平成19年12月(430回)例会 報告
 講 師 菊池 佐紀 氏 (文芸誌「アミーゴ」主宰)
 講 話 川端康成と三島由紀夫 〜二人の作家に共通する闇〜
講話 『川端康成と三島由紀夫 〜二人の作家に共通する闇〜』 要旨
 昭和四十三年、六十九歳のとき、日本人初の「ノーベル文学賞」を受賞して世界の頂点に立った川端康成の生い立ちは悲惨なものだった。大阪市に生まれたが、一歳のとき父を、二歳で相次いで母を亡くし、祖父母に預けられる。数年後に祖母も他界し、目の不自由な祖父を看病しながら暮らすことになる十五歳で全くの孤児となった康成は一高時代に伊豆に旅し、美しい踊り子と出会って心を癒される。その顛末を描いた『伊豆の踊り子』はみずみずしい叙情にみちた青春小説として世評が高い。
 が、その後、次々と発表された『雪国』『禽獣』『山の音』などに、この作家の心の奥底に澱のように溜ったどす黒い闇の部分が浮き彫りになる。肉親の死を次々と体験したことが康成の作品に暗い影を落とし、無常観を植えつけるに 至った。生の中に死があり、死の中に生がある特異な成長過程は川端の人間観と人生観に大きな影響を与えたことは歪めない。
 が、その後、次々と発表された『雪国』『禽獣』『山の音』などに、この作家の心の奥底に澱のように溜ったどす黒い闇の部分が浮き彫りになる。肉親の死を次々と体験したことが康成の作品に暗い影を落とし、無常観を植えつけるに 至った。生の中に死があり、死の中に生がある特異な成長過程は川端の人間観と人生観に大きな影響を与えたことは歪めない。
 この世はもろくはかなく、実在はあり得ない、美や幸福はやがて消え去るもの。川端文学に漂う虚無思想は一貫しており、作家は遂にそこから抜け出すことはできなかった。戦後文学の傑作として評価の高い『山の音』にも、川端が終始持ち続けたテーマ、「人間の逃れられない孤独」と、「人を愛することの空しさ」が描かれている。主人公信吾の虚無感は即、作者の虚無であり、『雪国』の主人公、島村の人間を見る眼の冷たさは川端のそれに他ならない。
 しかし、選びぬかれた言葉と言葉が相呼応して光を放ち、微妙な音色をかなでる、その典雅な文章は格別の魅惑にみちている。文字通り、珠玉の文章はまさに芸術だ。日本通の学者、サイデンステッカーの翻訳を得なければ、『雪国』はノーベル賞を受賞できなかっただろうと言われるほどの名訳だが、その受賞から一年半後、愛弟子の三島由紀夫の割腹事件が起きる。若年の三島の処女作『煙草』を文壇に推挙したことから二人の親交は始まった。その夥しい往復書簡が残されているのは幸運と言える。三島がいかに川端を信頼していたか、又康成が三島を『若き師友』と呼んでどんなに愛していたかが納得できる内容だ。
 三島由紀夫が自決して一年半後の四月十六日、逗子の仕事部屋で康成はガス自殺を遂げる。愛弟子の突然の死は老いの身にこたえた。友人、横光利一の葬儀で川端は、「君亡きあとは日本の自然を魂のかてとして生きたい」と弔辞をよんでいるように、彼は日本の山河をこよなく愛していた。道がアスファルトに変わり、樹が伐られて自然が破壊されていくのに彼は怒りを感じていた。その怒りは絶望に変じた。子もなく、孫もなく、妻に対する嫌悪感を消すすべはなかった。最高の栄誉と富を得ながら、そんなものでは彼の孤独は癒されなかったのである。『源氏物語』の現代語訳をある書店と契約しながら果し得なかったのは惜しまれる。川端の骨の髄まで沁みこんだ「無常観」は、他に追随を許さぬ、すぐれた『源氏物語』を後世に残しただろう。
