9月度第415回例会
講師  森原 直子 
講演記録】 詩のあるところ 
昨年に続いて、こうしていくつかの詩をご紹介出来ます機会を作っていただき、感謝申し上げます。もっとも私は、今も変わらず詩の森の闇の中をさまよい続けているわけですが、詩が、主観的・叙情的産物であるとするなら、やはり少しでも多くの詩に触れ、感じていただきたいと願っています。今回も、作品を選択するにあたって、大変迷いました。特に、最近増えている少年が関わる事件や事故の多さについては、心を痛めます。多くの専門家達の指摘するところでは、社会全体の無関心とイメージの貧困や想像力の欠落という点が揚げられます。今回は特に「生きる」ということ、「生きる力」を喚起させてくれる言葉の力について考え、いくつかの詩を準備いたしました。
吉野弘 「I was born」 「夕焼け」
新川和江 「路上」「せりせりとおまへの茎は…」「お米を量る時は…」
岡島弘子 「排水管のくらし」「川の背骨」
島田陽子 「あらへん」「いうやんか」「へんなまち」
森原直子 「節分」「蛇」「むかしむかし」
 「I was born」  この散文詩は、吉野弘さんの最高傑作として知られた作品です。1957年刊行された第一詩集「消息」に収められたこの詩は、或る夏の宵、父と歩いていた少年が身重の女性と遭遇します。その時、英語を習い始めた少年は、人間の誕生が受身形であることを発見し、驚き、戸惑います。それは、とりもなおさず詩人の発見でもあるわけですが、詩人は、そこに留まらず「カゲロウという虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが、それなら一体 何の為に世の中に出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね」に続く父親のエピソードは、人間が繰り返す生と死の悲しみ、つまり「ほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体」、十三歳で母親を無くした詩人の悲しみに重なります。そして、生と死の原理に組み込まれた、命あるすべてのものへの優しい眼差しを感じるのである。紙面の都合でここには掲載することは叶いませんが、こんな時代だからこそ、繰り返し心に刻んでおきたい詩の一篇です。
 続いてご紹介させていただいた新川和江さんの詩も、豊かな母性、おおらかな大地を思わせるしなやかな強さを秘めた新川さんの世界の中では異色かもしれない「路上」。彼岸との境界領域、越えることの出来ない境界を、ことばは軽々と越え「おとうふを買う」という日常的な行為は、現実感があるだけに一層切なさが迫ってきます。母と娘の延々と繋がる母系の鎖。
 岡島弘子さんの詩も、やはり老いていく母への娘の優しい眼差しを感じさせる詩です。詩集「つゆ玉になる前のことについて」に収められた詩篇は、ひとすじの水を伝わる生命記憶の旅のようです。そして、これらの詩に触れるたびに立ち止まり、「お前はどこから来て、どこへ向かおうとしているのか」と、問い掛けられるようです。永遠に見つからない答えを探しつづけることが、生きていることであることを知らされます。
 ほかにも、幅広いジャンルの詩を書かれる詩人島田陽子さん。大阪万国博覧会のテーマソング「世界の国からこんにちは」の作詞者としても知られている島田さんの詩集「続大阪ことばあそびうた」から、大阪弁の詩を、つたない大阪弁の朗読でご披露させていただきましたことは、お詫び申し上げなければなりません。が、こうした多彩な詩人たちの詩を、皆様とともに読める幸いを思います。
 この紙面で一篇だけご紹介させていただくのは大変難しいことですが、新川さんの「路上」を掲載させていただき、簡単なご報告に変えさせていただきます。
    路上   新川和江
おとうふを買いに行って
はからずも 母に会った
おとうふを買いに行かなければ 
会えないおかあさんだった
陽がやや傾きかけた時刻
容れものを持って
西のおとうふ屋へ
おとうふを買いに行かなければ
   わたしも 会いたいわ
この頃すこし老けた妹が
しおらしいことをいうので
ある午後誘って
おとうふを買いに行く
水を張ったボールに
一丁ずつ入れて貰い
西陽を背にうけ 帰ってくる
路上に 母がいる
アルマイトのボールを抱え
おとうふを買いに行った日の母が
そろりそろり 歩いている
   ほんとうだ 
   まあ おかあさん
それに今日は 二人も並んで
母が歩いている