講話 「異界」としての四国 〜長増遁世譚より〜」 要旨
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『今昔物語集』巻第十五の「比叡山僧長増往生語第十五」に、比叡山僧の長増が四国に退隠流浪し、たまたま伊予国で再会した弟子清尋供奉の慰留も退けて終生乞食修行を続けて往生を遂げたという話がある。内容は次のとおりである。今は昔、比叡山の東塔に長増という僧がいた。(長増は天徳四(九六〇)年に律師に任じられた東大寺戒壇和尚名祐(明祐)の弟子である。)ある時、長増は僧房を出て厠に行ったきり、自分の数珠や袈裟、経文等を残したまま行方をくらましてしまう。その後、数十年が経過したが、ついに行方はわからなかった。長増の弟子清尋供奉は六十歳程になったころ、伊予守として任国に下った藤原知章に伴って伊予国に着いた。清尋は藤原知章の庇護のもと修法を行い、伊予国内の人々も清尋を敬った。 |
ある日のこと、清尋の僧房の前に立ててある切懸塀の外に一人の老法師がいた。その格好は腰蓑を着けて「濯ギケム世モ不知ズ朽タルヲ二ツ許着タルニヤ有ラム、藁沓ヲ片足ニ履テ竹ノ杖ヲ築テ」という門付け乞食の姿であった。僧房の宿直をしていた土地の人がその老法師を大声で罵って追い払う。その叫び声を聞いて清尋が障子を開けて乞食に近寄って、笠を脱いだその顔を見れば、老法師は比叡山にて厠に行ったまま行方不明になっていた長増であった。清尋が問い尋ねると、長増は「我レ、山ニテ厠ニ居タリシ間ニ、心静ニ思エシカバ、世ノ無常ヲ観ジテ、此ク、世ヲ棄テ偏ニ後生ヲ祈ラムト思ヒ廻シニ、只、『仏法ノ少カラム所ニ行テ、身ヲ棄テ次第乞食ヲシテ命許ヲバ助ケテ、偏ニ念仏ヲ唱ヘテコソ極楽ニハ往生セメ』ト思ヒ取テシカバ、即チ厠ヨリ房ニモ不寄ズシテ、平足駄ヲ履キ乍ラ走リ下テ、日ノ内ニ山崎ニ行テ、伊予ノ国ニ下ダル便船ヲ尋テ此国ニ下テ後、伊予讃岐ノ両国ニ乞匈ヲシテ年来過シツル也。」と答え、僧房を出てそのまま跡をくらました。やがて、藤原知章が伊予守の任期が終わり上京し三年程たってこの門付け乞食が伊予国にやってきた。今度は土地の人
々が彼を貴び敬ったが、間もなく伊予の古寺の後の林にて、この門付け乞食が西に向かって端座合掌し、眠るように死んだ。土地の人々は各人が法事を修した。このことは、讃岐、阿波、土佐国にも聞き伝えて、五、六年間、この門付け乞食のための法事を営んだ。「此ノ国々ニハ、露功徳不造ヌ国ナルニ、此ノ事ニ付テ、此ク功徳ヲ修スレバ『此ノ国々ノ人ヲ導ムガ為ニ、仏ノ権リニ乞匈ノ身ト現ジテ来リ給ヘル也』トマデナム人皆云テ、悲ビ貴ビケル」つまり、「此ノ国々」=四国はまったく功徳をつくらない所であるのに、長増の死があってから功徳を行うようになったので、仏が仮に乞食の身となっておいでになったと語り伝えられている。 |
ちなみに、長増の弟子で伊予守藤原知章に伴って伊予に着いて修法を行った「静尋」は、『台密血脈譜』や『阿裟縛抄』八六、『諸法要略抄』によると「静真」と見え、六字河臨法を修している。『諸法要略抄』に「六字河臨法(中略)河臨法者、阿弥陀房静真、為伊予守知章、於予州修之」とある。また、『谷阿闍利伝』によると、静真の弟子皇慶も藤原知章のもとで長徳(九九五〜九年)年間に普賢延命法を行っている。六字河臨法は『阿裟縛抄』八六には、呪咀、反逆、病事、産婦のために修すとあり、公的というよりむしろ貴族の私的修法の性格が色濃いものである。また、普賢延命法は九世紀までは玉体を祈念する国家的修法として発達するも、一〇世紀には有力貴族の私的修法へと転換するという(速水侑『平安貴族と仏教』吉川弘文館)。つまり、これらは伊予守藤原知章による私的修法であることがわかる。 |
さて、先に紹介した『今昔物語集』長増遁世譚では、四国は「仏法ノ少カラム所」、「露功徳不造ヌ国」と表現されている。『今昔物語集』の他の説話で「四国ノ辺地」と表現されているように、四国は仏法の普及していない「辺土」であったと認識されていたのである。なお、辺地とは、日本国語大辞典(小学館)では「弥陀の仏智に疑惑を抱きながら往生した者の生まれるところ」(今昔十七‐十六参照)と紹介されている。 |
ここで長増の話しに戻ろう。長増は、厠からそのまま行方をくらましているが、これと同様の行為、つまり厠からの脱出譚は日本の昔話に多く見られるものである。その代表的 な話として「三枚の護符」がある。 |
ある山寺に和尚と小僧がいた。小僧は山に花を取りに行ったが道に迷って夜になってしまう。小僧は山中の一軒のお婆さんの家に泊めてもらうが、実はこの婆は鬼婆であった。何とかして逃げなければいけないと思い、便所に行き、便所の神の導きで窓から逃げた。神からは三枚の護符を貰い、追っかけてくる鬼婆に投げつけながらようやく寺に戻る、といった話である。小僧は異界(山)での試練を経験し、寺に帰ってくるのであるが、厠はちょうど異界との境(鬼婆のいる世界と日常入る山・寺)に位置していると認識することができる。厠に関しては、飯島吉晴がその意味、昔話や儀礼におけるその位置づけ、禁忌や俗信、厠神の伝承などを考察しているが、それらを分析すると、厠は異界へ参入する入り口、変身の場、此の世と異界との境というイメージが伴っているとされている(『竈神と厠神−異界と此の世の境−』講談社学術文庫)。 |
この厠に関する民俗からすると、『今昔物語集』の長増が厠を通じて四国に渡るという行動は、四国が異界であることを象徴していることになるのではないだろうか。四国が仏法の普及していない「仏法ノ少カラム所」、「辺土」であるという『今昔物語集』の記述だけでなく長増の行為からも、当時の畿内(中央)の人々の四国に対する認識の様相を垣間見ることができる。 |