8月度例会講話
縁起説の完成するまで
杉 野 祥 一
はじめに
 今日は、仏教の根本教義として極めて重要とされる縁起説がどのようなプロセスを経て成立したかということを、お話ししたいと思います。縁起とは、「縁って起こる」ということ、つまり、物事が起こるには、すべて原因や条件がある、原因や条件がなくなれば、物事は成立しなくなる、ということです。仏教で問題にされる物事とは、世の中の人がもつ苦しみです。苦しみには理由があって、その理由がなくなれば苦しみはなくなる、ということを説くのが、縁起説なのです。
 縁起説の完成形態は、十二支縁起です。十二支縁起とは、漢訳の用語で言いますと、「無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六処がある。六処によって蝕がある。蝕によって受がある。受によって愛がある。愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死、愁、悲、苦、憂、悩が生じる」と説き、また「無明を滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。・・・生を滅することによって老死、愁、悲、苦、憂、悩は滅する」と説かれる教えです。
 最近の仏教学者の研究によって、この十二支縁起の教えは、釈尊が亡くなってから百年以上経ってから成立したということがわかっています。今日私がお話ししたいのは、このおよそ百年の間、釈尊によって説かれた教えがどのように変化して、縁起説へとなっていったか、ということです。
 【根を引き抜かずいくら切り倒しても、また木がのびてくるように、根源的生存欲求(愛)が根絶されないなら、苦悩はまた生じてくる。(Dhp338)】
 現存する最古の原始経典が『スッタニパータ』第四章「八詩句章」であり、ここに釈尊の直説の教えが保存されています。釈尊が自らの出家と悟りについて語るのが、第十五経です。釈尊は次のように語りはじめます。
 【棒を握って暴力をふるうようなことから離れたいという憂いの思いが生じたのだ。争っている人々を見なさい。私がどのように厭い離れたか、その厭離する心を語ろう。(Sn935)】
 釈尊が世の中を厭い離れ出家を志したのが暴力に対する嫌悪からであったことが、実に素直に語られています。釈尊は出家修行者となり、師を求めて様々な修行者の門を叩きましたが、納得できる教えを説いてくれる信頼できる師に出会うことはできませんでした。
 【修行者や師と呼ばれる人たちさえもが、〔論争し〕敵対し合っているのを見て、私は絶望的になった。このとき、私は、〔人々の〕心臓の奥底に突き刺さっていく一本の矢を、発見したのである。(938)】
 【その矢によって突き飛ばされて、人々はあらゆる方向に向かって輪廻している。この矢を引き抜きさえすれば、もはや輪廻することはないのである。(939)】
 これが、釈尊の根本発見を最も直接的に語った言葉です。信頼できる師に出会えず、出家者の世界こそが論争や抗争の修羅場であることに、釈尊は深く絶望します。どこに行っても安住の地はなかったのです。しかし、この絶望が、後に悟りと呼ばれることになる根本発見を導いたと、釈尊は語るのです。それが、人々を根底から突き動かしている「一本の矢」の発見です。そして、この矢こそが人々を輪廻させている(と思わせている)原因だと語るのです。
 なぜ輪廻が唐突に出てくるのか不思議に思われるかもしれませんが、釈尊の時代のインド社会は輪廻思想が蔓延した時代でした。輪廻とは、一言で言えば、死んでも死んでもまた死すべきものとして生まれてくるという永遠の苦の連鎖です。知恵ある人たちは、この蔓延する輪廻業思想から脱出して、精神の自由を獲得したいと願ったのです。釈尊も、人々が輪廻の思いにもがき苦しんでいるのを見て、憂いを覚えたと語っています。
 ここで注目しなければならないのは、939の経文です。「一本の矢」が輪廻という苦しみの原因であり、この矢を抜けば輪廻はないと語られています。これは、最初にお示しした縁起のパターンをとっています。したがって、この「一本の矢」の根本発見こそ、最も原初の縁起説だと言わなくてはなりません。もう少しこの「一本の矢」について釈尊に教えてもらいましょう。
