平成19年5月(423回)例会 報告
 講 師 今村 威 氏 (一遍会 理事)
 講 話 松山人 安倍能成
 その他  平成19年度 一遍会 総会
講話 「松山人 安倍能成」 要旨 
 安倍能成は、明治一六・一八八三年、松山市小唐人町(現在の大街道二丁目)に、町医者の父義任の八男として生まれた。松山中学校に入学、新聞配達をするなどして苦学し、卒業後、野中久徴校長の好意により、学費を調えるために一年間母校の代用教員を務めた。一高、東大と進んで哲学者、教育者さらに、戦後の混乱期に文部大臣となり、最後は、木から落ちた猿同然(親友十河信二の言)になっていた学習院を、院長となつて立て直し、晩節を全うした。
 昭和二六年子親五十年祭の記念講演で、垂幕に「阿部能成」 と書かれていたのを捉えて、「本日は、私を軽蔑して、名前を間違えて書くような諸君に対して話すのは、実は嫌なんでありますが・・」といっている。実際は、大好きな子規の話を故郷で出来るというので、上機嫌であつたのである。親しい者に対して、本心と全く逆の事をいってからかうことを、松山方言で「イラバカス」というのであるが、能成は終生この老松山人の癖が抜けなかつた。山下一郎著『安倍能成先生』にも、能成が、幾度かこの癖を、理解できない東京の人たちにも発揮して、相手を悲しませたり、憤慨させたりしたことが書かれている。司馬遼太郎は自著『坂の上の雲』第五巻の「あとがき」に、三人の主人公が、時として同一人物のように思える感動を述べている。その底抜けの明るさ、正直さ、自分に与えられた仕事には、自分を勘定にいれずに打ち込むといったタイプの人間には、いい意味での「こわいもの知らず」なところがあつて、能成は終生、この松山人の気性が抜けなかつたようである。
 京城帝国大学(戦前今の韓国ソウルにあつた)教授時代に、官憲や軍部が、朝鮮民族の伝統や文化を無視して、日本化しようとするのに反対して、正論を吐くので煙たがられ、日本に呼び戻されて一高の校長になつたが、ここでも、軍部の圧力から教育を守るのに腐心したことは有名である。能成は、松山中学時代演説部に属し、五年生の時、「吾人何ぞ大にして而も小なる」 と題する演説をしている。「われわれは、国家の未来を担うという偉大な責任を負っているのに、現在のわれわれを見るといかにも貧弱である。将来の重責を果たすために大いに努力しようではないか」 という趣旨のもので、たいへん好評であつた。ところがこの演説が、四六年後、現実のものとなつた。敗戦国の文部大臣として、昭和二一年三月、戦勝国アメリカの教育使節団を迎えることとなつたのである。その歓迎の挨拶の中で、能成は、憂国の真情をもって、しかし堂々と、「民主主義が個性の尊重と人間の平等とを両立せしめんとする如く、一国の文化や教育が国際性と同時に国民性を尊重しなければならぬことは、明白なことであります。(中略)国民の中に生きている伝統の特異性 は尊重せられねばなりません。この意味に於いてアメリカが、アメリカ的見地を以て簡単に日本に臨むことのないように願います。」と述べた。ストツダード団長自ら、能成のところに歩み寄り、賛意の握手をした。日本は西ドイツに比べて、教育に対するアメリカの介入が遥かに少なかつた。そればかりか、この正直第一の能成の態度は、GHQ(日本を占領していた連合国最高司令部)の絶大な信頼を得る。
 昭和二一年八月、憲法改正案特別委員会委員長に就任、「主権在民」「戦争放棄」をうたつた新しい憲法は、アメリカ合衆国憲法よりも民主的であると、アメリカ人が羨むほどであつた。また、昭和二一年九月には教育刷新委員会委員長に就任、教育基本法の制定に努力した。六・三・三制一本に能成がこだわつたのは、学歴偏重が、国を腐敗させた過去の日本を、反省したからだという。名利の獲得に夢中になつて、我が子の個性や意志など考えようともしない風潮が、教育を混乱させて・いる現状を、能成は、どんな思いで見ることであろう。
 昭和二一年八月には、国語調査会会長に就任、「現代かなづかい」制定に晋慮」した。日本語のローマ字化を意図するGHQを説得するために必要であつたが、作家や言語学者たちの猛反対に遇い 「もし後日問題が生じれば、私が全責任を負う」といって押し切った。幸いなことに現代かなづかいは、今も活用されている。
 昭和四一年五月、死の床にあつた能成のもとに、故郷松山から 「子規生誕百年を記念してd『子規全集』を発刊したいので、岩波書店へ交渉して欲しい」との依頼があつた。当時の出版界の状況では、岩波書店も躊躇せざるを得なかつた。これについて、子規顕彰に努められた和田茂樹先生は次のように述べておられる。「(能成)先生が出版企画不可能と察せられ、むしろ子規を知らしめるにしくはなしと、柳原極堂の著書『友人子規』と、日本派普及の緒となつた、松山での松風会句稿を重視し、これが出版をすすめられたのであつた。松山人を記念する上で、子規とその周辺の動きを知るには、最も意義のあるものである。(中略)瀕死の病床にありながら、なお子規を想い故郷を、後進を懐い続けられた安倍先生。こうして、郷土に埋もったままの先人の労作発掘をすすめて下さったことを思うにつけ、長逝十九日前の先生のお心が、ひとしお偲ばれてくる。」
 安倍能成、六月七日死去。墓は北鎌倉の東慶寺にある。