11月度第405回例会
講 話    「松山と自由律俳句と山頭火」
講 師   熊野 伸二 氏 (一遍会 理事)
講演内容
【種田山頭火と松山】
一、俳句の系譜・・・・・松山との深い関係
高浜虚子 (ホトトギス)
(松山出身)
正岡 子規 種田山頭火 (M十五生〜S十五没)
(松山出身)
河東碧梧桐 (層雲)  荻原井泉水 尾崎放哉 (M十八生〜T十五没)
(松山出身)
野村朱鱗洞 (M二十六生〜T七没)
(松山出身)
二、松山の新聞・海南新聞との縁
明治三十九年、父竹次郎が家政に失敗、吉敷郡大道村に転居、醸造業を営む。同四十二年、結婚、四十三年に長男が誕生したが、山頭火は文芸活動に熱心で家業は疎かにし、大正二年ら新傾向俳誌「層雲」 に投稿を始める。同じころ松山市の海南新聞(愛媛新聞の前身) にも投稿している。
〔大正四年二月十一日付「自画像」 から〕 〔大正四年十二月十八日付「朝汐のしづけさ」から〕
煙管叩けば寂しき音と火鉢撫づ 傾ける陽の前を群れて飛ぶ晴蜂
朝寝けだるさ冬ざれの庭風立てり 我が足跡潅がながと海は濁りたり
寒き闇に凝らす眼の底光る夜半 朝汐のしづけさ小蟹めいめい穴掘るよ
当時三十三歳の山頭火は翌大正五年「層雲」 の俳句選者のひとりとなるが、その直後種田、家は破産、妻子を連れて熊本へ。古書店を開業。
三、四国霊場巡拝時の好印象
広島で大山澄太に「余命いくばくもないと思う。死に場所を求める旅に出たいがどこがか」 相談。澄太が、「四国の松山あたり、暖かくてよい友も出来そうなところと思う」 というと、「前に四国遍路をしたが、伊予の国が貰いものが一番多かった。松山あたりは風土そのものが俳句だよ」と紹介を依頼、松山行きを決意する。
四、終の住処「一草庵」 のくらし
高橋始(俳号一洵・松山高商教授) と清水恵(今治市桜井郵便局長) 宛紹介状を持った山頭火は、昭和十四年十月一日、広島から船で「ひよいと四国へ晴れきつてゐる」 と松山へ。一洵や松山郵便局の藤岡政一らが厚遇。野村朱鱗洞の墓に詣でた後、十月七日四国遍路の旅へ。途中、高知で遍路を中断、十一月二十一日松山へ。十二月十五日一淘、政一らの世話で 「一草庵」へ。日記には「厚情に甘えて新居に移った。御幸山麓、御幸寺の隠宅のやうな家屋。!私には過ぎてゐる。勿体ないやうな気がする」 と記す。昭和十五年一月六日には初旬会を催す。
一洵君に 「おちついて死ねそうな草枯るる」 〔松山の句友ら〕高橋一洵、藤岡政一、高木和雷、村瀬汀火骨・千枝女、二神布佐女、広瀬無水ら
 【自由律俳句と松山】
一 碧梧桐の新傾向俳句
子規の高弟・碧梧桐は、子規没(明治三十五年九月十九日) 後、次第に新傾向へ傾斜、明治四十一年八月「日本新聞」 に「俳句の新傾向に就いて」 を発表するとともに自ら全国俳行脚の大旅行に出発、新傾向俳句を広めていった。その運動は・、またたく間に全国を風びし「新傾向に非ずば俳句に非ず」 とさえいわれた。愛媛では、海南新聞俳壇選者の森田雷死久らを中心にその主張を県下に広げ、明治四十三年七月二十六日、帰省した碧梧桐を迎えて地元三新聞社合同で歓迎俳句大会を開くなど新傾向俳句が広まっていった。
