平成18年8月度例会講話要旨 (2006.8.12.)
 講 師  一遍会理事 杉 野 祥 一
 講 話  『法句経』(ダンマパダ)の教え
講話 『法句経』(ダンマパダ)の教え 要旨
はじめに
今日は、私の原始仏教シリーズ第四回として、『法句経』を取り上げ、その中からいくっかの重要な経文を紹介して、その教えを味わいたいと思います。その前に、『法句経』 の仏教史における位置づけ、そして『法句経』の私たちにとっての意味を考えるために、 少し長い前置きをしたいと思います。
1.一遍上人のライフスタイル
 私は、卓話「一遍聖絵を読む」を担当させていただいておりますが、みなさまとご一緒に一遍上人の生涯を学んでゆく中で、一遍上人の生き方・ライフスタイルを特徴づける言葉がいくつかあるなあということを、日頃からよく考えます。いくつか挙げてみますと、
 一つ目は、遊行、言い換えると、一所不住ということです。一遍上人は遊行の旅に出て後、死ぬまで旅に暮らし、一つの所に定住するということはありませんでした。こういうライフスタイルを採った、というよりも貫いた仏教者は、日本では非常に珍しいのではないでしょうか。
 二つ目は、これと関係しますが、捨てるということ、すなわち、無所有ということです。旅に明け暮れる日々でたくさんの物を持てないのは当然ですが、そうではなくて、一遍上人は生き方として無所有に徹したと言わなければなりません。捨てることに徹すれば、 当然、すべてのことを捨て、我が身をも捨てることになります。臨終が近づいた際に一遍上人は、「屍は野に捨てて獣に施すべし」と命じていますが、これは身を捨てることに徹して生きた一遍上人にして初めて言える言葉ではなかったかと思います。
 三つ目は、争わないということ、つまりは身と言葉と心の非暴力ということです。一遍上人の再出家の動機ははっきりしたことはわかっていませんが、おそらく一族内の怨恨による争いを避けるためということがあったと思われます。聖絵を読んでいますと、遊行の中で、刀を振りかざして迫ってくる相手に対して、毅然とした非暴力の態度で接する一遍上人の姿や、幕府の数多くの兵士たちに対して一歩も引けを取らない丸腰の一遍上人と時衆の姿を見ることができます。
 その他、教えや布教のスタイルという点から挙げなければならないのは、もちろん、浄 土、念仏、賦算、踊り念仏等でしょうが、今日は、特に、一遍上人のライフスタイルということに限りまして、その大きな特徴とも言うべき遊行と無所有、そして非暴力ということに関して、その仏教におけるルーツを求める試みをしたいと思います。
 と言いましても、このルーツ捜しは、それほど難しいことではありません。なぜなら、 この三つ、すなわち一所不住、無所有、非暴力は、本来の仏教がめざす生き方そのものだからです。本来の仏教とは、やはりお釈迦様(釈尊)、すなわちゴータマ・ブッダの教え、そしてそれを引き継ぐ原始仏教の教えです。
2.釈尊仏教と一遍上人
 私は、これまで、この一遍会の講話で、三度、原始仏教のお話を申し上げました。そこでお話ししたことは、原始仏典の様々な角度からの実証的研究という現代の原始仏教研究の成果にできるだけ基づいて、新しい釈尊像、原始仏教像を求める、というものでした。 ここでえられた釈尊仏教の姿は、従来の様々な経典の記述から取捨選択されて作り上げられてきた仏伝(釈尊の伝記)の教えるものとは、全くちがったものでした。いくつか重要なものを紹介しておきますと、
@ これまで仏伝が伝えてきたような、釈尊の成道から入滅までの四○年の間の説法と布教によって、かなり大きな仏教教団ができあがり、各地に精舎が寄進され、釈尊も各精舎で逗留生活を営んでいたというのは、どうやら後世に作られた根拠のないもので、実際は、釈専は生涯、一沙門(非バラモン系出家修行者)として、乞食しつつ一所不住の遊行生活を送り、ごく少数の弟子たちに、詩の形で教えを語ったのみであった。
A したがって、釈尊の入滅後、釈尊の四○年の膨大な説法を、数多くの仏弟子たちが、 大規模に集合して、結集した、というのもありえず、実際には、少数の直弟子・孫弟子たちも遊行しつつ、釈尊によって語られた比較的少数の詩の形の教えを経典として暗唱して語り継ぎ、自分たちも師に習って、詩の形で新たに宗教体験を育っていった。
