平成19年3月度例会講話要旨
 講 師  田 中 弘 道
 講 話  湯築城下町、湯之町と寺井内川水系
講話 湯築城下町、湯之町と寺井内川水系 要旨
 論者は一昨年、寺井内川水系が「都市用水」であることを説明した。今回その後の知見を含め論点を整理し、その「水系」が湯之町の成立に深く関わっていることを立証したい。
T 五百年前の湯築城・道後周辺の地形
当時、石手川は湯築城の南、数百m先を流れ、勝山城の南へと流れていた。湯築周囲は典型的な沖積扇状地であり、近くを流れる樋又川、戒能川(後述)なども狭小な水源域しか持たず、水に乏しい土地柄であった。
石手川・左岸の桑原・樽味付近は、まとまった広さの更新世台地が広がる。一方、右岸では「二十万分の一・地質図」には記載されていないが、上市・義安寺前付近にごく小規模な台地が認められる(後述)。
周辺には、伊狭庭の丘陵地や湯築城丘陵、冠山などの扇状地に囲まれた「小さな残丘」が存在する。その丘の山麓はごく小規模である。「湯築城丘陵」は「小さな・手ごろな大きさの・岩山」であり、戦国時代初期に山腹を一周する「(内)堀」ができた。さらに十六世紀前期には、小さな山麓の外辺と扇状地の境界に沿って「外堀」が造られた。丘陵の東側は上市台地に沿って外堀を築いた。北側の外堀は大正期に失われた。ここには扇状地は存在せず、冠山南山麓と湯築丘陵北山麓が直接に接している。その中間の「谷間」のような地形(湯築谷)に外堀は築かれた。
これらの水利工事の経験の蓄積が十六世紀中頃に「寺井内川水系」(後述)の大工事を可能にしたのである。
江戸時代に造られた「伊予湯築古城之図」には「切抜門」の前に「松の生い茂る小山と松並木のある川」が鮮やかに描かれている。現・ふなや旅館庭園の東隅「ふなや別館」の立地するところがその「小山」である。その地質は風化の進んだ花崗岩質であり、小規模であるが、湯築丘陵、冠山と連なる残丘である。
U 湯築の微高地・原放生池・戒能川
明治以降、地形の改造が進み、往時の様子を知ることが急速に困難になりつつある。
 明治期の地形図からは、道後周辺の石手川扇状地に二本の古い川の跡が認められる。現・樋又川と湯築丘陵南を流れていた「戒能川」である。これらの川は、石手川流路が城北経由から城南経由に変わった縄文時代後期から存在していたと考える。道後地区の狭小な水源域から流れ出た小さな川が長い年月を掛けて扇状地を侵食した結果残された地形である。
柿の木谷地区から現・岩崎町方面に流れる「往時の川筋」の存在が認められる。今はその痕跡が僅かに確認できるだけである。戒能川と言おう。後年、寺井内川(後述)が造られた段階で、柿ノ木谷からの流れは寺井内川に吸収されて、消えた川である。
寺井堰から石手寺へと流れてきた寺井内川は、義安寺前付近で深い堀切を流れる。
「堀切」という構造は、その付近の地形がその川の上流・石手寺付近より標高の高いことを明確に示すとともに、その川が人工物であることを如実に示す。石手川右岸・義安寺前付近は石手川左岸の桑原・樽味付近の台地に比し、はるかに小さいが「洪積世・上市台地」が存在するのである。「内代廃寺」もこの台地に存在したのである。
 「にぎたつ会館」付近から南、義安寺西参拝口前方面へ伸びる尾根が認められる。(今は道路で完全に切断)。この尾根筋は、戒能川、寺井内川の流路を規制している。寺井内川が義安寺前付近で流路を変えているには尾根の中央部に堀切を造ることを避けたことに他ならない。さらに尾根の末端は「外堀の東北端」に接している。堀を尾根筋の裾に沿って造営したため堀が東北端で大きく変形している。
 以上の観察結果を次の図に示す。
丘陵の南、西に広がる山麓、にぎたづの尾根、上市台地、戒能川、今市川、樋又川。放生池を描く。「湯築谷」はにぎたづの尾根の西斜面を源流とし、放生池低地へと続く谷間であり、放生池からの逸流水が今市川に流れる。放生池付近は行き止まりであり、石手川の土石流が流れ込まず、扇状地の成長から取り残された自然の低地である。
V 岩堰、御手洗橋間の(上市川を含む)寺井内川水系を観察する
下の図は江戸時代中期の道後村絵図であり、その水系は現在と同じである。この水系を寺井内川水系という
