10月度例会講話
鎌倉時代の仏像〜運慶・快慶を中心に〜
平田 玲子
 運慶、快慶は、ともに、慶派の仏師として、十二世紀末から、十三世紀にかけて、活躍した。慶派の仏師は、運慶の父、康慶からはじまる。康慶は、奈良仏師、康朝の弟子といわれている。
 飛鳥時代、奈良時代と奈良を中心に制作された仏像は、平安期に入り、密教の興隆によって、その制作の場を京都に移していった。そして、平安中期になると、浄土教系の寺院された仏像は、平安期に入り、密教の興隆によって、その制作の場を京都に移していった。
 そして、平安中期になると、浄土教系の寺院の建立により、定朝を中心とした仏師集団が活躍する。
 定朝の子、覚助を継ぐ院助に始まる院派、定朝の弟子・長勢の弟子円勢に始まる円派に
分かれていく。定朝の孫の頼助が、奈良に移り活動したのが、奈良仏師のはじまりである。奈良仏師は、円派、院派の傍流として活動を続けていたのである。
 平安末になると、時代が大きく変わり始める。政界では、貴族から武士へと政権が移り、宗教界では、貞慶や、明惠らの高僧が、奈良旧仏教界に現われ、大乗仏教の根幹から変わり、衰退していた南都の寺院に再び活気が戻ってきた。そのような状況のなか、奈良仏師の活躍の場が増えてきたのである。

 運慶は生年がはっきりしない。彼の長子湛慶が、承安三年(1173年)に生まれていることと、没年が貞応二年(1223年)十二月十一日であることから、十二世紀の半ばには、生まれていたのであろうといわれる。現存する運慶の作品で、最古のものは、奈良・円成寺の大日如来像であるこれまで、南都の慶派の仏師は、奈良を中心に活躍していると思われていたが、じつは、中部地方、関東地方にも多く活躍の場をもっていたことが知られるようになった。
 最近、ニューヨークのオークションで、およそ十四億円という高値で落札されて話題となった大日如来像は、もとは栃木県足利市にあったものである。それと作風を同じくするものに、栃木県の高得寺の大日如来像があるが、こちらも鎌倉幕府のご家人、足利義兼の依頼である。初期の代表作である、願成就院の諸像も静岡県の伊豆の国市にある。その他、愛知県、神奈川県に作品が残っており、その多くが、鎌倉幕府のご家人の依頼だったことが知られているのである。これらのことから、慶派の仏師は、早くから、東国とのつながりを深めていたことが知られるのである。

 円成寺の大日如来像をしあげた四年後に、奈良の寺院は、平重衡によって、焼失する。東大寺という、巨大な寺の復興は、国家事業ともいうべき大事業である。それらの事業に携わったのは、新しい勢力である武士であった。その時に、旧勢力の貴族や宮廷と結びついていた京の仏師よりも、早くからつながりを持っていた運慶らに制作依頼があったのは、想像に難くない。
 東大寺の南大門の金剛力士立像二体は、世界で最も有名な運慶、快慶の代表作である。八メートルを超えるその大きさにも驚くが、畏怖さえ覚える、その形相、身体の筋肉のうねり、一度見たら、二度と忘れることのない迫力である。昭和六十三年から平成五年にかけての解体修理が行われたが、その構造十本の根幹材を中心に、約三千の部材を組み合わせるという、驚くべき寄木造りであった。吽形は、運慶を中心に湛慶、定覚が担当し、阿形は、快慶を中心に制作されたと考えられている。二像とも同じように見えながら、吽形のほうは、躍動的で、筋肉の動きが激しく、腕や足の動きも不安定とも見えるほどに、動きに力を入れて表現しているのに対して、阿形の方はどちらかというと、安定していて、よくまとまっており、翻る天衣も装飾的で、繊細で優美だといわれる快慶の特徴をよく表している。興福寺北円堂内にある、弥勒仏座像は、その両脇にある無著・世親菩薩像と共に運慶晩年期の傑作である。
 
 仏像の歴史を良く理解してきた運慶だからこそできる造形であるといわれる、古式に則った弥勒仏と、写実的で当時としては斬新な無着世親像の取り合わせは、非常に面白い。無着世親は、ともにインドの高僧で兄弟であるが、少し前のめりで、うつむき加減の兄無着は、いかにも老成した風貌であるのに対して、顔を上げ気味に、何かもの言いたげな弟の世親は、眼がきらきらとして、まだ壮年の名残が感じられるのである。彫刻家としての運慶の凄さが伝わってくる。

 快慶は、運慶とならぶ康慶の弟子ありながら、古代の彫刻に多くを学んだ運慶よりも、京仏師の作風を多く残す仏師である。この時代にしては珍しく多作であり、多くの仏像が残っている。自らも熱心な浄土宗の信者で、法然の弟子にもなったとされている。
 代表作である、地蔵菩薩像立像(東大寺 図5)も、玉眼を入れ、写実的な顔立ちながら、衣文は、浅く規則的である。これは衣の截金(きりかね)文様の美しさを際立たせるためで、像に施された様々な装飾や彩色も優雅な趣を漂わせている。運慶が人間的なものを指向したとすれば、快慶はこの世ならぬものの美しさを具現したかったのだともいえよう。

 運慶と快慶の後、慶派の仏師は、湛慶をはじめとして、十人以上知られているが、いずれも快慶の作品に近い作風のものとなっていく。盛んになっていく浄土教系の仏教の影響であろう。
 慶派の仏師の作風は、激しく揺れ動いた時代だからこそ、出現した様式であった。また、ともすれば、同一視されがちな運慶と快慶の作風ではあるが、それぞれに異なっていたのである。運慶の写実の眼に近代人のそれを見たように思うのは間違ってはいるが、全く否定もできないような気がする。それは、快慶がいかにも中世的であるからかもしれない。