12月度第418回例会
講師 菊池 佐紀
斎藤茂吉と永井ふさ子の愛 〜四国なるをとめ恋しも〜
 アララギ派の名だたる歌人で精神科医としても功績を残した斎藤茂吉は、明治十五年五月十四日、山形県南村山郡金瓶村の農民、守谷熊次郎の三男として生れている。霊山として知られた蔵王山の山裾ののびたところに生家はあった。小学校時代から神童と呼ばれた

ほど、ひときわ抜きん出た頭脳の持ち主だったが、中学校進学の希みは叶わなかった。守谷家にそんな資力はなかったからである。

 近くの時宗・宝泉寺の和尚がその素質を惜しみ、寺を継いでくれるなら学費を出そうと言ってくれた。迷っていたところ、思わぬ幸運が茂吉を見舞う。同郷出身で、そのころ東京で医院を開いて繁盛していた斎藤紀一がその話を聞き、見込みのある子だったら大学ま

で学費を出し、末は養子にしてもいいと手を差し伸べてくれたのである。

 十四歳の茂吉が上京の途についたのは、日清戦争勝利の翌年であった。茂吉は斎藤家に住み込み、名門開成中学に入学、勉学に励む。

第一高等学校時代、正岡子規の歌集「竹の里歌」を読み、触発されて短歌を志すようになる。

○ある宵に竹の里歌よみしときおもほえずわれは声をあげたり

現実を見据えて実生活の中から歌を作る子規の分かりやすい歌に共鳴したのだった。

 明治三十三年、斎藤紀一は欧州へ旅立つ。先進国の精神医学を実際に学んで、日本にも精神病院を作ろうと一念発起したからだが、その頃の日本の医学、特に精神科の医療は立ち遅れていて、精神病患者に施す術のない有様だった。紀一は帰国後、青山に三千坪の土

地を借り、ローマ式建築の脳病院を設立、評判をとる。

 東大医科へ入学した茂吉は勉学の傍ら伊藤左千夫に師事し、作歌の道に励む。が、三年後、左千夫主宰の「馬酔木」は終刊、「阿羅々木」が創刊され、以来日本歌壇の主流となった。二号より茂吉は五十首を投稿している。

 茂吉は生涯に十八冊の歌集を出し、一七九〇七首の歌を残した。万葉調の重厚な歌調で独特の持ち味を作り出し、「赤光」は特に名高い。

 母のいくが重病に倒れたとき、茂吉はいち早くかけつけ、母を看取る。五十九歳で世を去った母親へ寄せる彼の想いは深く、「死に給う母」五十九首は不朽の名作として世評が高い。

○死に給う母に添い寝のしんしんと遠田の蛙天にきこゆる

○のど赤きつばくらめ二つ梁にいてたらちねの母は死に給うなり



 茂吉は東大医科助手、巣鴨病院などに勤め、紀一に見込まれて、斎藤家の次女輝子と結婚する。が、この結婚は不幸な過程を辿ることになる。粘り強く一徹な気性の茂吉と派手好きで大ざっぱな神経の持ち主輝子は、水と油の如く相性が悪かった。輝子は目に余るほどの浪費を続けた上、スキャンダルを引き起こす。歌人吉井勇夫人と一緒にダンスホールに通い続け、若いダンス教師と不倫、それがスクープされ、「上流社会の腐敗」として新聞記事となる。茂吉は悩んだ末に妻と別居する。この別居は以後十二年間続くことになるのである。

 青山脳病院は大正十三年十二月の暮に失火のため全焼、養父紀一は死物狂いで病院再建に奔走、過労のため六十八才で死去し、茂吉が新しい病院長を継いでいた。

 妻の背信に打ちのめされた孤独な茂吉に、やがて美しい女性との宿命的な邂逅が待っていた。昭和9年9月19日、東京の向島百花園で開かれたアララギ句会で、永井ふさ子と出会う。茂吉は五十二歳になっていた。

 県立松山高女を卒業後、上京して姉の家に寄宿していたふさ子は二十四歳、アララギに入会し、短歌の修行に励んでいた。開業医の父政忠が子規と幼友達だったことを知り、茂吉はこの初々しいおとめに深い関心を抱く。正岡家と永井家は祖父母が姉弟の間柄に当たり、ふさ子と子規はふたいとこということになる。彼女と出会えたのを、子規の霊が取り持ったのだとまで茂吉は思い込む。

 その後、奥秩父への吟行にふさ子が同行してから、二人の親密度は増す。目の前に突然現れた美しい娘に歌人は心を奪われて行った。

 師弟の関係から男女の仲に変るにはさほど時間はかからなかった。ふさ子に茂吉が送った書簡は百五十通にのぼり、その都度、恋歌が添えられてあった。読み終わった後は必ず焼却するように求められ、ふさ子はそれを誓った。