十六世紀前半の水系として右に示した結論とは全く異なる。すなわち道後の風景は江戸中期以前に人為的に大きく改変されたのである。基本的な差異は、「寺井内川水系」が作られ、戒能川が消滅したことである。この新しい「水系」は人工の所産である。
@ 寺井堰から石手寺に掛けての和泉砂岩層を掘って造られた水路、、
A 義安寺前付近の堀切、
B 戒能谷・鴉谷・湯月谷を結んで流れる御手洗川、
C 放生池から完全に切り離された御手洗川、今市川、
D寺井内川の支流・上市台地の南から湯築丘陵の西・市陰軒方面への流れも標高線に沿って流れる溝・・
などを見ればこれらが人工の所産であることはあきらかである。
追記・
「石手寺往古図」から足立重信以前の「岩堰」を描く場面が見つかった。・・
岩堰から遍路橋方面への流れの基本形は現在と同じであることが注目される。足立重信が行ったのは、流路を変えたのではなく、河底の岩盤を深く掘り、左右に川幅を少し広げ流れの断面を広げたのである。足立重信以前は、付近は絶えず洪水(溢流水)に襲われたと思われる。この付近は岩盤が非常に浅く、扇状地ではない。溢流水が引けばこの絵図の状態に戻ってしまうのである。絵図に描かれている「堰から石手寺への水路」は岩盤を掘って造った全くの人為的な水路である。現在、現地にある水路は幕末にその断面を広げた結果である。往時はもっと狭かったはずである。
W 水系は何時、何の目的で作られたか
@ 湯築周辺は藩政期以降では「湯之町や道後村の田園」であるが、河野時代には「湯築城城下町」や、宣教師らも立ち寄って賑わった「道後の市」があったのである。本来この一帯は狭小な水源域しか持たず、水に乏しい土地柄であった。寺井内川水系が出来て初めて大勢の人の集住が可能になったのである。
A 河野氏には台地やその周辺の扇状地に水利工事を行うについての十分な技術・経験の蓄積があった。
B 藩政期に作られた痕跡が全くない。
C 逆に、河野時代の風景を描いた・・と称する藩政期の絵図がある。「伊予湯築古城之図」、「石手寺往古図」である。両者とも湯築城資料館で見ることが出来る。
D 道後を流れる寺井内川水系に関しては何ら伝承もないが、石手川左岸の田園地帯には河野氏の作ったという伝承を伝える「二本の農業用水」がある。これら、三本の水路は立地条件、規模、技術などからして兄弟のような水路である。
以上の諸点から論者は「永禄、天正年間」に作られたものであり、右岸・道後地区には「都市用水」が造られたと推定する。
 寺井内川水系、草葉川、市之井手水路は和泉層群の岩盤を穿ち、段丘堆積物からなる山腹を流れ、洪積台地に通水するという意味で類似した構造を有し又、市之井手水路の末端、「三町の分水」と寺井内川の下流・樋又における「大川と宮前川への分水」の構造が類似している点も注目される。全国的に見ても早期の洪積台地灌漑の事例であるこれらの大規模な用水工事を実施するには測量、水漏対策、岩盤の掘削、巨大な堀切造営などに関わる技術、調整能力(権力)、経済力等が必要である。河野の求心力が弱まった時代ではあるが、河野家が主催して土木を通じた分国支配の強化を行っていたと推測する。その工事の完成度は高い。
X 僅かに残った「道後の市」、湯之町
前記の道後村絵図で目立つことは、
@ 湯之町は寺井内川に寄り添うように描かれている、
A 上市、湯月町と比べ湯之町の家屋は非常に小さく、画一的に密集して描かれている、
B 湯之町と道後村の境は不自然な道路の切断、家並の断絶が目立ち、人為的に為された境であることを示す。しかもこれらの特質は江戸時代末期まで変わらないのである。
これらの諸点は、今日の鷺谷町、湯月町、上市市は自然発生的にできた集落であるに対し、湯之町はある時期、短期間に成立したこと、その後、ある時期に湯之町と道後村とが強制的に区画され、その区画の規制や開発の規制が明治まで続いたことを示す。
河野氏の滅亡、松山城下町の建設に伴い、「湯築城下町」、「道後の市」は消えうせた。「道後・湯之町」は僅かに残った「道後の市」の一部であると考える。
Y 寺井内川伝承の断絶
工事完成後、河野氏およびその家臣団、後を継いだ加藤、蒲生両家が相次いで消えた。それにも増して伝承を伝える意味で致命的であったのは、寺井内川で直接に恩恵を受けた「道後の市」の住人が勝山城城下町へ移住により消えたことである。