平成19年7月(425回)例会 報告
 講 師 石野 弥栄 氏 (湯築城資料館長)
 講 話  中世の伊予河野氏と三嶋社(大山祇神社)について
講話 「中世の伊予河野氏と三嶋社(大山祇神社)について」 要旨 
一 はじめに
 河野氏は、伊予国で発生し、中世の全期間にわたって存続した、伊予国最強の武士団として知られていますが、その武士団の形成・発展の過程を通じて、河野氏は三嶋社(大山祇神社)を氏神として精神的な支柱としました。しかし、両者の関係は、これまで具体的に明らかになっていません。河野氏と三嶋社との関係も、一様ではなく、時代によって様相を異にしますから、年代を追って検討してみましょう。
二 河野氏と三島社との関係の端緒
 中世前期(平安時代末期〜鎌倉時代)に、河野氏は三嶋社と深い関係をもち始めたのですが、その端緒は、どのようなものでしょうか。
その一つは平安時代末期から源平争乱期にかけての国庁における両者の関係です。河野氏は、源平合戦のさなかに伊予国の在庁官人として登場しますから、その頃河野氏は、伊予国の一宮として国庁で国の祭祀を挙行する三嶋社との関係が生じたと考えられます。ただし、その頃の様相は、大山祇神社に伝わる文書など確かな史料がないので、「予章記」や「予陽河野家譜」などの説話的記事のベ―ルに覆われていて全くといってよいほど実像を捉えることはできません。
河野氏が三嶋社との関係をもった端緒としては、もう一つ考えられます。それは、河野氏が三嶋荘の荘務を管理する「三嶋七嶋社務職」という権益をもっていたことです。「予章記」長福寺本に承久の乱で後鳥羽上皇方に属して鎌倉幕府軍と戦い、敗れて領地を没収されたという記事中に
 【中ニモ三島七島社務職等ハ全ク他ノ競望不可有事ナレトモ、京都ヨリ善家ノ者ヲ進止セラルゝ事、誠無念ノ次第也。善三島ト云ハ飯尾末葉也。結    句又小早河ノ者、善家ヲ追退テ存知スル事、更以無謂子細ナレトモ】
とあり、河野氏(通信)が本来保持していた「三島七島社務職」は、善三島という姓の者に与えられ、さらにそれを小早川氏が奪いとったといい、この文を記した者(挿入した文を書いた人物)は、無念であるとか、謂れがないなどという感想を述べています。おおよそ「予章記」などの後世編纂された河野氏関係の史書は、誤謬が多く、引用された箇所も注意して読まねばならないのですが、この記事は、小早川氏庶流の弥二郎徳平が善左近蔵人入道(善麻)の養子となって三島七島の一つ大崎下島を譲渡されていますから(「小早川家文書」)、大筋では事実とみてよいでしょう。その後も三嶋神領の下島をめぐって文安年間に三嶋方と小早川の諸庶家との武力衝突がみられます(同上)。なお、河野氏が失った三嶋七島社務職を与えられた善三嶋氏を源頼朝に仕えた京下りの公家衆の三善康信の子孫の飯尾氏の末裔と解する説がありますが、賛成できません。といいますのは、承久の乱後、鎌倉幕府の任命する三嶋荘地頭はいたようですが、三嶋荘の所務をつかさどる三嶋七島社務職は、伊予国の知行国主西園寺家の家政をとる家司(諸大夫)の三善氏と考えられます。といいますのは 、鎌倉時代には西園寺家が三嶋大祝職の補任権を握っており、また、西園寺氏と同祖の徳大寺家(伊予守実基)が三嶋荘の領家職であつたといいますので(臼木三島神社文書)、西園寺家の力が三嶋社(三嶋荘を含む)に及んでいます。そのように考えますと、この善三嶋(三嶋善とも記す)氏は、西園寺家譜代の家僕である三善氏(善氏)とみたほうが自然です。なお、善三嶋は善(三善)と三嶋という二つの姓が合体した姓(複姓)ですから、同家は三善家が三嶋大祝家の養子に入り創出されたものとみられ、擬制的な族的結合とみられます。