 三島由紀夫の生い立ちは川端と全く異なり、東京の上流家庭で愛されて育った彼は二十四歳で発表した『仮面の告白』で華々しく文壇に登場した。精神分析的な方法で、一般には『異常』と映る性的倒錯の過程を一人称で描く、サディズムとマゾヒズムの交錯した特異な内容は評価が真っ二つに割れた。が、何と言っても、三島が余すところなく本領を発揮しえたのは昭和三十一年、三十一歳で『新潮』に連載した『金閣寺』と言える。
 終戦後、金閣寺の青年層が放火して寺が全焼したとき、その犯人は放火の理由を「自分は金閣の美しさに嫉妬したのだ」と言った。そのキザな一言が、三島の想像力に火をつけ、創作意欲をかき立てる。長編小説『金閣寺』に三島は自分の持てる美意識、哲学、感性のすべてを投入して取り組んだ。金閣寺の美しさにとり憑かれた青年層の内部崩壊の心理を三島は明晰な筆致で追う。愛する金閣が、他人からきらわれる見にくい容姿の自分を拒否するのに苛立ちを覚えた主人公はやがてこの非情の金属の結晶に憎悪を抱き始める。そして、焼失させることでその呪いから放たれ、逆に金閣を永久に我がものにしようと考える。破壊してはじめて相手を所有できる。と言うロジックは、天才作家の筆によって華麗に展開していく。読者はそのマジックのような論理に魅せられて読み進む。存在価値のうすい、魅力の乏しい人間を主人公に据えてストーリーを構成するのは至難の技だが、この『観念小説』は三島その人の作家的手腕の凄さを改めて感じさせる芸術作品だ。
 漁師の若者と海女との愛を描いた『潮騒』はこの作家にしては珍らしく普遍性があり、人気を博した。他に『禁色』『愛の渇き』能を題材にとった一連の作品が残された。が、彼の最後の作品となった『豊饒の海』に取りかかる頃から、彼の文学はあらぬ方向へと向かっていく。「この四部作が完成したら自分は死ぬであろう」としばしば自分の「死」を予言し始める。若者を集めて「盾の会」を結成し、「文化防衛論」を説いた。天皇を中心とする伝統的な「サムライ精神」の復活を訴えるが大衆は聴く耳を持たなかった。
 昭和四十五年十一月二十五日、自衛隊市谷駐屯地の総監室で自決して果てた。享年四十五歳。
 独自の修辞学から生み出された美的文体。それは白い大理石の肌を連想させるが、どこか非情で冷たい。その感触は川端の文章と相通じるものがあり、共通する闇の美学がある。『豊饒の海』の終りに描かれた「寂莫の庭」には三島の自決の謎をとく鍵がありそうだ。「これといって奇巧のない、閑雅な、数珠を繰るような蝉の声」がする庭に、主人公の本多は佇む。「そのほかには何一つ音とてなく、寂莫を極めている。この庭には何もない。記憶がなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。」
 三島はその死の前夜、夜半までかかってこの最終章を書き終えている。死を決意した人間がこうも冷静に文章を綴ることができるのかと、改めて驚かされる。三島には、もう何も無かった。現在も過去も未来もすべてナッシングだった。彼が辿りついたこの虚無の庭に、川端もまた佇んでいたのである。
 志賀直哉の短編、たとえば、戦後の作「灰色の月」などには、他人を労る愛情が滲み出て読後感があたたかい。しかし、この二人の作品にあったものは何なのだろう。強烈な自己愛、自己の絶対化が感じられるだけで、他者に対する人間愛は感じとれない。二人のこのすぐれた作家が辿り着いた虚無の庭―類まれな天才の最後はいかにも寂しい。愛のない花畑は所詮、増加の畑に過ぎなかった―私ごときがそう言い切るのはおこがましいのかもしれない。結局、天才の狂気は凡俗には解せないのである。彼らの自死は彼ららにとって敗北だったのか、それとも勝利だったのか、誰にも断定できないだろう。了