【講演記録】       日本人の死生観−生と死を認識する力−  講師 大本 敬久 氏  (7月度第413回例会)
 他人の「死」を我々は経験できる。しかし、自らの「死」を経験することはできない。ハイデガー(桑木務訳)『存在と時間』(岩波文庫)が指摘するように、「死」とはいっても様々な位相があって、時代と地域でも異なり、自明のものではない。「死生観」という括りで世界を見渡してみると、「死」は大きく四つに分類できるのではないか。一つは、現実の肉体的生命が無限に存在すると信じるという考え方。これは中国の神仙思想や不老長寿、エジプトのミイラ信仰に代表される。日本でも古代の常世の国の神話もこれにあてはるだろう。霊魂は別として、肉体の存在を重視し、それが未来永劫存続することが可能であるという死生観である。二つ目は、肉体は消滅したとしても霊魂は不滅だという考え方。これはキリスト教の天国と地獄といった来世観や、仏教の地獄極楽思想、輪廻思想が代表的なものである。ここには肉体重視の思考とは異なって、個人の霊魂が死後も異界にて存在し続けるという考えがある。そして死後の霊魂に対しても個性が重要視されるのが特徴である。三つ目は、肉体も霊魂も滅んでしまうが、それに代替する不滅対象(代用物)となっ て死後の世界で存在するという考え方。これは日本の「先祖」に代表される祖霊信仰があてはまる。先述した個性を有する霊魂とは異なり、三十三回忌や四十九回忌といった弔い上げを経ると、死者の個性は次第に消滅し、「ご先祖様」という代々の家の死者の集合体として、家が永続する限りにおいて存在し続ける。例えば、お盆(盂蘭盆)には家代々の各個人の死者霊ではなく、先祖という一種の集合体を迎えて、饗応して、そして再び送る。これが日本のお盆の形である。仏教の六道輪廻思想では、死者の縁者が回向・供養することによって、死者の「たましい」は地獄界や餓鬼界から脱出して人間界へ転生(生まれ変わり)することができるが、この思想の基層には、あくまで死者霊魂の個性は保持されている。祖霊信仰で見られる家のご先祖様としての没個性化とは対照的である。そして、四つ目としては、肉体や霊魂、そして代用物も消滅するが、現在の行動に自己を専従集中させることで、生死を超越した境地を体得するものである。これは一般的な「死」の概念とは異なるようだが、悟りをひらくことや、神との一体化などの神秘的体験を得ることによって、「死」を超越することができるという 考え方である。前述の三つの説は肉体や霊魂等の永続・消滅を前提として、人間の「生」の後に訪れる「死」の世界でのあり方を問うているが、この第四の説は「生」の時間の延長線上に「死」を考えるのではなく、時間をも、生と死をも超越しようとしている。四国遍路における弘法大師も、「死」ではなく「入定」しているとされ、今でも「生」の存在なのである。
 このような「死」のあり方は地域と時代によって異なっており、文化的概念ともいえる。そもそも、人間は死を知っているが、サルは死を知らないという。他者の肉体的終焉を「死」ととらえることができるのは人間のみだというのである。「死」を経験し、学習し、理解し、そして概念化・共有化されたことで、サルから進化した人間になったわけである(参考:新谷尚紀『死と人生の民俗学』曜曜社出版)。そして、人間がなぜ葬式を行うのかといえば、実体的な肉体の終焉を、社会の中で「死」として認知させる作業としての意味がある。人間の肉体的な死に伴う不安・混沌状態を、社会的な死として受容させるための方策といえるのである。
 さて、「死」を知ることは、同時に自分が生きていることを自覚することにつながり、生と死の境目を認識できることにもなる。もし、その境界認識がない場合、自分が生きていることの証明を得ようとするならば、究極的には自分が死ぬことよって自分の「生」を確認しようとする場合も出てくる。近年、若者の集団自殺が社会問題となったが、もしかすると、自殺した若者達は普段「生きている」という自己存在感覚が希薄で、それを不安に思っていたのではないだろうか。何とか自己存在を確認したいと無意識のうちに考えた末、死を選択した、いや、死を確認しようとしたのかもしれない。