 さて、「三嶋七島」というのは、三嶋社の神領であり、「三島荘」という荘園をさします。かつて三島荘を旧伊予三島市域にみなす説がありましたが、それは誤解です。三島荘は「伊予国内宮役夫工米未済注文」(「御裳櫂川和歌集裏書」)に「三嶋御領嶋々 八十九町二反小」とあり、瀬戸内海の島々の集合体であったことが分かります。「三嶋七島」という語は、室町時代初めに見えますが、大崎下島の大條浦(現広島県豊田郡豊町)に鎮座する宇津神社の祭神は七郎大明神といい、三嶋社の本地仏大通智勝仏の第七王子です。としますと、三嶋七島という概念は、鎌倉時代に遡るでしょう。「三島宮社記」(安永五年写)には、三嶋七島中の神々を書き上げていますが、大下島(大気神社)、姫児島(血嶋神社)、岡村(岡本島か。一説には弘保島泊村比目木村神社)、御手洗島大長村(大崎下島。安芸国豊田郡。宇津神社)、津嶋(早瀬神社)、小気嶋(速津佐神社。俗に鉐明神という)とその他は大三島の三嶋社の境内かその近辺に祀られています。これら島々にあった三嶋社の末社は、三嶋荘内にあったものですが、それらはもともと三嶋社と称していたか、定かではありません。鎌 倉時代末期の正安四年(一三〇二)に三嶋社の境内に十六王子社が創建されました(「大山積神社文書」)。元応二年(一三二〇)夏に天台律宗僧光宗が伊予国へ下向して、三嶋社へ参詣したときの見聞録(「渓嵐拾葉集」所収)には、その頃十六王子社があり、浦戸に第一王子社(諸山積神社)があると記されています。大三島の三嶋社境内にある長棟の建物は、鎌倉時代の「一遍聖絵」には見えませんが、室町時代初期の古絵図に見え、それには第一王子、第十六王子社という注記がほどこされています。現在は十七神社として、第一王子社と十六王子社が接がれて十七神社と称しています。いずれにしても、十六王子社は三嶋荘という荘園の成立、展開過程で島々に祀られていた神々を組織化してまとめあげたものとみられ、信仰と経済が一体化したものでしょう。
 ともかく、河野氏は承久の乱以前に三嶋荘を管理する「三嶋七島社務職」という権益を手中にすることで、三嶋社との関係を深めたと考えられます。
三 河野氏の三嶋社支配の展開
 三嶋社の神官組織のトップである三嶋大祝は、その身が神体に擬せられ、半明神と称せられて現人神のような存在です(「三嶋大祝記録」)。三嶋大祝は、専ら祭事をとり行い、経済・軍事などの俗的な事柄は、祝という神官の地位にいた一族や、鳥生・高橋・三嶋善・庄林などの庶家が担当していたようです。
三嶋大祝を補任するのは、伊予国を実質上支配する最高権力者です。承久の乱以前は、河野氏であったと推測されますが、乱後は伊予国の知行国主の西園寺家が補任権を掌握したとみられます。といいますのは、建治二年(一二七八)八月二十七日の伊予国宣(三島家文書)で越智安俊に三島大祝職を補任したのは、奉命者の花押の形態から西園寺家の家僕三善氏とみられますから、そのころには、河野氏の三嶋社に対する権限は、失われていたのでしょう。
 河野氏が三嶋大祝職の補任権を取り戻したのは、室町時代以降です。永享九年(一四三七)七月二十八日に鳥生備中守に三嶋宮大祝職を補任した沙弥某は、戒能伊豆入道とみられます。彼は河野氏当主通久が豊後国姫ケ嶽で戦死したのち、幼主犬正丸(のちの教通)を後見した人物で、当時伊予国守護代の地位にありました。応仁の乱後の明応三年(一四九四)三月十七日に越智貞吉に三嶋社大祝職を補任したのは、出家後の教通(法名は道基)です。天正五年(一五七七)二月九日に河野氏最後の当主通直(幼名は牛福丸)が安任に大祝職を安堵しています(以上「大山積神社文書」)。このように、河野氏歴代が三嶋社大祝職の補任・安堵権を専有したのです。
