講話 「念仏の布教」 要旨
|
|
1、念仏は7世紀前半日本に伝わったが、それが流布するのは平安中期以降である。 |
「天慶より以往、道場聚落に念仏三昧を修すること希有なりき。如何に況んや小人愚女多くこれを忌めり。上人来りてのち,自ら唱え他を唱えしめ,その後世を挙げて念仏を事とせり。誠にこれ上人の衆生を化度するの力なり」〈慶滋保胤「日本往生極楽記」)。 |
|
2、日本に定着した念仏は、民俗浄土教と純正浄土教という二つの流れを形成した。 |
・民俗浄土教・・・土俗信仰と習合して呪術的性格を帯びた念仏の流れ 〈葬送念仏、六斎念仏 虫送り念仏等)。 |
・純正浄土教・・・思想的に純化せられ、末法の時代の凡夫救済のための易行他力の念仏を説く流れ。中国で深化し、日本では法然が承安5年(1175〉 浄土宗を開宗して、日本の純正浄土教を確立する。浄土真宗を開いた
親鸞はこの法然の直弟子。同じく一遍も法然の直弟子であり、西山浄土宗を開いた証空の孫弟子に当る。法然、親鸞、一遍共に念仏門(浄土門)に立つ。 |
|
3、法然・親鸞と一遍の念仏布教の違い |
・法然は財産として若干の土地家屋を所有した 〈没後遺誠文)。親鸞は物財は所有しなかったが、妻子を所有。そして所有には定住が不可欠である.一遍は財産・妻子なにもかも捨てて無所有(捨聖)に徹したから、一所不住の遊行生活を送ることができた。 |
・法然・親鸞の布教は定住型・・・農耕民・都市民・弥生人の系譜。 |
・一遍の布教は一所不住型・・・・山人・狩猟採集民・縄文人の系譜。 |
・法然・親鸞は共に定住型である。かれらは一所に定住し、教えを求めてそこを訪れる人々に法を説いた。説法と著述活動がその布教方法であった。 |
・法然・親鸞のような思索家とは異なり、一遍ほ行動の人であった。鎌倉仏教の展開のなかで法然が提起し、親鸞、証空らが哲学的に深めた念仏信仰を、民衆の底辺にまで広めたのが一遍であった。両者の布教に違いがある
のは当然といえよう。 |
・一遍はその布教を賦算に託した.賦穿とは「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷られた念仏札を配り歩くことである。けれども見方を変えれば、それは単なる護符・呪符信仰、物神崇拝の類いかもしれない。少なくと
もそれは法然や親鸞にとって無縁な布教方法であった。けれども民衆には念仏往生を約束する物的証拠が必要だという一遍の思いが、かれを賦算に駆り立てたといえよう。だから一遍は「信不信をえらばず、浄不浄をきらは
ず」、念仏札を賦算して歩いた。その賦算は貧富、貴頗,男女の差別なく、乞食や非人、癒者にまで及んだ。念仏を社会の底辺まで運ぶには、賦算が説法や著述よりもはるかに有効な方法だったのである。 |
・とはいえ念仏布教は困難な道である。より多く賦算するにはより多くのひとに出会わねばならない。だから賦算と遊行は一体である。賦算には定住よりも遊行が勝るのだ。遊行とは異なり、踊り念仏の始まりは自然発生的である。けれども始めてみれば、それもまた人集めになんと有効な方法であったことか。 |
・念仏停止の弾圧以後、各地に逃れた法然の高弟たちはそれぞれ一派を形成(証空『西山義』、聖光『鎮西義』、季西『一念義』、長酉『諸行本願義』、隆寛『多念義』、親鸞『一向義』〉。かくして法然浄土教は諸派に分裂してやがて消滅していったが、そのなかにあって証空の西山派と重光の鎮西派だけが、天台宗の付属宗となることによって弾圧をまぬがれた。 |
・法然浄土教は再三の弾圧によって四分五裂した。そのなかにあって一遍の布教とその後の遊行上人の回国は時宗を盛り上げ、室町初期にはついに、時宗教団が庶民仏教の頂点に立つ〈阿弥文化の盛行〉。けれどもその時宗
も室町中期から応仁の乱を境に急速に衰退するや代わって勃興してきたのが、蓮如率いる浄土真宗である。 |
|
4、蓮如の事績 |
・御影堂の留守職となった覚如〈一二七〇〜一三五一)は、親鸞中心主義の教義と真宗教団の確立を目指して本願寺を創設〈御影堂→本願寺)。みずから真宗教団の統括者となる道を歩んだ。それは親鸞の血統を継ぐ者を法主に仰ぐことであったから、親鸞の法統に連なる門弟達は反発。本願寺は蓮如に至るまで「さびさびとした」状態にあった。 |