B そこで語り継がれた詩の形の教えが、『スッタ・ニバータ』や『雑阿含経・有備品』 の韻文経典部分、そして『法句経』に残されており、一時定説化しつつあった散文経典が古くて、韻文経典は後の仏教詩人によって新たに付け足されたものだというのは全く逆で、韻文経典こそが仏教経典の原初の形態であった(これは文法的にも証明される)。
C それにともない、従来、釈尊によって直接解かれたものとされてきた数によって整理された仏教教理、すなわち六処・十二縁起・四諦・八正道などは、アショーカ王の頃から説かれはじめ、その後何世代もかかって作り上げられたもので、釈尊や仏弟子たちが解いたのはそれらの原初的な形態に過ぎない、ということも明らかになった。
D 私たちが知っている仏伝も、何百年も後にできあがっており、歴史的事実との関係は
不明である。
 とまあ、難しいことがたくさん並んでしまいましたが、なぜこんな面倒くさいことを 云っているかと言いますと、これはおもしろいと感じる人にはとてもおもしろい極めて重要なことだからです。私はこれを知ったとき、十年来いだき続けた原始仏教に関する不可解さの霧を、これによって一気に吹き飛ばすことができたと感じたほどでした。でも、残 念ながら、この痛快さを共感してくれる人が結構少ないのも事実ですが。
 このようにしてやっと、最初の一遍上人とのライフスタイルでの大きな共通点、すなわち釈尊の生涯貫いた遊行生活を、知ることができます。それは、釈尊の実際の言葉と認められる次の韻文経典によってうかがい知ることができます。
 賢明な出家者は、深く思索しながら、辺境の地を遊行するときに、虻、蛾、蛇、人間との接触、四足獣、という五つのものを、恐れてはならない。(Sn964)
 知恵を第一に尊重し、善を喜んで、これらの危険を消滅させなさい。僻地で眠るときには不快感に打ち勝ち、次の四つの思い煩いに打ち勝たなければならない。〈Sn969)
生涯一修行者としての釈尊の遊行生活は、知るよしもないことです。だから、この一致は、天才のみがなしえる不思議な一致というべきでしょう。
 もっとも、インドにおける遊行生活は、決して釈尊のオリジナルではなく、ウパニシャ ツドの伝統を引き継ぐバラモンたちが最晩年に家と家族を捨てて遊行に出ることを理想としたこと、そして、非バラモン系の苦行者たちの修行生活が乞食と遊行によって営まれていたことは、忘れてはなりません。仏教の開祖である釈尊も、それらの伝統の中から登場してきたわけです。
 そして、「捨てる」、無所有ということについても、釈尊の語られた教えがはっきりと残されています。
 人々は、「自分のもの」ということによって嘆き悲しんでいる。人が所有するものは、常に変わらないものではないからである。これこそ、無いという本性をもつものだと見極めて、家の生活に留まっていてはならない。(Sn805)
 人が、「これこそ自分のものだ」と考えるものも、死ぬときには、捨てて行くのである。このように知って、知恵ある人は、自分のものにしておきたいという気持ちに属してはならない。〈Sn806)
 自分のものに執着し求め続けるから、(失ったときの)辛さや悲しみ、あるいは(手に入れたときの)喜びを、捨てられない。それゆえ、沈黙の聖者たちは、所有するものを捨て去って、平安のみを見つめる修行の生活に入って行ったのである。(Sn809)
そして、争わないこと、非暴力についても、釈尊は次のように語っています。
自らの出家の動機について、
 杖をとって暴力をふるうようなことから離れたいという憂いの思いが生じたのだ。争っている人々を見なさい。私がどのように厭い離れたか、その心を語ろう。(Sn935)
と宣言し、自分にとって、争わないこと、非暴力、不殺生の一願いがいかに強かったかを、強く語り出しています。それゆえ、釈尊は、弟子たちに対しても、争わないこと、論争に加わらないことを説いています。
 比丘(出家の弟子)は、偉そうにふるまってはならない。作意や悪意のある言葉を語ってはならない。日頃から傲慢な態度を習いとしてはならない。敵対する論争を闘わせてはならない。(Sn930)
 言葉によって叱責されたときは、自分を見つめ直す好機として、大いに喜びなさい。(Sn973一部)