 現代は身体・家・地域・国家といった様々な環境の「内」と「外」がボーダレス化し、「自己」と「他者」、「生」と「死」など社会における自己存在を明確に理解する力(いわば自己同一化する力)を養うことが困難な時代になっている。命に関しても、「生」の向こう側にある「死」を認識できる力を養う環境を整えることができなければ、これからの世の中は、「生きている」と自覚することが難しい、生命活力の減退した社会になってしまうのではないだろうか。
かつては「死」を知る手段は「民俗」の中に内在していた。「民俗」とは家や地域を伝承母体として、世代を超えて代々受け継がれてきた生活文化のことである。その中でも人生儀礼のうち死・葬送・墓制の民俗を通して、その地域に生まれた人間は、その地域で成長する過程で、他者の「死」が何たるかを実感・体得することができていた。死者の体を洗う「湯かん」、輿(棺桶)を地区内で運んで墓まで送る「野辺送り」、そして土葬での墓穴掘りなどなど。近親者や近隣者が亡くなった際、住民と死者との距離感は近いものだったはずが、今ではセレモニーホールでの葬儀、豪華な棺と霊柩車、設備の充実した火葬場などの登場で、死者との距離感は増し、死のリアリティも以前に比べて希薄になってきている。
 「死」を知ることで人間はサルから進化することができた。自分の「死」は経験できないが、他人の「死」は経験できる。このように述べたが、現在では他者の「死」に関してもリアリティをもって経験しづらくなっている。人間が「死」とは何ぞやという問いを考えるのが困難な社会的状況では、「死」を理解できなければ「生」も実感できなくなってしまう。これは人間個人のみの問題ではなく、人間が社会を構成するために必要な自己存在の認識力(「自己」と「他者」を認識する力)にも影響してくる問題である。「他者」を認識する力が皆無だと、「社会の中に存在している自分」という理解から、「自分がすべての中心であり、自分の意識の中に世の中が存在する」といった存在理解の逆転現象が起こりかねない。そして、いずれ日本の若者の間に、第五の死生観が定着するかもしれない。人間は死んだら何もなくなる。肉体も霊魂も。そして、自分が死んでしまうと世の中の存在さえも消えてしまう。そのような死生観のもとでは、日本の伝統的な祖先信仰も消えうせてしまい、それを支えていた家制度や寺檀制度も大きく変容していくだろう。
 そもそも自己存在の確認は、「時間」と「空間」にて行われるものである。自分の存在を過去・現在・未来という時間軸に位置づけることであり、身体・家・地域・世界という空間軸に位置づけることである。その作業を、「民俗」という世代を超えて伝承されてきた文化、つまり先人が伝えてきた生きる力・知恵・知識を素材として考えていくことは重要である。これからの世の中では、この視点が不可欠になるのではないか。個が個としてのみ生きていくことができるのは、単なる幻想であり、個は必ずコミュニケーションをとり、他者との関係を築かなければならない。「人の間」と表記する「人間」の存在は自明なものではなく、ヒトとヒトの間柄が築かれてはじめて「人間」となるのである。
 その間柄には血縁・地縁・社縁などの「縁」があるが、その「縁」の中で自己を確立する力を養ってくれる一要素が「民俗」である。「民俗」を古きもの、ノスタルジーを感じさせるものと扱うのではなく、現実=生きる手段としていかに扱われてきたかを理解することで、現在・未来を生きる方策も、おのずから見えてくる。それは生きていることを相対化する作業であり、それが達成できれば生きていることを絶対視もできるのではないか。「死とは何か」を考える不断の努力は人間が「生」を継続していくために不可欠と言えるのである。