9月度第415回例会
講師 田中 弘道
講演記録】 不思議・不思議の世界 ・・湯築城
   山を切開く・・予陽郡郷俚諺集 
・・・柿ノ木谷の辺より古城の辺迄昔は山続也、是をすへて伊佐爾波の岡と云へり、河野殿城を築るゝ時、山を切開き堀をほりける故、今別のように見ゆる也、 ・・・
河野氏が1500年頃に山城の周囲に「堀(内堀)」を築いたときの話であろう。堀を造ったところは、「冠山、伊佐爾波の丘」と「湯築の丘」にはさまれた長さ200m、幅50m程度の地峡帯にあります。ここには沖積層の堆積時、自然堤防と同様のメカニズムにより、数mの高さの微高地が形成されていたでしょう。その微高地を切開き堀を造ったのである。堀が造られたあと、この「微高地」の跡を検出することは困難である。
   内堀のなぞ
発掘調査から内堀は外堀(一五三五年)以前に造られた古い構造物であることが確認されている。専門家は千五百年前後と推定している。内堀構築以前の湯築城は、花崗岩質の高縄山塊の残丘にある。沖積層に立地するとはいえ、「急峻な山肌」を防衛ラインとする山城である。堀をを持った湯築城のごとく、「水面/急峻な山肌」の組み合わせの事例は、特殊な立地条件でのみ可能であり、普通の「山城」には見られない。通常、山城はその立地からして一部の防衛ラインを谷川に求めることは可能であっても、全面に水面を構築することは不可能である。この「水面」との組み合わせに関する発想は近世の城郭に見られる「水面/急峻な石垣」へと発展する可能性を秘めた合理的な発想である。
私はこの「堀を造る」発想の原点は瀬戸内沿岸に見かける「沖積層立地の海城」にあると考える。具体的には、総領家の宿敵・通春の居城、「湊山城(松山市三津)」(比高50m)である。「海」と「沖積低地」に囲まれた「安山岩の山城」である。「低地に造られた堀切」には海水が侵入し、予州家、総領家の戦いの中でこの城の防衛力の強さは注目されたと思われる。
応仁の大乱後、半世紀にわたって続いた総領家、予州家の争いは決着し、総領家は勝利宣言をするかのように、石手寺大修理、湯築城内堀掘削に着手したのではなかろうか。「堀」という合理的な構造物を造った反面、防御機能を期待できない「対岸土塁」が造られているのが面白い。「堀」という戦略的構造物もまだ発展の途中だったのである。
   「初期の平山城」の創造  
戦国時代は「巨大山城」の時代である。「築城」は膨大なエネルギーを要する。政治的、経済的、軍事的にも十分合理的な検討を行った結果、河野氏が選んだのは外堀を造ることであった。その選択の裏づけとなるのが、「一世代(または二世代)前の内堀の成功体験、技術的な自信」と「経済的、文化的な(=政治的な)道後地区の重要性」であろう。
外堀は傾斜のある「石手川扇状地」に作られた。当時の築造技術では地形の影響を克服することは困難であった。外堀の水位は、東西で1m以上の水位差があり、それを土橋、水門で調節している。土橋、水門などは「防衛」上の弱点である。
城の東北、義安寺全面に広がる「伊佐爾波の段丘」を避けその外縁に沿って沖積層の部分を掘削して「外堀」を造った。結果として「外堀」は妙に歪んだ形を呈している。
    「寺井内川」の不思議
岩堰の上流から分水が行われている三本の川「草葉川、寺井内川、市乃井出水路」がある。「岩盤」を穿ち、「山腹」を走る非常に類似した様相を呈している。これらは最晩年の河野氏による「耕地拡大・城下町整備を目指した三大土木工事」である。
石手川左岸を流れる「草葉川」、「市乃井出水路」はその「築造にかかわる伝承」が伝わる。「寺井内川」については、「義安寺前の伊佐爾波の段丘」を堀切を造って横断している様子からしても、人手により造られた水路であることは確実であるにもかかわらず、江戸末期の水路改修の記録があるだけで、「開発の伝承」が無い
 「寺井内川」構築時期の推定 
 永禄年間末 〜 天正年間初めか・・・ 
@草葉川伝承、永禄年間(〜1569年)に造る
A市乃井出水路伝承、天正七年(1579年)完成
B三者の工事規模、技術的難易は、溝辺、畑寺、桑原地区の広大な台地を、岩盤を穿ち、谷を横切り、山すそを巡り、4kmに及ぶ長い水路を流れる「市乃井出水路」工事が突出しており、「寺井内川」がそれに次ぐ。
C戦国時代の絵図と言われる「本多古地図」には「草葉川」、「寺井内川」は描かれているが、「市乃井出水路」は示されていない。 
D1570年〜1600年頃の様子を描いたといわれる「石手寺往古図」には既に「寺井内川」が描かれている。
 以上の、伝承、技術的な難易、幾つかの絵図などからして、「寺井内川」の工事は、「永禄年間末 〜元亀、天正年間初め」頃か。
この三件の工事の指揮官は「市乃井出水路」を造った「井出若狭守」であろう。「草葉堰」における溝辺の岩盤を切り開く工事の技術、経験は、続く二件の工事に大いに役立ったと思われる。戦国時代末期、河野家の求心力も衰えた時代に入るが、「土木を通じた分国支配」の強化を試みていたのではなかろうか・・測量、水漏対策、岩盤の掘削、土手や貯水池の設置など、最晩年の河野氏の有する大規模な工事を実施する「技術力」、「企画力」、「調整能力」、「経済力」が印象的である。
   「寺井内川」は都市用水 
「寺井内川」の特異点は、「外堀を掘った沖積層より一段高い「伊佐爾波の更新世段丘」を横切るようにして造り、水位を維持していることである。高い「水位」を維持して、「道後・もみじ谷」に水を流すことが目的であったのである。
「寺井内川」と合流した「もみじ谷」の流れは「ふなや」の西のはずれで二股に分かれる。一つは西へ、他の一つは北の「道後湯之町」へ流れている。「ふなや」からまっすぐ西へ走る筋が本来の(もみじ谷、鴉谷)の流れであり、「道後湯之町」への流れは人為的な流れではなかろうか。すなわち、発展し、人口が増えつつあった道後城下町に給水すること、「道後地区都市用水」の整備が寺井内川の目的であったのではなかろうか。
  河野氏と湯築城下町の消滅とともに「寺井内川」の伝承も消滅
「草葉川、市乃井出水路の伝承」は「桑原郷土誌」にある。「桑原郷土誌」は明治期の「郷土誌」に基づき作られた。このように桑原村では江戸時代もたとえば領主が替わったとき、新たに代官が赴任したときなどに、新たに「郷土誌」を書き起こすことが繰り返されていたのである。その中で村民に恩恵を与えた「水路工事の物語」を村の歴史の重要事項として伝えてきたのである。村では井手神社を作って井手若狭守をお祭りしている。
それと対象的なのが「寺井内川」である。「寺井内川工事」完成直後、それを指導した河野氏は滅び、河野氏の後を継いだ加藤、蒲生両家も寛永年間に断絶し、多くの文書が失われた。それにも増して、致命的であったのは、「寺井内川」で直接に恩恵を受けた「道後湯築の城下町の住人」が「勝山の城下町への移住」により消えたことである。
江戸時代、「寺井内川」の下流域の住民はその恩恵を受けているわけだが、彼らはずっと上流の村から流れてくる川の水源などについてはなんら興味、関心を持たなかったのである。