碧梧桐の主張・・・・・従来の季題中心の五七五の形式を破り、五五三五もしくは五五五三の形式を基本とし、実感の直写による個性を尊重しながら感想の具体的描写を求め、伝統の季題趣味の打破に向かった。大須賀乙字・中塚一碧楼・荻原井泉水ら新傾向作家が出現する。 
二 井泉水の自由律俳句
明治四十四年四月、荻原井泉水は碧梧桐と相談の結果、新傾向俳句雑誌「層雲」 を創刊。碧梧桐の日本派につらなる作家たちは一斉にこの雑誌に集まる松山の野村朱鱗洞もその一人。大正初期には乙字、井泉水とも碧梧桐と見解を異にするようになり、分裂に至る。
三 天才・野村朱鱗洞
明治二十六年十一月二十六日、松山市生れ。本名・守隣。初め柏葉と号し、のち朱燐洞、さらに燐を鱗に改めた。明治四十四年五月十六日、朱鱗洞は松山市東雲町の自宅にいずれも十代から二十代はじめの仲間ら十五人を集め、松山初の新傾向俳句結社「十六夜吟社」 を結成した。この中に後年著名となる白石花駁史、阿部里雪、森薫花壇らがいた。朱鱗洞は、井泉水の 「層雲」 に所属、めきめき頭角を現す。井泉水が碧梧桐と祝を分かち季題解放論を打ち出し、自由律を提唱したとき、これに共鳴。大正三年十一月一日、西日本俳行脚の井泉水を迎えて市公会堂で「層雲松山大会」 を開く。愛媛の自由律俳句誕生の日であつた。
「十六夜吟社」 は、松山俳壇の中心となり、松山俳句大会を開いたり、当時十会ほどあつた各結社の青年俳人たちとの交流・研鋳を進めた。十九歳で海南新聞俳壇の選者をノつとめた。大正三年には、層雲松山支部を結成。機関誌「瀬戸うち」 を発刊した。大正五年には「層雲」 選者をつとめ、尾崎放哉らの投句を見る。井泉水は朱鱗洞を後継に考えていたといわれるが、スペイン風邪のため大正七年、二十四歳で没した。遺句集「礼讃」 がある。「舟をのぼれば島人の墓が見えわたり」 「はるの日の礼讃に或るは鉦打ち鈴を振り」 「わだのはらよりひとも鯛つりわれも鯛つり」 など。
 (子規の後継を遽巡していた虚子は、大正二年二月、三田俳句会において「春風や闘志いだきて丘にたつ」 と詠み「ホトトギス」 に復帰、客観写生、花鳥風詠論を主張、次第に新傾向、自由律を圧していくようになる。)
四 自由律俳句結社の消長
明治四十三年七月、碧梧桐が帰省、「松山俳人倶楽部」 を結成。同四十四年九月、朱鱗洞「十六夜吟社」 結成。大正二年朱鱗洞の友人・長野白面郎らが 「勝山吟社」 結成。続いて 「日蝕吟社」 「清平調社」 など誕生。同三年「十六夜吟社」 に山頭火、江良碧松ら投稿。同年「層雲」 第一句集「自然の扉」 に朱鱗洞の六十句が収載される。同年「層雲松山支部」 結成。六年、海南新聞が「虚子氏俳壇」を発表。新傾向、自由律からホトトギスへ舵を切る。
昭和八年、立花不妙「層雲句会十六夜吟社」を復活させる。
同十四年、山頭火来松。「十六夜吟社」を第二次復活「十六夜柿の会」とする。
同十五年、山頭火没後は高橋一洵が後継。
同二十六年「層雲」同人・伊藤俊二、井上一二来松「十六夜柿の会」を第三次復活「十六夜社」とし、一洵が代表者に。
同五十二年、朱鱗洞六十四回忌(十月十六日)に「十六夜社」第四次復活、高橋一洵息・正治が代表。
同五十二年、朱鱗洞六十四回忌(十月十六日)に「十六夜社」第四次復活、高橋一洵息・正治が代表。
平成十一年十二月十六日、第五次「十六夜柿の会」復活、現在に至る。