・蓮如〈1415〜99)。父存如二〇才の子。母はその召使。蓮如六才の時、父存如が正妻如円を迎え,母は行方知れずとなる。まもなく異母弟応玄誕生.蓮如は四十三才まで生活費にも事欠く部屋住みであり、その前半生は
苦難に満ちていた。そんなどん底生活のなかにあって、かれを支えたものは親鸞の血統・法統の正統な相続者であるという自負。そして堅い信仰と学識と伝道への強い意志と健康。それに少数でほあるが、かれを熱烈に支持
する門徒の存在であった。長禄元(一四五七)年父存如死去。蓮如四十三才。存如の末弟如乗の奔走により、本願寺第入世門主となる。 |
・蓮如は二十八才にして平貞房の娘如了と結婚、四男三女。如了没(蓮如四十一才)。妹蓮佑と再婚、三男七女。蓮佑没(蓮如五十六才)。妻如勝に一女。妻宗如に一男一女。七十二才五人目の妻蓮能を迎え五男二女。末子実征ほ蓮如八十四才の子であった。十三男十四女。 |
・法主となった蓮如のいちばんの課題は、いまだ青蓮院の子院として比叡山に従属していた真宗教団の天台宗からの離脱と、在家仏教である浄土真宗に適した伝道スタイルの確立であった。けれども天台宗からの離脱は否応
なく、山門宗徒による大谷本願寺破却(一四六五年)、叡山の堅田総攻撃(一四六八年)といった法難を本願寺教団にもたらす。 |
・一四七一年、吉崎下向。一四七五年六十一才、吉崎退去。一四七八年、山科本願寺建立。一四八八年、加賀一向一揆、守護富樫政親を倒す。一四八九年隠居。本願寺法主を実如に譲る。一四九六年、石山御坊起工。一四九九年三月二五日没。八十五歳。 |
|
5、御文(御文章) |
十五世紀はこれまで仏教世界から見離されていた大衆がその力を自覚し、その生活に即した救いを希求し始めた時代である。蓮如はその救いの教えを御文に託した。しかも一枚の御文を大勢に読み聴かせるという伝道形式
の考案こそ、蓮如成功の最大の秘訣といえよう。 |
・御文は親鸞の教説の要点を凝縮し、親鸞の消息文と同じ漢語混じりの仮名文字で書かれている。読み聴かせることが前提であったから、御文は漢字にはルビを打って読みやすいように工夫され、話言葉で書かれている。リ
ズミカルな文体、反復表現等、読む・聴くひとのこころを捉える巧みな修辞法が用いられ、簡明にして要領を得た表現内容になっている。〈福沢諭吉は近代的文体の創始に当って、御文の文体をモデルにしたという<福翁自伝>作家の杉浦民平は御文を「宣伝扇動文の模範」と評した)。 |
・蓮如は村の指導者層・識字階級である坊主と年老と長〈乙名)をなによりもまず信者とする伝道方針を貫いた。講と寺内町の確立=信仰共同体の成立。講では一枚の御文が何十人もの手に渡り読まれた。また書写された御
文は寺や道場に張られて普及した.村人への説教は信仰を家庭に浸透させ、家庭の浄化に貞献した。 |
・現存する御文は一九一通。そのうち年紀の明らかなもの一五八通。年紀不祥三三通。実如とその子円如が編纂し、法主証如が開板した御文を「五帖御文」または「帖内御文」といい、評価が高い。これに洩れた御文を「帖
外御文」という。 |
・蓮如の思想の特色 |
信心為本と感謝報恩の念仏。蓮如は信心為本に徹し、救済の条件は信にあり念仏にはないという、覚如によって開かれた信仰至上主義を徹底させた.信心が救済の原因であって、念仏は救済の原因でほなく、感謝報恩の行であるという主張を貫く。 |
|
6、御文の一例 |
マズ当流ノ安心ノオモムキハ、アナガチニ、ワガココロノワロキヲモ,マタ妄念妄執ノココロノオコルヲモ、トドメヨトイフニモアラズ、タダアキナヒヲモシ奉公モセヨ、猟スナドリモセヨ、カカルアサマシキ罪業ニノミ朝夕マドヒヌルワレラゴトキノイタズラモノヲタスケントチカヒマシマス弥陀如来ノ本願ニテマシマスゾト、フカク信ジテ、一心ニフタゴコロナク弥陀一仏ノ悲願ニスガリテ、タスケマシマセトオモフココロノー念ノ信マコ
トナレバ、カナラズ如来ノ御タスケニアズカルモノナリ。コノウヘニハナニトココロエテ念仏マウスベキゾナレバ、往生ハイマノ信力ニヨリテ御タスケアリツル、カタジケナキ御恩報謝ノタメニ、ワガイノチアランカギリハ、報謝ノタメトオモヒテ念仏マウスへキナリ。コレヲ当流ノ安心決定シクル信心ノ行者トハマウスベキナリ。アナカシコ アナカシコ。 |
文明三年十二月十八日 |
|
|