平成19年9月度例会講話要旨 (2007. 9.8.)
 講 師  杉 野 祥 一
 講 話  一遍と親鸞 ~信をめぐって〜
講話 一遍と親鸞 ~信をめぐって〜 要旨
 今日は、一遍と親鸞という浄土門における二人の巨人を取り上げてみたいと思います。この二人は、共に浄土の教えによる万人救済という究極の立場を採ったという点で、大きな共通点を持つのですが、その生涯や発言を比べてみますと、極めて対照的であることがわかってきます。
1.非常に対照的な二人
一遍 親鸞
・生まれ 武家・河野家 公家・日野家
・出身地 伊予(地方)伊予(地方) 京都(中央)
・勉学の地 博多(西山義) 比叡山(天台教学)
・生活 遊行 比較的定住
・結婚 離縁 妻帯
・対神社 神明尊重 神祇不拝
・芸能への関わり 深い 希薄
・歓喜 踊躍歓喜 歓喜なし
・弟子 時衆の形成 持たず
・戒 時衆制誡 無戒
・慈善 積極的 否定
・著作 なし 多数
・歌 和歌 和讃
・寿命 五〇余年 九〇歳の長寿
 二人の特徴的な言葉を見ておきましょう。
(生活・妻帯)
一遍
旅ごろも 木のねかやのね いづくにか 身のすてられぬ ところあるべき
『播州法語集』18
 又云、念仏の機に三品あり。上根は、妻子を帯し、家にありながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつといへども、住所と衣食とを帯し、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。我等は下根の者なれば、一切をすてずば、さだめて臨終に諸事に著して、往生を損ずべきものなり。よくよく思量すべし。
親鸞(『御伝紗』)
六角堂の救世菩薩の夢告
行者、宿報にて、たとひ女犯すとも、
我、玉女の身となりて、犯せられん。
一生のあいだよく荘厳して、
臨終に引導して、極楽に生ぜしめん。
(踊躍歓喜)
一遍『聖絵』
ともはねよ かくてもをどれ こころごま みだのみのりと きくぞうれしき
親鸞(『歎異抄』)
 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
(弟子 戒 慈善)
我が遺弟等、末代に至るまで、すべからくこの旨を守るべし。努力三業の行体を怠ることなかれ。
親鸞『歎異抄』
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のこと(途方もないこと)なり。
(第6条)2.浄土教の教えの基本・弥陀の本願とは 計り知れないほどの昔、世自在王仏という仏がいらしたとき、ある国王が出家をして法蔵と名のった。
仏の指導のもと法蔵菩薩は計り知れないほどの長い間思惟し、修行が完成し仏国土ができあがったとき何が成就されるべきかという願を立て(四十八願)、無量のあいだ修行し、遂に修行を完成させ、阿弥陀仏となった。
そして、今も極楽という浄土にいらっしゃる、という「無量寿経」の教えに基づく。
 この四十八願の中で、われわれの極楽往生に関係する願は、十九願、二十願、そして十八願の三願である。
この中で特に重要とされるのが十八願です。第十八願 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
 また、「無量寿経」下巻冒頭には、 十方恒沙の諸仏如来は、 みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。
あらゆる衆生、 その名号を聞きて信心歓喜せんこと、 乃至一念せん。
至心回向したまへり。
かの国に生まれんと願ずれば、すなはち往生を得、 不退転に住せん。
とあり、これも重要です。「観無量寿経」には、
 上品上生というは、もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。
何等をか三つとする。
一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。
三心を具すれば、必ずかの国に生ず。と説かれます。 三心とは、「第十八願」では、至心、信楽(信じ喜ぶこと)、欲生、「観無量寿経」では、至誠心、深心、廻向発願心で、これはどちらも同じことで、浄土に向けての、真実純粋な心、深く信じる心、真摯に往生したいと願う心、のことです。
善導は、『往生礼讃』の中で、次のように説きます。
この三心を具すれば、かならず生を得、もし一心少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。これを受けて、法然も『選択本願念仏集』で、極楽に生ぜんと欲はん人は、まつたく三心を具足すべし。
と説きました。
 ここに、信心と名号という問題が生じてきます。
すなわち、「南無阿弥陀仏」と唱えるとき、心底から信じ切って浄土に行きたいと願って言わなければ、無意味なのか、という問題です。そして、人間はそういう純粋極まりない心を、持とうとして持てるものなのかという問題でもあります。
この問いに対する答は、親鸞と一遍では大きく異なってくるのです。
3.親鸞の信心為本(親鸞の和讃)真実信心うるひとはすなはち定聚のかずにいる不退のくらゐにいりぬればかならず滅度にいたらしむ このように親鸞は、信の大切さを強調します。親鸞の「信」に関する思想を、彼の主著『教行信証』によって見ていきます まことに知んぬ、 徳号の慈父ましまさずは能生(生ませる)の因闕けなん。
光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。
能所の因縁和合すべしといへども、 信心の業識(内なる心)にあらずは光明土に到ることなし。
真実信の業識、 これすなはち内因とす。 光明・名の父母、 これすなはち外縁とす。 内外の因縁和合して報土の真身を得証す。
 すなわち、親鸞はここで、阿弥陀仏の光明と南無阿弥陀仏の名号は、往生のための外からの間接的原因であり、自らの信こそが内なる直接的原因であると言うのです。