 また、河野氏は三嶋社神官の間の紛争を採決する権限をもっていました。弘治四年(一五五八)二月十二日に河野通宣は、「御籠物(おこもの)」(神事用の供物か)をめぐる神(こう)大夫(だゆう)(越智氏)と三嶋大祝(安任か)との紛争に対して、曽祖父教通のころの先例に準拠して、大祝に安堵しています。ただし、同一内容の安堵を来島村上氏の通康及び原興生が三嶋大祝にしていますから、三嶋社に対する来島村上氏勢力の影響が無視できなくなってきた様子がみてとれます。二神氏宛の村上通康の書状写(久留島通利氏所蔵文書)にも「大夫役(たゆうやく)」、つまり三嶋社役について通達しており、永禄年間には来島村上吉継(甘崎城主)が三嶋社の島神主職に就任しており(大山祇神社所蔵門守神像銘)、戦国期には、三嶋社に対する実質上の支配権は、村上氏に渡ったとみてよいでしょう。
四 河野氏とその一族・被官の三嶋信仰
 河野氏の三嶋社への信仰は、具体的にはどのようなものでしょうか。まず、信仰の証として社殿の造営があります。応永三十四年(一四二七)六月に三嶋社本殿が造営されていますが、そのときは、室町幕府の三嶋社造営使節の松田若狭守が伊予国へ下向しています(「大覚寺文書」)。造営主体は河野氏ですが、幕府の援助を得て、伊予国守護の立場で竣功させたのでしょう。鎌倉時代の社殿造営も朝廷の命令により、伊予国内の領主たちに一律に費用が賦課されています。また、戦国時代には河野氏歴代は、三嶋大祝に対して祈祷を依頼し、所領・供米・太刀・馬・具足(鎧)など様々なものを寄進しています。さらに家臣の村上氏や重見氏なども祈祷を依頼しています。
 ところで、伊予国全域に三嶋社が勧請され、三嶋信仰の広がりがみられますが、まず国府所在の府中地域には、三嶋別宮(今治別宮)が勧請され、戦国時代には同宮別宮の大祝職も河野氏が補任しています。河野氏の支配圏内の中予・東予地域の一部には、各地に三嶋新宮が設けられました。例えば@新居郡西条荘内の三嶋新宮A府中の能寂寺領中の三嶋新宮B浮穴郡臼杵谷の三嶋新宮C風早郡忽那島の三嶋新宮D風早郡河野郷内の三嶋新宮(河野新宮・正岡宮)などがあります。これらは、別宮よりのちに、三嶋本社(大山祇神社)から新たに勧請されたものとみられますが、とくにDは、河野氏発祥の地に祀られたもので、もと高縄山頂にあり、のち山麓に移されたといいます(「高縄神社文書」・「水里遡回録」)。同社の神官は河野氏一族の正岡氏が勤めています。Bは天授元年(一三七五)に河野通直とみられる讃岐守が神託によって同社の祭礼の費用を寄進したり、「三島社領主次第」という三島荘の歴代領主の名を記した史料を所蔵したりしています。
 河野氏の支配圏外の南予地域にも三島社は多く勧請されています。その理由は、明確ではありませんが、やはりこの地域を代表する領主である喜多郡の宇都宮氏や宇和郡の西園寺氏などが、河野氏との友好関係を保っていた時代に、積極的に三島社を勧請したからでしょう。宇都宮氏が宇都宮神社を、西園寺氏が春日社を祀るのは当然ですが、数的にはとるにたりません。むしろ三島社のほうが圧倒的に多いのです。宇和郡を例にとれば、三島社のある地の領主は、河野氏の出という三間郷の中野殿河野氏郷の北ノ川氏、越智姓の津島氏、黒土郷の河野や、周知氏被官西ノ川氏などなんらかの河野氏との関係をもっています。その他、宇和海の法華津浦の領主法華津氏は、法華津湾内に三島社を勧請し、法華津城中で大般若経を書写して三島社(大山祇神社)へ奉納しています(「東円坊大般若経奥書」)。こういう海辺領主たちが、三島信仰をもち、三島社を進んで祀ったとみてよいでしょう。
五 おわりに
 中世伊予国を代表する領主の河野氏とその氏神の三嶋社(大山祇神社)との関係を概略的にたどってみましたが、中世の三嶋社と三嶋信仰の実態は、このテ―マで括れるものではなく、複雑な様相を呈していたとみられます。今後、この課題に取り組んでみたいと思います。