11月度例会講話
   臨終の文化
生命倫理をめぐる諸問題
小 沼 大 八
一、死の判定

人類はその誕生以来、心臓死をもって死とみなしてきた。ところが一九九七年に「臓器移植法」が制定されて、わが国でもこの心臓死に脳死という新しい死の判定基準が加わった。ちなみに脳死とは、全脳の機能の不可逆的な停止をいう(植物状態とは異なる).

脳死が死とみなされる主な理由
@ヒトの生は脳を中枢とする神経系が身体の各器官を機能させることで成り立っている。だから神経系の司令塔である脳が死ねば、た
とい循環系の中枢である心臓が動いていても、それはヒトの死とみなしてもよい。
A脳死は生きた臓器の移植を可能にする。
な「虚実皮膜」「の間に真実があるという芸術論は言い得て妙である。
 芭蕉の紀行文「おくのほそ道」は究極の芸術文であり、寿貞尼の存在とか忍者説とか、とかく様々な臆説が飛び交うが、芭蕉はそんな俗な人ではない。晩年の句に「さびしさや」という文字が沢山見えるのは、天才は常に孤独だという証しであろう。
Bレシピエントからの強い要望。
脳死のルーツをたどると、こころとからだは本来、別の実体であるという心身二元論
の思想に至り着く。それは沙漠の思想に色濃くみられる身体観であった。
この心身二元論は近世に至って、フランスの哲学者ルネ・デカルト(一五九六〜一六五〇)によって合理化され近代化された。その成果が人間機械論である。そして現代医学の最先端に位置する脳死・臓器移植問題は多かれ少なかれ、この人間機械論の延長線上にあるといえよう。脳死という新しい死の判定をどう理解すべきか。

 ドナーの圧倒的不足。「臓器移植法」が制定された一九九七年から二〇〇四年までドナーわずか三〇人、現在に至るも八〇人程度である。脳死は日本の社会に定着するのか?心身二元論とそれから派生する人間機械論への疑義。身体の諸器官を機能論だけで論断してよいのか? ちなみに日本の伝統社会の形成に大きな影響を与えた東洋思想はすべて心身一元論に立っている。

二、病院死

人間は文化的動物である.だからその死に至っても人間は文化的死を死なねばならない。そしてわれわれはいまや、死と死に至る過程を病院で迎えることになった。一九五一年の日本では八八%が自宅死であったが、現在では八〇%が病院死である。われわれはいまや、自宅死に代わって病院死をもっとも文化的死とみなすに至ったのである。
けれども考えてみれば、病院の使命は患者の疾患を治療し、健康体に回復させることにある。病院は本来ひとを死なせる場所ではないのだ。臨終の文化の欠落を思わざるを得ない.
「ひとは死が近づくと、そのこころに三愛が生ずる」と仏教は説く。しからばこの三愛に対処する臨終の文化を、いまの医療はどれだけ耕しているのだろうか。ちなみに三愛とは@自体愛(わが身に対する愛着)、A境界愛(眷属、家財に対する愛着)、B当生愛(来世に自分が生まれるところについての愛着)の三つの愛着をいう。

三、死後の世界

われわれ現代人は死後の世界を見失った。その理由は

@死の忘却
医療制度が整備され、医療技術が格段に進歩した。栄養もよくなり、生活環境が改善されて伝染病も多くその姿を消した。そして社会のそうした変化はいまや、われわれに未曾有の長寿をもたらしたのである。死が遥かに遠ざかることになった。けれども死が遠ざかれば、やがて死の忘却が始まり、死が他人事になってゆくのは当然の推移かもしれない。

A近代科学の影響
近代科学は実証できないものを真理とはみなさない。だから近代科学の洗礼を受け、合理主義や実証主義精神を身につけた近代人はもはや、死後の世界をもつことができないのである。死後の世界はいまや、単なる迷信の産物に成り下がってしまった。
死後の世界が迷信の産物ならば取るに足らない。けれどもそれはむしろ、死という限界情況に直面して、われわれの先人たちが構えた臨終の文化ではないのか。それが臨終の文化ならば、それを見失った現代人こそ、却ってこころの貧しい存在といわねばなるまい。死後の世界、それは迷信の産物か?それとも臨終の文化か?
死後の世界が失われれば、生きているうちだけがすべてになる。だから近代人の生に対する執着がモノスゴイ。現代の医療がひたすら延命を心掛けるのも、ひとの臓器を移植してまで生きようとするのも、その深い理由はどうやら、そのへんにあるらしい。
しからば人類はこれまで死後の世界をどのようにイメージしてきたのだろう。大きく分けて四つの説【虚無説、復活説、他界説、輪廻転生説】があるが、別の機会に話をしたい。

四、おわりに
 〜愉しく生きて楽に死ぬ〜

 「愉しく生きる」には健康が第一である。「規則正しい生活」「食生活の気配り」「運動」が肝要である。からだが硬い人ほど頭の働きも硬い。歩きにまさる柔軟体操はない。ストレスも健康の大敵である。足繁く温泉に通って心身を清めて(ミソギ)、夜はアルコールで心身を消毒しよう老いの愉しい生き方はどうすればできるか。「輪」と「巡り」に身をいれよう。
「輪」はサークルの和訳、「巡り」は文字通りあっちこっち巡り歩くことである。市民社会が成熟して、文化・趣味・スポーツ・ボランティアサークルと花盛りである。臆せずに参加して元気をもらおう。ボケ防止にもなる。
「巡り」もまた愉しい。花の名所・旨い物・文化財・景勝地・美術館はては世界遺産巡りなど、ゆっくり昼寝などしているヒマもない。

 「楽に死ぬ」には、最近よく聞く言葉にPPKがある。ピンピンコロリの略語だという。要するに昨日までピンピンしていて今日コロリと往く死に方である。PPKの有効な処方箋がないから、やはり人間は死ぬのが難しい。
 ただヒントがひとつある。人間の体の真ん中に心臓がある。心臓から一挙に死ぬのだ。足先から死なぬように足を鍛えよう。頭のてっぺんから死なぬように頭を鍛えよう。もうひとつ忘れてはならぬことがある。神仏によくお祈りすることだ。南無PPK! 南無PPK! 南無PPK!