平成19年4月(422回)例会 報告
 講 師  黒田 仁朗 氏 (エディター&フリーライター)
 講 話  伊予の山岳信仰(一遍の足跡と山岳信仰)
講話 「一遍の足跡と山岳信仰」 要旨
 一遍を育んだ伊予は、海に向かって開けた土地ですが、一方では四国山地に向かって開けていた土地でもありました。精神的シンボルとして海には一遍にとっては氏神でもある大三島の大山祗神社、山には霊峰石鎚山があります。この二つの霊地が伊予一国に止まらず、瀬戸内文化を考察していく上で、両輪となっているように思います。
(1)一遍と山岳信仰
河野水軍頭領家の一族として伊予国道後に誕生した一遍は、仏徒であると同時に修験者としての側面も持っているように思います。窪寺跡と推測される松山市久谷地区(窪野町北谷)は祠、寺院跡、神社などの宗教遺跡が密集していますが、谷の最も奥まったところに禊ぎ場、岩室があり、蔵王権現が祀ってあったといわれています。蔵王権現とは、修験道のご神仏。同地区にある四国霊場第四七番札所八坂寺は熊野権現を祀る修験道の拠点でもありました。
 一遍はこの地で三年間修行して根本原理を確立し、竹林のように奇岩奇石がそびえ立つ第四五番札所岩屋寺の岩室にこもって魂を浄化した後、「南無阿弥陀仏を唱えれば、極楽浄土へ行ける」という教えや念仏踊りを全国に広めていくわけですが、岩屋寺奥の院の奇岩頂上からの景色というのは、驚くような絶景です。うっそうとした深い森の中から天に向かって突き出した奇岩に登り、約一畳ほどの頂上にたどり着くと、正面にはビシッと石鎚連峰が見えるのです。岩屋寺は青年時代の空海も修行したと伝わる修験道の行場。石鎚山は今から約一三〇〇年前に役小角によって開かれた修験道の聖地にほかありません。
(2)石鎚連峰は独立した文化圏
 石鎚連峰周辺は昭和四〇年代初頭まで焼き畑が広がり、麦やアワ、ヒエ、ソバ、陸稲、トウキビ、芋などの雑穀を主食とする生活文化が息づいていました。雑穀を主食とした焼き畑は稲作農耕よりも古く、また平野や里山などの稲作農耕地帯とは異なった風習や生活形態、精神文化がありました。一帯は木材のほか紙の原料となるミツマタやコウゾの栽培、薪や炭、茶、生糸など換金性の高い商品を生産し、貨幣経済が早くから発達していましたから、都市からやってくる商人たちも多く、都市情報も入手しやすい環境にあったと考えられます。独特の精神文化と焼き畑によるほぼ自給自足の生活、経済と情報力を資源に、石鎚連峰周辺の山間地には、時の体制からそれ以上影響を受けない「もう一つの生活文化圏」が、保たれました。
(3)海の民と山の民、野の民の交流
 石鎚山では七月一日から一〇日まで「お山開き」という大きな祭りがあります。これは石鎚神社本社(西条市西田)に安置される三体のご神像が、中宮成就社を経由して頂上に上がり、一〇日間過ごすという神事。普段は里でお働きになっている神様が山へ里帰りして、再び元気を回復するという意味なのでしょう。江戸時代の初め頃には、その御利益に預かろうと参拝者が山にあふれたことから「お山市」と呼ばれるほど賑わったといいます。
 古来、お山開きには瀬戸内海の島々や沿岸からもたくさんの団体が参拝に訪れます。団体は講と呼ばれ、おおむね組や地区で編成されています。昭和四十三年に石鎚登山ロープウェイができて便利になるまで、石鎚山中には、そういった団体の宿泊所となる集落がいくつかありました。その代表的な集落に西条市の今宮地区と旧小松町の黒川地区があります。両地区の民家はお山開きの一〇日間だけ民宿となり、親族をあげて参拝者たちをもてなしましたが、宿泊する宿は例年決まっているばかりか、何世代にもわたって引き継がれていたこともあり、客人と宿人は親戚のようなつきあいをしていたといいます。
 もちろん、平野や里からも講によって組織された団体はたくさんやってきました。山の人が平野や島の人たちを迎え、もてなすお山開きは、生活文化を異にする山の人と海の人、野の人が混じり合い、絆をつくっていく年に一度の大交流会でもあったのです。日本人が自由自在に生活圏を飛び出して活発に動き始めたのは、戦後のこと。今日のような様相は、自動車社会に突入した昭和四〇  年代以降なのかも知れません。それ以前は、里や津といった小さな生活圏の中で一人の人間の生涯は、完結しがちだったわけで、それでは農業も漁業も商業も発展しません。人々が生活圏を越えて混じり合うこの祭りは、西日本の経済活動にとって、かけがえのないカンフル剤となったことでしょう。お山開きによって神様だけでなく、人も地域も社会も元気を回復していた、というわけなのです。
(4)石鎚山中に残る古道
 石鎚山中には現在もうっそうとした森に埋もれながら、頂上を目指して人々が通った道が残っています。「熊野古道」がブームのようですが、同じく修験道の聖地である石鎚山にも立派な古道があるのです。古道は、まるで森の中のハイウェーといった様相で、見事な石畳や石垣の道が延々と伸び、沿線にはお地蔵さんや禊ぎ場、修行場が息づいています。石鎚は山全体が行場ですから、道そのものが宗教対象として尊ばれたのでしょう。
 この道を一〇〇〇年以上にわたって修験者が渡ってきました。江戸時代になると中国や九州、四国各地から一般の生活者たちがぞくぞくと参拝に訪れたことから、古道は幾筋も発展し、幕末になると小松藩主まで張り切って登ってくるほどでした。猛烈に一般化していく中で、本来の修験の道は、いつの間にか忘れられたといいますが、石鎚神社では昭和四〇年頃から実踏調査し、石鎚山旧跡三十六王子社を再興。例年秋には一〇〇人近くの参拝者を募り、古式ゆかしい登拝を実施しています。
 古道のうち西条市河口と成就を結ぶ今宮道は保存状況が比較的良いことから、近年は森林浴を兼ねたトレッキングやマウンテンバイクで走行する若者たちも増えているとのこと。再び新たな価値感で見直されるきっかけとなれば、幸いです。