 親鸞が信心と名号の関係をどう捉えていたかを端的に表す言葉が「信巻」にあります。
真実の信心はかならず名号を具す。
名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。
 つまり、真の信心を持てば必ず自ずから南無阿弥陀仏という声が出てしまうが、逆に南無阿弥陀仏と言っているからといって信心を持っていることにはならないと言うのです。
 しかし、親鸞は極めて罪の意識の強い凡夫の自覚の強い人でした。
そして、そういう煩悩にまみれて、純粋な信心を持てない人々の救いを求めたのでした。これでは教えが矛盾してしまいます。
それを解決していくのが、親鸞の三心についての独特の解釈なのです。
 至心について、一切の群生海、 無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、・・清浄の心なし、 ・・真実の心なし。
・・・如来の至心をもつて、 諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰わす。
 信楽について、信楽といふは、 すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。 このゆゑに疑蓋間雑あることなし。 ゆゑに信楽と名づく。
・・・如来、 苦悩の群生海を悲憐して、 無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
これを利他真実の信心と名づく。 欲生についても、同様である。欲生といふは、 すなはちこれ如来、 諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
・・・しかるに微塵界の有情、 煩悩海に流転し、 生死海に漂没して、 真実の回向心なし、 清浄の回向心なし。
・・・利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。
 つまり、至心、信楽、欲生の三心はいずれも、われわれの側の心のことではなく、阿弥陀仏がわれわれに向けて与えてくれるものだ、と親鸞は言うのです。
ここに、親鸞特有の廻向の思想があります。
煩悩にまみれたわれわれは何をやろうと功徳を積むことはできず、廻向は不可能である。廻向とは如来がわれわれに向けてその無限の徳を振り向けてくださることを言うのです。
 そして、親鸞にとって、三心は結局、真実の信心という一心に帰するのであるが、われわれが真実の信を持つことができるのも、如来から与えられるが故に名のである。
常没の凡愚、 流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、 真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、 いまし如来の加威力によるがゆゑなり、 博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。
たまたま浄信を獲ば、 この心顛倒せず、 この心虚偽ならず。
ここをもつて極悪深重の衆生、 大慶喜心を得、 もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。
 しかし、ここまで見てきてもやはり、われわれが真実の信心に目覚めるということが極めてまれであるということに変わりないではないか、という疑問が残るでしょう。われわれは如来から無限の慈悲によって与えられている真の信心をどのように受け止めればよいと、親鸞は説くのでしょうか。
ここで重要なのはやはり名号ではないかと思われます。先に見たように、「真実の信心はかならず名号を具す」のです。
おそらく、自分の計らいによって言う念仏ではなく、何らかの仕方で真の念仏の声に出会うとき、自ら純粋な信心を起こすことなど到底できないと深く悲しみをいだいて、それでもわれわれを救ってくれようとする如来の慈悲に気づき、信心に目覚めると、考えてよいのかもしれません。
4.一遍の「信不信をえらばず」 親鸞の言葉として最も有名なのは、おそらく「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」でしょうが、一遍の場合それは「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」(『聖絵』)でしょう。
この言葉では、一遍は、親鸞と全く逆のことを言っているように見えます。『播州法語集』にも、熊野権現、「信不信をいはず、有罪無罪を論ぜず、南無阿弥陀仏が往生するぞ」と示現し給ひし時、自力我執を打払ふて法師は領解したりと云々。
常の仰なり。
(51)とあります。
しかし、「南無阿弥陀仏が往生するぞ」とは、どういうことでしょうか。
又云、決定往生の信たたずとて、人毎になげくは、いはれなき事なり。凡夫の心には決定なし。
決定は名号なり。しかれば、決定往生の信たたず共、口に任せて称名せば往生すべきなり。
所以に、往生は心品によらず。名号によりて往生するなり。(20)
 またさらに、一遍は次のようにさえも言います。
全く往生は義によらず、名号によるなり。たとひ法師が勧むる名号を信じたるは往生せじと心には思ふとも、念仏申さば往生すべし。
いかなるえせ義を口にいふとも、心に思ふとも、名号は義によらず、心によらざる法なれば、称すれば決定往生すると信じたるなり。(80)
 これは、いわば究極の念仏思想とでも言うべきでしょう。
これまで議論されてきた三心も、一遍においては南無阿弥陀仏に帰すとされ、名号にそのまま含まれるとされる。
しかも、「声と念は一体なり」(7)とされ、声に出して唱える念仏こそが大切なのです。
  ここで、親鸞における信、一遍における名号という二人の強調点の違いがはっきりしましたが、しかしながら、この点において二人は対立しつつも、なぜか不思議な一致を見せていると言いたくなります。要は、われわれの側の心の問題ではなく、如来の大いなる救いの力であるということでしょう。