10月度第404回例会
講 話  「一遍聖絵」 あれこれ」
講 師  小沼 大八 氏 (一遍会代表・愛媛大学名誉教授) 
講演内容
1.一遍上人の生涯を描いた伝記絵巻には「一遍聖絵」、「一遍上人絵詞伝(遊行上人縁起絵)」、「奉納縁起記」の3種がある。
2.一遍は入寂に当たって、「わが化導は一期ばかりぞ」、「一代の聖教皆尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言い残し、所持の書籍等をすべて焼き捨てた。そのため一遍没10年後に撰述された「一遍聖絵」は、かれの生涯や思想、和歌等を知るうえの根本資料とみなされる。編者聖戒が開山の歓喜光寺〈六条派)に伝来、国宝に指定され、現在は歓喜光寺と清浄光寺の共同所有となっている。
3.「一遍聖絵」は一遍上人の足跡を十二巻・四十∧段に描いた高僧伝記絵巻である。十二、四十八という数字は共に、無量寿経に説かれる十二光仏、四十入願に由来する。 「絵四十八段おのずから六八の誓願を表す、巻一十二軸、これ二六の妙体をかたどるなるべし」く巻十二).(十二光仏=阿弥陀仏の異名.功徳を表わす.無量・無辺・無擬・無対・炎王・清浄・歓喜・智慧・不断・難思・無称・超日月)。
4.各巻は3段、4段、5段等から成り、各段は詞と絵から成る.1段=詞3、絵1。詞2、絵1。詞1、絵1。絵1。詞1、絵2。詞2、絵2等からなる。
○法量=縦39、3〜37、9センチ.長さ134メートル74センチ。
○明治時代に巻六、第1段絵(江ノ島図)と巻七、絵全4段と第4段詞が寺から流出。原三渓が蔵するところとなったが、戦後は前者をある個人が、巻七は東博が所有。
5.「一遍聖絵」は日本最初の絹本絵巻。絹本絵巻自体きわめて珍しい。画材が絹本のため、詞書の部分は朱、緑青、黄土、丹等の顔料で華麗に塗り分けられ、草花などが散らし描きされたうえに詞が墨書されている.平成6〜12年の抜本的修理で絵画の部分は全体に真彩色が施されていることが判明。
6.「一遍聖絵」は当代一流の画師と能筆がその制作に当たっており、絵・詞ともに華麗と精緻のかぎりを尽くしている. 一遍聖絵奥書「正安元年八月廿三日西方行人聖戒記之畢。 面図 法眼円伊。 外題 三品経尹卿筆」。
・円伊・・・法眼(五位相当)の官位をもつ専門絵師。絵画は円伊ひとりの筆でなく、人物や樹木の細部に異なる筆致がみられる。円伊が主催する工房の作か。画風は伝統的な大和絵を基調とし、これに中国から新来の水墨画の技法が融和的に加わり、新鮮なものとなっている.巻四では異時同図法により、一遍が同国に2人描かれる。
・外題三品経尹卿筆・・・各巻の外題は正三位世尊寺経尹の染筆.経尹は三蹟のひとり藤原行成から十代日の世尊寺家当主.宮廷書道を担う家柄であった。
○詞書は当時、名筆の誉れが高かったと思われる堂上公卿の寄せ合い書き・書風から4人が分担したとみられるが、筆者は特定できない。
7,この絵伝の制作には膨大な費用が掛かったことが予想される.伊予の豪族出身の聖戒にそれが負担できたとは考えられない。この絵巻の制作には強力なパトロンがいたことが以下の詞から明らかである。「しかるあいだ、一人のすすめによりて此画図をうつし、一念の信をもよをさむがために、彼行状をあらはせり」(巻十二).パトロンは関白九条忠教か?
8.聖戒(1261〜1323)の事績
○聖戒は一遍の異母弟とも従弟(直談抄)とも実子(玉来重説)ともいわれる.一遍とは22歳の年令の開きがある。
○文永8 く1271)、一遍再出家の時、12歳の聖戒も出家し、一遍最初の弟子となる。
○文永11(1274)、超一、超二、念仏房を伴い、遊行に旅立った一遍と桜井で別れる。その時まで聖戒は一遍と行動を共にしていたと思われる。「同国桜井といふ所より同生を花開の暁に期し、再会を終焉の夕にかぎりたてまつりて、いとまを申侍き。いま子弟の現当の約をなす、本懐あにむなしからむや。『臨終の時はかならずめぐりあふべし』とて名号かきたまひ、十念さづけなどし給ふ(巻二第二段)。
○一遍と桜井で別れて以後の聖戒の動向
 ・桜井で別れて以後、一遍臨終の時まで二人は会わなかったという説.
 ・桜井で別れてのち、まもなく一緒に遊行するようになったという説。  
 ・喜多郡内子町頗成寺には桜井で一遍と別れて後、聖或は同寺に住したという伝承が伝わる。
○正応2年(1289)8月23日辰の刻、一遍は兵庫観音堂で死を迎えた.一遍の病床から臨終に掛けての「聖絵」の記述はくわしく、聖戒登場の場面も多い。
 ・8月2日、集まった道俗に重病の一遍が遺戒を与える場面(巻十一)では、一遍の右脇に座して遣誠を書き取る空戒の姿がみられる。
 ・一遍は看病する時衆に、「一遍と聖戒が中に人居へだつる事なかれ」と命じたという(巻十一)。臨終の近いことを知った一遍が、「臨終の時はめぐりあふ  べし」という桜井の別れの際の約束を果たしたものと解釈される。
○名号と一体となって生きた一遍の生涯を後世に伝え、名号への信を起こさせんがために一遍の伝記絵巻を著わすことを決意した。 「一念の信をもよをさんがために、彼行状をあらはせり」(巻十二)。
○一遍没後、聖戒は京都に住み、歓喜光寺の開山となり貴族社会に出入り。そのようにして「一遍聖絵」制作のためのパトロンを、堂上公卿世界に深し求めたものと思われる。ちなみに歓喜光寺は平安中期、菅磨是善が左大臣源融の遺跡に菅原院の旧殿を移築し寺としたもの。
9.一遍には立宗の意志も、寺院建立のはからいも、後程者をつくって事跡を残す気持ちもなかった.一遍が求めたもの、そわは「念仏勧進を我がいのちとす」ということに尽きている.それからすれば聖戒が果たした絵伝の制作を、一遍は喜んだろうかという疑問が生ずる。「畳一畳敷きぬれば狭しとおもふ事もなし。念仏申す起き伏しは妄念起こらぬ住まいかな。道場すべて無用なり・・・法主軌則を好まねば弟子の法師も欲しからず。誰を旦那と頼まねば人にへつらう事もなし」(百利口語)。