○四国なるをとめ恋しもぬば玉の夢にもわれにえみかたまけて

○こいしさのはげしき夜半は天雲をい飛びわたりて口吸わましを

○白玉のにほふをとめをあまのはらいくへのおくにおくぞかなしき

 しかし、ふさ子が焼いたのは僅かで、百三十通余りは持ち続けた。絶対秘密のもとで苦しい恋の逢瀬は続いた。妻と別れてふさ子と一緒になる気持ちは茂吉には無かった。そのころ、「アララギ」は誇り高い精神至上主義を打ち出し、他の歌誌とは一線を画していたので、同人同士の恋愛はご法度だった。もし、事が露見すれば茂吉はアララギを捨てなければならない。営々として築いてきた青山脳病院長の肩書きを一人の女のために反古にするほど茂吉はやわな男ではなかった。結婚を期待するふさ子に彼は応えようとはしなかったのである。

 苦境に立つ師の胸中を慮って、ふさ子は到底叶えられない恋を清算しようと決意、松山の両親のすすめる縁談に合意する。祝いの色紙を手に、茂吉が伊予の地に足を踏み入れたのは昭和十二年五月十八日のことであった。

○ 春の光わかばのまにま照るときをさきはひの道の上に立ちます

 何も知らない両親の歓待を受けた茂吉は、三日間松山に滞在し、女との別れの日々を過した。また、念願の正宗寺を訪ね、子規埋髪塔に詣り、心ゆくまで子規を偲んだ。この三日間が別れを覚悟した二人の最後の至福の時間であったことだろう。しかし、ふさ子はそのあと、どうしても茂吉が忘れきれず、交わした結納を自ら破約、真相を知った父政忠を怒らせ、そのため父の死を早める結果になってしまった。ふさ子は心労のため肋膜炎を患い、身辺に不幸が続く。彼女は尚も茂吉を想い続けた。

 戦争が激化し、上京する望みは叶わなかった。茂吉は独りで生まれ故郷の金瓶へ疎開し、ふさ子も伊東へ疎開する。二人の縁は切れてしまった。が、茂吉は不死鳥だった。戦後、彼はいち早く東京に戻り、目覚しく文学活動を開始、輝子も帰ってきて共に恵まれた老後を送るようになる。学士院賞、読売文学賞、文化勲章に輝き、歌聖とまで賞賛される。ふさ子はそれを新聞紙上で知るだけだった。

 花の蜜を堪能するほど吸い、わが身を肥やす蜂のように、茂吉には女に対する罪悪感はみられない。自分の不遇なときを穴埋めしてくれた一人の女としか考えなかったのか。茂吉からはもうハガキ一枚届くことはなかった。

○きれぎれにあかときがたの夢に見し君がくちひげのあわれ白しも

 茂吉は昭和二十八年、七十二歳で死去。墓は東京の青山、金瓶、大石田の三箇所にあり表面に「茂吉の墓」の自筆の四文字が刻み込まれただけの簡素なものだという。

 「先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました」と彼女は語っている。茂吉の一周忌の前に、ふさ子はアララギ門下の佐藤佐太郎を訪ね、茂吉の手紙百二十二通を世に公表したい旨、相談したとき、佐太郎は狼狽を隠し切れなかった。あと、十年待ってほしいと懇願されてふさ子は肩を落として帰って行った。茂吉の十周忌にすべての恋文が「小説中央公論」に公表され、歌壇は騒然となる。非難の声がふさ子に集中した。

 ふさ子は終世、独り身を通す。「茂吉ほどの人に愛された以上、他の人の愛を受け入れることはできない」彼女はその信念を貫いたのである。平成五年、八十三歳で亡くなっている。

 松山市御幸の長建寺にふさ子の一人墓がある。永井家累代の墓に入らず、間を置いた場所に小さな墓はひっそりと佇む。亡父を偲ぶ歌「ありし日の如くにあんず花咲けりみ魂帰らむこの春の雨」の文字が背面に刻み込まれている。父の寿命を縮めたのは自分だ、という呵責が終生、ふさ子から消えなかった。

 ふさ子さんはなぜ茂吉の書簡を公表したのだろう。愛の裏返しの憎悪なのか。いや、そうではあるまい。彼女は永遠に茂吉の分身で有り続けたかった。自分の命じることは何でもよく聞く、一途で素直な女が固い約束を破って、二人の秘めごとを衆目に晒すなどと茂吉は夢にも考えはしなかっただろう。 

 歌聖斎藤茂吉と女弟子永井ふさ子の愛はこうして永遠に有形化された。手紙が公開されたことで、茂吉は女への贖罪を果した、と言えないだろうか。  了