8月度第402回例会 
講 話    「詩(ことば)の森に分け入って」
講 師   森原 直子 氏 (詩誌「野獣」主宰)
 今回は、私が、詩という森をさ迷いつづける中で出会った作品を引きながら、ご一緒に詩の森を探索したいと思います。一口に詩といいましても、明治に起こった近代詩の流れはモダニズム運動が起こつた昭和三年「詩と詩論」(春山行夫が編集)の創刊を経て、詩人の言語感覚が変わったといわれるようです。が、近代詩の情緒的な響きの中から、一気に戦後詩、いわゆる現代詩のプールに飛び込んでしまった私は、その衝撃に戸惑ったものでした。
しかし、詩との最初の出会いは、正確に言えば詩のようなものかも知れませんが、二歳年上の姉の詩のノートをのぞき見たときでした。そこに書かれた言葉は、私が書いていた作文や日記などの言葉にはない、異質な輝きを放っていたように記憶しています。その一行たりとも、今は思い出せませんが、中学二年生私には、十分すぎるほど劇的なものでした。でも、詩の虜になったとはいえ、まだどのように書いてよいかもわかりませんでした。教科書にある島崎藤村、高村光太郎や三好達治などの詩を読んでもあまりぴんとこなかったように思います。そんなとき、ヘルマン・ヘッセの詩編に出会い書きはじめました。行分けの日記のようなものでしたが、夢中で書き、そのまま高校生まで突っ走って、高校二年の時に初めての詩集「最初の花」を編みました。これが、私の詩の森の入り口ではなかったかと思います。
 そして、二十才の時、雑誌 「詩芸術」 に投稿していた私の詩を読んでくださった山本耕一賂先生が、「野獣」 にお誘いくださいました。この出会いがなければ、私の詩の書き方ももう少し違ったものになっていたかも知れません。詩を通して、多くの作品に触れ、詩人との交友を深めるなかで、私の視野は広がってきたように思います。
 最初に引かしていただきますのは、この夏、新盆を迎えられました山本さんの作品です.「花火」 は、現実にはありえない幻想世界をユーモラスに書かれる耕一路ワールドの面目躍如といったところではないでしょうか。
 ところで、山本さんは詩の話をされる時、よく三好達治の 「蟻が 蝶の羽をひいて行く ああ ヨットのやうだ」を引用されます。辻征夫は【私の現代語入門】 の中で、三好達治について 「叙情とはひょっとしたら、硬骨の人の慟哭かもしれない」 と表現されていますが、山本さんの作品もまた、まさに静かな慟哭ではなかったかと思います。
 第一詩集『岩』に収められた 「野の石」 の中に、一貫して一本の道をひたすら貫かれた山本さんの信念を持った生きざまを見ます。
             「野の石」                 山本耕一路
黒い円い野の石
野の道の石を
少年が投げた
投げられた石は
又も 野の道で 止まった
或る日
野の道の石は
浮浪者に蹴られ
たんぼに逆落ちした
それから四、五日
たんぼの手入れに来た百姓の手で
野の石は
野の道の向う側へおもいさま飛んだ
定着の出来ない 野の石 黒い円い野の石
野の石は 飛ぶことを酷使され
小鳥になった
中空に慄えている雲雀
こぶし大の一点
あれは黒い円い 野の石である
 さて、今日は、いくつか心にかかる詩を用意してきましたが、ご紹介に移る前に、私の考える詩について少し触れたいと思います。
 よく、「詩は難しいから」、とか、「どうもよく分からないのよね」、といわれます。たとえば画を観にいったとき、いろんな見方があるかと思いますが、遠くから眺めたり、近付いて覗き込んだり、その作品を理解するより、感じ取ることに私たちは神経を集中させます。詩も同じではないでしょうか。詩を感じることに重点を置いていただけるとうれしいです。理解はあとからゆっくりやってくるように思います。詩は、詩の言葉は、言葉が言葉としてスコンと立っている、そう感じる時、それが詩ではないかと思います。
 でも、詩について悩んだり迷ったりしますと、最初にお話した詩の入り口で出会った山村暮鳥の 「雲」 のことを考えます。
                「 雲 」                 山村暮鳥
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか
 「おうい雲よ」と素直に雲に呼び掛ける。素朴に雲と対峙する。これが、詩の始まりではないかと思うからです。そこに詩のこころはあるように思います。そこに近付きたいと願っています。
 後は、それぞれの詩について、簡単な鑑賞についてお話させていただきました。しかし詩は、言葉のシャワーを浴びるような気持ちで、読み手がその詩に一歩踏み込む必要があるのではないかと、考えています。そして詩は、日常のささやかな凹のようなところに、宿っているように思います。この場で、ご用意させていただきましたすべての詩について触れることはできません。最後に菅原克巳の「朝の挨拶」を揚げて、この一文を閉じさせていただきます。
 「ぼくはささやかなことが好きだ」と菅原克巳は言切ります。妻が野菜を切っている音には、野菜を洗う水の音、皿の触れ合う澄んだ音、妻の軽やかな足音なども重なりあっているだろう。「ささいな」日常は、生き生きときらきら光を帯びて、朝の清々しさを真っすぐに差しだされた私たちは、本来の朝を再認識するのではないでしょうか。今後も、一つでも多くの詩に触れていただけましたら幸いと存じます。
                「朝の挨拶」              菅原克巳 
さわやかな目覚めに
わが家に
朝陽がさしているのを見た。
それから
妻が野菜を切っている音を聞いた。
ぼくはささやかなことが好きだ。
くらしのなかで
詩が静かな不意打ちのように
やってくるというのはほんとうだ。
もうじき
風にのって
とぎれとぎれに聞こえてくる
丘の上の中学校の
いつものオルガンの挨拶でさえ……
【朗読詩】山本耕一路「花火・公園と老人・野の石」 ▽香川紘子「再会・命の日数」 ▽小池昌代「ねこぼね・馬喰という名の土地で」 ▽辻征夫「落日・桃の節句に次女に訓示」 ▽谷川俊太郎「私の家への道順の推敲・かなしみ」 ▽大岡信「地名論」 ▽菅原克巳 「朝・朝の挨拶・プラザー軒」