 他派の沙門たちやその他の様々な人々が言い立ててくるたくさんの言葉を聞いて、腹を立て、荒々しく敵対する言葉を返してはならない。なぜなら、優れた人は、どのようなことも、自分に対立するものとは、とらえないからである。(Sn932)
 怒らず、恐れず、横柄にせず、くよくよすることもない。穏やかに説法をして、いつも落ち着いている。このような人こそ、慎ましく語る沈黙の聖者である。(Sn850)
 どうでしょうか。釈尊の教えはすばらしいですね。そして、こうして釈尊の実際の言葉を並べてみますと、−遍上人の生き方との共通点がますます明らかになってきたと思います。
3.『法句経』について
 さて、このように優れた説法を残した釈尊もやがて年を経て亡くなり、直弟子たちが長老となって、仏教教団の萌芽のようなものができてくるのは孫弟子、ひ孫弟子の時代であった、ということが最近の仏教学者によって主張されています。
 この頃になると、在家の仏教信者も飛躍的に多くなり、東インド各地の都市の近郊に祇園精舎のような修行道場も寄進されはじめたようです。仏教徒たちは、出家・在家の厳格な区別なく、新月・満月の日には、このような精舎に集まってきて、原初的な戒律を受けて、説法を聞いたり、禅定修行に励んだりしたようです。そして、この頃に作られはじめたのが、今日新たに紹介する『法句経』です。
 『法句経』(ダンマパダ・真理の言葉・教えの詩集)は、このような最初期の仏教教団で、仏教徒たちが共に朗唱するために作られ始め、年月を経ると共に次第に大きくなり、 ある時に成文化され、今日に至るまで常に重んじられてきた最もポピュラーな原始仏教経典です。だから、『法句経』の現在見ることのできる姿は、物藷的な記述は全くなくて、 仏教徒が学び、暗唱し、常に考え、肝に銘じておくべき教えが、423の短い轟の形で語られ、それを26の章に分けて配列しています。
 このように、長い期間にわたって作り上げられた経典は、どの寿が古くて、どれが新しく付け加えられたかを判別するのがかなり難しいそうなのですが、それでも、思想的、文 法的、ジャイナ古経などとの関わりといった様々な観点から、最古膚に属すると認められている一連の経文があります。それを紹介したいと思います。
4.最古層の法句
バラモンの章
 髪を結んで垂らしているからといって、氏素性がそうだからといって、生まれがそうだからといって、バラモンであるわけではない。真実であり、教えに生きる人、そのような人こそ、幸ある人であり、バラモンである。〈Dhp393)
 怯えるものであれ、強きものであれ、生きとし生けるものに杖を向けて、殺すこともなく、殺させることもない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。(Dhp405)
 いがみ合う人々の中にあって、いがみ合うことなく、杖をとって暴力をふるう人々の中にあって、穏やかであり、何でも我がものとして取り込もうとする人々の中にあって、何も取り込まない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。(Dhp406)
 この世において、長いものであろうと短いものであろうと、小さいものであろうと大きいものであろうと、善いものであろうと悪いものであろうと、与えられないものを我がものにしない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。(Dhp409)
 過去にも、未来にも、現在にも、何ら所有することなく、無一物で、何も取り込まない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。(Dhp421)
 この世の欲求を振り捨て、一所不住に遊行の生活をし、欲求を滅し尽ぐし、存在し続けることを滅し尽くしている、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。(Dhp416)
 (水から出ながら)蓮の葉に水が付いてないように、錐の先に芥子粒が止まらないように、欲望に汚れない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。(Dhp401)