 【〔輪廻の〕大洪水〔の正体〕は〔いつまでもこの世界に存在したいという根源的〕願望である、と私は言う。吸い込むような激流は〔個々の衝動的〕欲求である、〔流れに浮かんでいる〕物は欲求され思い浮かべられた対象物である、欲望の泥沼を越えていくのは難しい、と私は言う。(945)】
 ここで語られている願望とは、人々を死んでも死んでもまた生まれかわると思わせている根本原因ですから、人間存在の根底であらゆる願望や欲望の根本となっている願望です。これは、存在していたい、消えて無くなるのはいやだ、生き続けたいという願望にほかなりません。釈尊は、この「一本の矢」たる根源的生存願望の発見によって、すべてわかってしまったのです。それでは、原因が見つかったとして、その原因を滅するには、つまり「一本の矢」を引き抜くには、どうすればいいのでしょうか。
 【過去から溜まってきた〔洪水の〕水を干上がらせなさい。未来に向かって何も希求しないようにしなさい。現在において、何も所有しないようにしなさい。そうすれば、あなたは、静寂を保ちつつ歩んでいくことになるだろう。(949)】
 【これら〔過去現在未来の〕すべてにおける名と体からなる個別の私(名色)を、自分のものにすることがないならば、〔在りし日の自分が〕存在しないからといって嘆き悲しむことはないし、また実にこの世界にありながら失うものは何もないのである。(950)】
 人間を根底から突き動かしている根源的生存願望は、過去に対する執着、未来に対する希求、現在における所有という三方向に向けて広がっていくのだから、執着、希求、所有をやめなさい、そうすれば根源的願望から解放されて、自由に静寂に生きられる、と教えています。過去と未来と周囲に向けて飛び散っていた自分を、いまここなる自分へと取り戻してみると、「名と体からなる個別の私」(名色)を自分がいかに所有しているかがわかってきます。この名色を所有するとは、自分で自分を個別のものとして立てて、かけがえのないものとして守っている、ということではないでしょうか。これは、自分という存在の構造に関わることですから、難しいですが、ただこの名色の所有が苦しみの根源だというのは、わかる気がします。「何かを失った」「自分は老いた」「自分は病んで死ぬだろう」と様々に苦悩するのは、過去の自分と今の自分を比べたり、未来の自分をおもんばかったりするからではないでしょうか。これは絶えず個別の自分を保ち続けようとするからなのです。それから解放されれば、確かに安楽が得られるかもしれません。
さて、ここで、
「一本の矢」根源的生存願望・・・愛
「名と体からなる個別の私」・・・名色
「自分のものにすること」所有・・・取
が登場しました。それぞれが苦の原因として説かれました。これが、縁起説の最も原初の形と言えます。
2.直弟子の教え 
 さて、釈尊が亡くなって後、ごく少数だったはずの直弟子たちが長老となって、少しずつ釈尊の教えが広められていきます。彼らの教えは、『スッタニパータ』第五章「超脱章」に残されています。仏弟子たちの教えの説き方の特徴は、釈尊を語り手として登場させることです。この手法は、後々まで仏教経典全体の特徴になりました。ここで、特に紹介しておきたいのは、「バラモン門弟メッタグーの問い」と題される第五経です。
【世尊よ、・・・いったいどこから苦悩が生じるのか、教えていただきたいと思います。(Sn1049)】
【・・・苦悩は、所有が根拠となって、生じるのです。(1050)】
【実に、真理を知らないままに、愚かにも人々はくり返し所有を続けるために、苦悩し続けています。それゆえ、苦悩が生じてくる根拠を観察して、よく知って、所有をしないようにするのがよいのです。(1051)】
【過去においてであれ、未来においてであれ、現在の周囲においてであれ、いまここの中央においてであれ、何らか君が知っているものがあるならば、それを求めることも、それを確かめることも、それを意識することも遠ざけていって、くり返し再生することのないようにしなさい。(1055)】
 明らかに、ここでは、上で見た釈尊によって発見された根本真理を引用しつつ、引き受けて、苦の原因として所有がはっきりと指摘され、所有をやめることによって苦が取り除かれると、教義化されています。
3.第三世代の仏弟子たちの教え
 さて、次の世代になると、出家・在家の弟子たちも増え、かなり大きな精舎も建立されはじめて、ますます教えの教義化が進んでいったと考えられます。この時期の教えをまとめたとされる『法句経』に、釈尊の中心の教えであった根源的生存願望を受けた、次のような文言があります。
