に目覚める。「俳諧」という
短詩型文学が江戸大坂を中心に流行しはじめたのもこの頃である。
 
俳諧は「連歌」より独立したもので、松永貞徳の「貞門派」、西山宗因の「談林派」の二派に分かれて広まっていった。「俳句」の称号は明治に入り、子規によって用いられた。元禄文化は急速に花開き、小説では井原西鶴(一六四二〜一六九三)人形浄瑠璃では近松門左衛門(一六五三〜一七二四)が名声をあげた。同時代人として松尾芭蕉(一六四四〜一六九四)が俳諧で蕉風を確立、大衆文学にすぎなかった俳諧を純文学、芸術の境地へまで高めていったその功績は大きい。

二、松尾芭蕉の生い立ち

 寛永二十一年、家光の時代に、伊賀上野の郷士、松尾与左衛門の二男として生れる。十九才の時、俳諧好きの藤堂良忠(号、蝉吟)に仕えたのが、俳諧の道に進む大きなきっかけとなった。芭蕉に蝉の句が多いのも良忠への追慕だと言われるほど仲が良かったが、良忠が若くして病死したため致仕する。
 二十九歳のとき、俳諧師を志して単身、江戸へ出る。やがて頭角を現わし、桃青と号して名が知られるようになる。古くさい談林俳諧に飽き足らず、この道に新風を吹き込むことを決意、弟子も増え、深川に居を構え、以来「芭蕉」と号して意欲を燃やす。

三、芭蕉が理想とする俳諧

 イ、軽み―軽く浅いという意味ではなく、表は軽く見えながら奥に深い味わいを秘めたもの。「秋深し隣は何をする人ぞ」はその軽みの代表作と言われているが、蕪村の「我をいとう隣人、寒夜に鍋鳴らす」の句と比較すると理解できよう。「重み」と「甘み」を廃することを説いた。
 ロ、不易流行
 不易は不変。流行は変化の意。時代を越えて永久に変わらないものと、流行、即ちその時代々々に対応して流れ動く。それが互いに調和することで俳諧は芸術として生き得る。「おくのほそ道」の旅を終えたあとに生れた芸術論。
 ハ、わびさび
 大げさでない自然体であること。従来の型にはまったステレオタイプの談林・貞門俳諧から脱却し、新鮮な気風を確立すること。

四、芭蕉の紀行文学

(1)『野ざらし紀行』(四十一才。一六八四年、貞享元年八月から翌四月迄)
 江戸を発ち、郷里伊賀上野へ帰り、前年亡くなった母の墓参をし、あと関西各地をまわり、江戸へ戻る。
 その頃の代表句
〇野ざらしを心に風の沁む身哉
〇古池やかわずとびこむ水の音
〇猿を聞く人捨て子に秋の風いかに
(富士川のほとりで三才児の捨て児に会う)
〇おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉(長良川)

(2)『鹿島紀行』(四十五才)
 貞享四年八月、鹿島へ月見に出掛ける。

(3)『笈の小文』(四十五才)別名、吉野紀行。
 貞享四年十月から翌四月迄、上方旅行、吉野、高野山、須磨、明石と遊び、京に入る。
〇旅人と我名呼ばれん初しぐれ
〇ちちははのしきりに恋し雉の声(高野山)
〇蛸壺やはかなき夢を夏の月(明石)

(4)『更科紀行』(四十八歳)貞享五年
 信州更科に名月を愛でる
〇悌や姥ひとり泣く月の友

(5)『おくのほそ道』(四十六才)。今までの旅の集大成。
 元禄二年、曽良を供に江戸を発ち、奥羽、北陸を旅。その間五ヶ月。道のりは六百里。芭蕉の代表的紀行文学。
〇田一枚植えて立ち去る柳かな(西行柳)
〇しずかさや岩にしみ入る蝉の声(立石寺)
〇むざんやな甲の下のきりぎりす(多田神社)
〇夏草やつわものどもの夢のあと(平泉)
〇松島や鶴に身を借れほととぎす(曽良)
(芭蕉は松島では一句も詠み得なかった。あまりの美しさに絶句したためで「松島やああ松島や松島や」は後世の人の偽作)
〇象潟や雨に西施がねぶの花

 芭蕉には、この他『幻住庵記』『嵯峨日記』などが残されている。元禄七年、最後の旅に出、九月九日大坂に着いたところ、翌晩から発病、十月十二日死去。五十一才。遺言により義仲寺に埋葬、辞世とされる句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」

五、結論

 芭蕉が死んで二十二年後に生れた蕪村の句に「芭蕉去りてそののちいまだ年暮れず」とある通り、芭蕉を凌ぐ俳諧師はその後、世に出なかった。蕉門十哲といわれる其角、嵐雪らも到底、師に及ぶものではなかった。
 西鶴は一日千句を目標にして作句したが、質において劣っている。芭蕉は量を問題にせず、あまた詠んだ句の中から気に入らぬものは惜しげもなく捨て去り、一千余句だけを世に残した。
 西行は「一首詠みいでる毎に一体の仏像を彫るが如し」と言ったが芭蕉もまた然り、「わが言い捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし、遂に無能無才にしてこの一筋につながる」と言い放ったその気魄に打たれる。俳聖と呼ぶにしかるべき俳人は、一茶でもなく蕪村でもなく、松尾芭蕉只一人と言えよう。

 芭蕉はもともと「書斎の人」ではなく、読書だけに頼らず、自己の体験によってまことの風雅を知り、足で歩いて眼で確かめ、実践によって句作をしようとした。芭蕉が俳文を書いたのは、五,七,五だけでは十分に自分の意を尽くせないのを知ったからで、また地方に散らばる俳壇をじかに指導し、蕉風をアピールしようとする目的があった。それに、能因法師や西行を深く敬愛していたので、奥羽地方の歌枕を探訪したいという願いもあった。その意志は旅によって十分に達せられている。頑強な肉体でもないのに旅を達成することができたのは、到る所に芭蕉を崇拝する弟子たちが待っていて、何日も歓待を受け骨休めができたためだろう。一茶と異なって、強烈なカリスマ性があったのも伺える。
 
 自分の人生哲学を実地に体験し徹底させようとした強靭な意志の持主であった芭蕉の旅の句の中にフィクションがあると問題にするむきもあるものの、「自分は風狂の人である。事実を事実として書くのではなく、風狂の人が風雅の道をさ迷い歩いた姿を描きたかった」と芭蕉は言い切る。近松門左衛門の有名な「虚実皮膜」「の間に真実があるという芸術論は言い得て妙である。
 芭蕉の紀行文「おくのほそ道」は究極の芸術文であり、寿貞尼の存在とか忍者説とか、とかく様々な臆説が飛び交うが、芭蕉はそんな俗な人ではない。晩年の句に「さびしさや」という文字が沢山見えるのは、天才は常に孤独だという証しであろう。