7月度例会講話
河野氏とその被官の宗教活動について
  〜高野山参詣をめぐって〜
石 野 弥 栄
一 はじめに  
 戦国期、湯築城主河野氏は、さまざまな宗教と関わっていました。禅宗(臨済宗・曹洞宗)や時宗、観音信仰(京都清水寺の観音菩薩に対する信仰)、三島信仰(大山祇神社の三島大明神及び本地仏である大通智勝仏とその王子に対する信仰)、熊野信仰(熊野三所権現に対する信仰)、伊勢信仰(伊勢神宮に対する信仰)など様々な形態のものがありましたが、そのうちもっとも影響力があり、盛んであったのは、高野山参詣を中心とする高野山信仰であったとみられます。
ここでは、高野山における河野氏とその被官(家臣)の高野山参詣とそれに関連する宗教活動の実態及びその政治的、経済的な背景について述べてみましょう。 

二 高野山参詣の流行
 高野山参詣が盛んになるのは、戦国時代末ですが、その前提として平安時代中期以降の弘法大師空海への信仰、高野山を浄土と観ることが貴族階級を中心に盛んになりました。ただ、その信仰は、上皇(院)や公家衆(院の近臣など)などの貴族階級あるいは貴族階級からの隠遁者などにとどまり、社会全体に及ぶものではありませんでした。
 中世に入ると、鎌倉幕府の有力御家人安達氏や執権北条氏などの幕府要路の武士たちが、町石を建立したり、高野板を開板したりするなど、高野山に対して篤い信仰を抱くようになりました。しかし、何といっても、武士階級の間に高野山信仰(参詣)が爆発的に広まったのは、高野山内における宿泊施設(宿坊)の発達がみられるようになった、室町期以降といってよいでしょう。なぜ高野山で宿泊施設が整えられるようになったかといいますと、地方の武士たちの高野山への信仰の高まりもありますが、それを促したのは、高野山側の事情でしょう。古代末から中世前期における高野山経済の主柱は、高野山領荘園です。他の例に洩れず、中世後期には、これらの寺領荘園は、武士の侵略等によってしだいに消滅していったのです。この趨勢をみて、高野山側のとった方策は、財源を土地からの収益(年貢)から人的資源へと転換させたことです。つまり、高野山の院坊は、地方の武士たちと契約を結び、彼らを檀越として、各家の位牌を安置して先祖の供養をし、奥の院(空海の入定した場所。霊廟がある。)での石塔建立(分骨を納める墓、供養塔)や院坊への宿泊を勧めました。ただし、宿泊料は徴収せず、檀 越から供養料や銭・品物などの寄進を仰ぎ、その反対給付として祈祷札の配布、弘法大師の絵像や加持土砂の配布、高野聖を派遣しての土産物の賦りなど、中世後期から近世にかけて、多種多様の宗教活動とそれに付随する行為が展開されたのです。なお、これらの根幹をなすのは聖地である高野山への参詣といういわば一種の巡礼です。それは単独でもなされますが、熊野詣、伊勢参宮などと一緒に行われるケ?スも少なくありませんでした。

三 河野氏とその被官の高野山参詣
 地方の武士のなかでも守護大名や戦国大名などの有力領主の高野山参詣は、領国(領域)内の武士への影響力からして一般の武士のそれと同一視できません。正確には把握できませんが、中世においても二十を超す有力領主と結びつきのある院坊が知られています。このうち、伊予国の河野氏は、高野山内の小田原にあった上蔵院(現在は金剛三昧院が名跡をもつ)を宿坊として宿泊したり、各種の宗教活動を展開したりしたのです。上蔵院に残る「河野家過去帳」では、鎌倉時代初めの河野通信、南北朝期の通盛・通朝・通堯の三代にわたる河野氏当主、通義・通之・通久など室町初期から中期にかけての河野氏当主が見えます。ただ、他の事例からみて、宿泊施設が発達せず、高野山参詣が常態化しない時代に、河野氏が参詣したとは考えられません。これらは、河野氏による高野山参詣が盛んになった戦国期に、先祖の位牌を新たに建立して追善供養し、過去帳に書き込んだのでしょう。現に同過去帳が戦国時代から年代順に書き継がれているのに、これら古い時代の河野氏当主の供養の記述が挿入されていることでも推測されます。「上蔵院文書」に現存する河野氏から上蔵院宛の書状でもっとも年 代的に遡るのは、応仁の乱前後に活躍した河野氏庶流の通春のものですから、やはり、その頃、河野氏は上蔵院を宿坊として参詣するようになったと考えてよいでしょう。
 河野氏による高野山参詣が最も隆盛を見たのは、戦国期の通宣(刑部大輔)以降、通直(弾正少弼)・通宣(左京大夫)、通直(牛福丸)の歴代のころです。「紀伊続風土記」によると、通宣・通直は上蔵院に登り、発願して肖像画・系譜・本尊を納めてのち、伊予国へ帰り、「國中を當院の檀越となして寺産を付せり、其寄附状今に蔵す」とあります。この記事は、江戸時代後期のものですが、現存する上蔵院文書からみると、信用が置けましょう。とくに注目されるのは、天文十三年(一五四四)四月十四日に河野弾正少弼通直が上蔵院へ提出した宿坊証文です。この中で通直は、高野山へ参詣したとき、自分が上蔵院を宿坊と決めるだけではなく、高野山参詣をした伊予国の武士で、上蔵院以外の坊を宿坊とすることを厳禁しています。やや年代を経た天正二年(一五七四)に河野氏一門黒川氏当主通博(周敷郡剣山城主)は、同様に自分の領域内の武士や庶民が上蔵院以外の坊を宿坊とすることを禁じています。河野氏当主は、伊予国の守護としての立場から領国内の武士にこのような一種の宗教統制を敷いたのであり、黒川氏はそれに準じる立場から、河野氏の承認をえて、自分の領域内へ適用したのでしょう(河 野・黒川両氏以外の領主は、このような文言を付した宿坊証文を提出した形跡が認められない)。いいかえるならば、河野氏は高野山参詣を政治的に利用して、支配圏内の武士を統制したとも言えましょう。現に河野氏支配圏外の南予地域の武士たちは、河野氏の宿坊である上蔵院を必ずしも宿坊としていません(後述)。
 次に河野氏被官(家臣)の中で、高野山参詣をした武士たちを、上蔵院関係史料(上蔵院文書・南行雑録・河野家過去帳)から拾い出し、分類しますと、(一)河野氏膝下地の河野氏一族(戒能・垣生・土居・寺町・大内・桑原・得居・浅海・重見・南・松末・正岡等)、(二)
その他中予地域の武士(相原・松浦・古川・高市・出淵・東野等)、(三)来島村上氏一族とその被官(原・高田・神野)、(四)東予地域の河野氏勢力圏内の武士たち(黒川氏とその配下、壬生川・桑村・飯尾・櫛邊・高瀬等)に分類されます。とくに目をひくのは、河野弾正少弼通直の娘婿となって河野氏一門の列に加わった来島村上氏の当主通康とその一族です。
 村上通康から高音寺(伊予国における高野山上蔵院の布教拠点か。現松山市高木町所在。)宛の書状によれば、高音寺僧の高野山帰山にあたって、通康は和泉国堺津まで乗船する船の調達を約束しており、高野山参詣に果たす来島村上氏の役割の重要性が窺い知られます。その他、来島村上氏一族やその配下の武士で、高野山上蔵院と交流した武士たちは、少なくありません。河野氏滅亡後、江戸時代に豊後国森藩主となった久留島(村上氏)が「河野家過去帳」を書き継いでいるのも、戦国末期に来島村上氏が河野氏一門に加わり、河野、来島村上氏が一体化したことを、年代を経たのちも認識していた証拠になるでしょう。