 安楽も苦行も共に捨て、煩悩なく、すがすがしく、世界の誰よりも優れた勇者、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。(Dhp418)
 現在の『法句経』では「バラモンの章」は最後に置かれ、全部で41の詩句でもって、 これでもか、これでもかという仕方で、どういう人が真のバラモンかを説いていますが、 最初はここで紹介したぐらいの量だったものが、次第に付け足されていき、最終的に大きくなったものと思われます。最後に置かれたのは重要だったからでしょうか。最後に置かれた部分がもっとも古く成立したということは、他の原始経典にも見られることです。
 ここで、なぜ仏教徒なのにバラモンのあり方を問題にするのかを、少し考えておかなければなりません。
 バラモンは、インドのカースト制度で最上位に位置する身分で、バラモン教の神官階級を意味します。身分なので、バラモンは世襲です。代々親から子へと、神官職は引き継がれていきます。こうして、宗教的権威と伝統文化を守っていくとも考えられます。
 しかしながら、非バラモン系の出家集団である最初期仏教教団の人たちにとっては、そ れは変なことです。仏教徒たちは、宗教者として生まれたのではなくて、他の階級に生まれながら、自らの選択で宗教者になった人たちだからです。自ら悩み、決断し、努力し、成し遂げていく人たちにとっては、そういう家柄に生まれたという理由だけで、大きな悩みもなく、決断もなく、特に才能を求められずに、予め敷かれたレールに乗るだけで宗教家になっていく人たちがいるということは、認めがたいことだったでしょう。これは、社 会や宗教の堕落の温床にもなりえます。
 したがって、仏教はそうではないということを主張すると共に、真の宗教者がどうあらねばならないかをしっかりと確認しておく必要があったものと思われます。「バラモンと呼ぶ」の所を「真の宗教者と呼ぶ」−と読みかえると、私たち現代の日本人にもしっくり来る文になるように思います。
 それにしても、この原初『法句経』の「バラモンの章」の内容を見ますと、最初期仏教教団に属した第二世代・第三世代の仏弟子たちがいかに釈尊の示された生き方と教えに忠実であろうとしたかが伺えます。『法句経』の最古層経典は、直接釈尊によって説かれたものではありませんが、初期の仏弟子たちが釈尊の教えをどう引き受け、仏教徒たるものが守っていくべき大切な教えとしてどのように保持し、次の世代へと伝えていこうとしたかを示しているという意味で、極めて重要です。
 確かに、この時期、在家信者が飛躍的に増えたことと精舎が建立されはじめたことによって、釈尊や直弟子たちの頃ほど、一所不住の遊行生活は強調されませんが、それでも教えとしてはちやんと残っていますし、無所有と非暴力が何より大切であることは、釈尊仏教そのままです。このようにして、これ以降、仏教徒たちは、何世代も何世代も、釈尊の生き方と教えを引き継ごうとし、時代が変わりすぎて、表面上はどれが釈尊その人のものかがわからなくなっても、それは様々に形を変えながら連綿と引き継がれ、一遍上人の時代にも生きていたし、今日も生きていると言えるのではないかと思います。
5.私の好きな法句
最後に、私の好きな法句をいくつか紹介して、この講話を終わりたいと思います。
 実にいかなる時も、恨みに対して恨みをもってすれば恨みの静まることはない。恨・みをもってしないならば静まる。これは古くからの教えである。(Dhp6)
 すべてのものは杖(暴力)に怯え、すべてのものは死を恐れる。我が身に引き比べて、殺してはならない、殺させてはならない。(Dhp129)
 愚かな人が自らを愚かであると知るなら、彼はそれによってすでに賢者である。しかし愚かな人が自らを賢いと思うならば、彼はまさしく愚か者だと言われる。(Dhp63)
 他の人の過ちを見てはならない。他の人の為したこと・為さなかったことを見てはならない。自分の為したこと・為さなかったことだけを見なさい。(Dhp50)
  自分が悪を為せば、自分が汚れ、自分が悪を為さなければ、自分が清まる。清いも 清くないもそれぞれ自分のことである。人は他の人を清めることはできない。(Dhp165)
ご清聴有難うございました。