【根を引き抜かずいくら切り倒しても、また木がのびてくるように、根源的生存欲求(愛)が根絶されないなら、苦悩はまた生じてくる。(Dhp338)】
根源的生存欲求(愛)が苦の原因であることが、確認されています。これはその後の仏弟子たちの暗記項目になったようです。次に紹介するのは、『雑阿含経』有偈品からの教えです。これも第三世代の仏弟子たちの集成であるとされています。
【網を張るようにこびりついた根源的生存欲求(愛)がないのであれば、どこにも連れ出しようがないであろう。覚者(ブッダ)は一切の所有が消滅しきっている故に、安らかに眠る。魔よ、この私と汝は、何の関わりがあろう。(SN.4.1.7.)】
【世の求めるものは、色形、音声、味、匂い、感触、思考されるもの、これですべてである。これらは恐ろしいものであり、世はこれに巻き込まれている。自分の有り様を常に見つめるブッダの弟子たるものは、これらを超え出て、死すべき悪魔の領域を超越し、太陽のように輝いている。(SN.4.2.7.)】
 これは、六つの認識の対象領域の教義が進展し、六処(眼耳鼻舌身意)が苦の原因の一つとして、考えられはじめたことを示す経典です。次は、尼僧と魔の対決です。 身体は、誰が作ったのか。身体を作ったものは、どこにいるのか。身体はどこで生じてきて、どこで滅するのか。
【苦の元である身体は、私が作ったのでもなく、他のものが作ったのでもない。因によって生じ、因が滅するによって消滅する。一つの種子が田に播かれて、大地の滋味と水分の両方によって成長するように、五蘊(色受想行識)、六界、六処(六つの認識の領域と働き)も因によって生じ、因が滅することによって、滅する。(SN.5.9.)】
 この経文では、身体が苦の原因であることを明示し、その身体の根幹としての様々な構成要素も、因によって生じ、因が滅することによって消滅することが、説かれています。この五蘊の中の受と行と識がバラバラで十二縁起に取り込まれています。
4.最終段階の韻文経典と縁起説
 これまで見てきたように、世代が進むにつれて、分析が進み、苦の原因とされるものも増えてきましたが、まだ、それぞれのものをどちらがより深い原因か比べて、縦に並べようという動きは出てきません。それが見え始めるのは、最終段階の韻文経典を集めたとされる『スッタニパータ』第三章「大いなる章」の最後のところです。
 世尊が、満月の夜の集まりにおいて、弟子たちに語り始めるという設定で、説かれます。「悟りに導く様々な真理があるが、それらの真理を学ぶのは何のためかと問う人があれば、究極的には一対の真理を正しく学ぶためである、と答えなさい」、一対とは、「これが苦であり、これが苦の原因である」と「これが苦の止滅であり、これが苦の止滅に至る道である」ということである、と前置きして、長い教えが説かれます。
【人々がこの状態からあの状態へとくり返しくり返し生まれては死ぬ輪廻的存在であり続けるのは、ほかならぬ無明の故である。(Sn729)』
【なぜなら、無明とは大きな愚かさであり、このために無限の過去以来、輪廻転生してきたのである。しかし、知恵を備えたならば、人は二度と生まれかわることはない。(730)】
【どのような苦が生じる場合でも、すべて行(行為の残余)が縁となって生じている。行が止滅すれば、苦しみは生じない。(731)】
と説き、同じパターンの文で、次に識(意識の流れ)、蝕(ものとの関わり)、受(感受、気分)、愛(生存欲求)、取(所有)、悪行、糧の摂取、・・・最後に、世の希求するものが六つの認識の対象にほかならないと、説かれています。これが韻文経典の中で確認される、縁起説の発展の最終段階です。順番はできつつありますが、まだ縦に並べようとはしていません。
結び
 私は、十二支縁起を悟りの内容とすることに、長い間不満を持ってきました。悟りといわれる限り、それは極めて直観的なものだろうと思ったからです。しかし、これまで見てきたことからすれば、縁起説で肝心なのは、順番ではなくて、根源的生存欲求にいかにわれわれが突き動かされ、それによって苦しんでいるかに、眼を開かれることであり、個別の私というこだわりをどうやって解き放ち、安楽な世界を作っていけるかを考えることのようです。これを本当にわかるのは、真に難しいことですが。この課題を見つけたところで、今日の私の話を終えたいと思います。