四 河野氏支配圏外の武士の高野山参詣
 河野氏による実質的な支配が及ばない喜多郡・宇和郡の武士たちは、高野山参詣をしたとき、どの宿坊に拠ったのでしょうか。
 まず、喜多郡では、大洲の宇都宮氏とその配下は見えませんが、菅田・萩森宇都宮・三崎が見え、宇和郡では津島・土居・有間今城・西ノ川・浪岡・岡・下岡等の武士たちが上蔵院を宿坊としました。かれらの名は、一部を除いて「上蔵院文書」には全く見えませんが(火災で関係文書が焼失したせいか)、「南行雑録」や「河野家過去帳」に姿を現します。喜多郡は宇都宮氏、宇和郡は西園寺氏がそれぞれ支配した地域であるのに、これらの地域の武士の中に、なぜ河野氏の定めた上蔵院を宿坊としたのでしょうか。
 全体的にいえば、かれらは宇都宮氏や西園寺氏の支配圏内にありながらも比較的独立的な立場にあり、伊予の中央部の河野氏と結びつきやすい状況にあったといえましょう。ただ、刻々と変化する戦国期の政治情勢を考慮する必要があり、平面的な図式で捉えることはできません。例えば、上蔵院を宿坊とした宇和郡三間郷の領主土居氏(土居清良の一族)は、土佐国西部、幡多郡・高岡郡を支配する土佐一条氏が宇和郡を窺がって同郡へ攻勢をかけたころ(弘治年間から永禄年間にかけて)、土佐一条氏とその被官が宿坊とした窪之坊に拠っています(「吉田古記」所引「円満院過去帳写」)。つまり、土居氏の例をとってみても、年代を考慮する必要があろうかと思います。
 また、宇和郡の東南端、土佐国境に近い黒土郷の領主、西ノ川氏の場合、室町初期にすでに河野氏被官となり、在京しており、河野氏が滅亡したのちの天正十五年(一五八七)に高野山へ登り、上蔵院を宿として亡父の供養のために釣燈籠を献納しています(高野山金剛峰寺蔵)。この事実からすれば、河野氏と同じ上蔵院を宿坊とした南予の領主たちは、河野氏となんらかの縁故があったと者と考えられましょう。でも、これで一律に括れないのが南予地域の複雑さです。越智姓の北ノ川氏(宇和郡三滝城主)は、戦国時代末、名乗りに「通」の字を付け、河野氏被官になった形跡があるのに、河野氏や土佐一条氏とは異なる松門院(現在は本覚院が名跡をもつ)を宿坊(位牌所を兼ねる)としています。さらに、兵藤氏を中心とする長浜地区の領主たちは中島坊(報恩院を経て現在は普賢院が名跡をもつ)を宿坊としていました。つまり、南予地域は、河野氏の影響力がある程度及ぶ点とそうでない点が混在した地域であったことが、高野山参詣という宗教活動を通じて見えてきます。

五 むすび
 
伊予の河野氏を始めとする戦国武士による高野山参詣は、すぐれて宗教活動ではありますが、経済的な背景や政治状況を反映するという側面もあったことが分かります。中世の伊予武士の信仰は、高野山信仰にとどまらず、広がりを呈しています。今後それらの課題に取り組んでいきたいと思っています。