7月度第401回例会  
講 話  「別当大師光定」
講 師  熊沢 芳弘 師 (天台宗 医座寺 〈松山市大栗町〉 住職)
 いまから1200年前の平安時代、伝教大師の高弟として大活躍した「光定」を知る人は少ない。文献によると光定は伊予の国風早郡(北条市周辺説)の出身となっている。確かな証しは少ない。もと風早郡に属した菅沢町(松山市)の佛性寺(ぶっしょうじ)が両親菩提のために建てられた寺との言い伝えがある。
当山の場合は、もと北相宗の寺であったが、ゆえあって光定が天台宗に帰属させたとある。ほかには四国霊場のなか、横峰寺が開山第二世の扱いになっているのが注目される。
 「温故知新」心にゆとりがなければ、古き時代に心遊ばせることはできない。松山には天台宗の寺院が六ケ寺点在する。天台宗の開祖は伝教大師最澄聖人。鎌倉の世にあまたの祖師方が誕生されたので、現在も比叡山は母なる山と呼ばれ全国から親しまれている。 来る平成18年1月26日。天台宗は開宗1200年慶讃大法会を迎える。時空を越えて、開宗なったばかりの平安の時代は、われわれとどのような関わりがあったのか振り返って見たいと思う。
 天台宗は、延暦25年(西暦806)桓武天皇より開宗の勅許を賜った。東大寺(奈良)の大仏(盧舎那仏)開眼(752)から54年。人心荒廃する大和の国から新たな平安京に遷都(794)された12年後。穏やかな歴史のドラマを垣間見ることが出来る。
 大同3年(808)開宗2年目の比叡山に、忽然とひとりの苦行僧が現れる。その名は『光定』(こうじょう)年齢30歳。伊予の国風早郡(現在の愛媛県北条市夏目あるいはその周辺説あり)の出身。のちの『別当大師光定』である。光定のそれまでの生い立ちは、あまり知られていないが、四国での山岳修験に励んだらしく、四国霊場横峰寺では開山第二世の扱いがなされている。ゆかりの寺は松山に佛性寺・当山医座寺がある。
 祖師最澄(43歳)は、遣唐使還学生として帰朝三年目。光定の並外れた才覚を見抜いて弟子入りを許可する。その翌年真言宗の開祖となる空海上人(38歳)が比叡山に最澄聖人を訪問。若い光定にとって平安の両雄との邂逅は、法悦に浸りながらも自らの果たすべき使命感がここに燃え上がる。
 光定は山上にあって主に顕教を学んだ。最澄より東密(空海の信ずる密教)も学ぶよう指示を受け、海の和尚(かいのわじょう)(当時の空海の呼び名)のもとへ、仲間の弟子である圓澄・泰範たちとともに密教研鑽にも励んだ。このことはあまり知られていない。のちに圓澄は延暦寺二代目の座主(ざす)となり、泰範は山を去って空海のもとで高野山開創の中心をなすこととなる。光定はさらに修行に専念する。祖師最澄に対し常に影のごとく従い、指示には身命を賭して立ち向かう。それはあたかも釈迦と弟子たちの関係を彷彿させ、その後の天台宗成立に多大の貢献を果たすことになる。
 嵯峨天皇の御代。祖師最澄入定(822)56歳。あまりに早すぎる哀しい別離。しかし、光定は悲しんでばかりはおれない。祖師最澄の遺言に従い大乗戒壇院建立の勅許を得ねばならない。この当時、真言宗の空海上人は、嵯峨天皇の陰にあって、一に真言二に北相を唱え天台宗を軽んずる進言を行っていた。光定はこうした厳しい情勢のなか、それまでに培った公家たちの人脈と帝との高宜によって、難題であった大乗戒壇院建立の勅許に漕ぎつけ、図らずも空海の真言宗国教説を食い止めることになる。この大恩は決して天台の末弟のみならず疎かにしてはならない。
 帝より光定に賜ったご宸筆のご戒牒(国宝)は、それまでの労苦を労った尊い証。現在、延暦寺所蔵の大袋を担いだ光定大師立像(重要文化財)も、帝よりご戒牒に併せて乞食(こつじき)袋を賜ったとの記録から、光定が袋を担ぎ比叡山と京の都や奈良往還の苦労が読み取れる。さらに、「伝述一心戒文」(重要文化財)の執筆上奏は、祖師最澄の精神を述べ辛苦を説き涙なく拝聴できない貴重な戒文です。執筆を終えた56歳は奇しくも祖師入定の寿。僧侶として最高位の伝燈大法師位を授かったのが、空海に遅れること28年。ちなみに、大師の諡号は、貞観8年(866)最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師を賜ったのが本邦最初、遅れること55年空海に弘法大師の諡号となる。
 晩年にいたって光定は、帝より長年の功労に対する重い恩賞を涙のなかに賜った。「文筆秀麗集」「経国集」などに光定が賜った詩が残されている。光定の人となりを「質直にして服餝を事とせず、帝其の質素を悦びて殊に憐遇を加う」と記され、その高宜がしのべます。
 四季苛酷な環境の比叡山での生活50年。祖師最澄との苦難の生活14年間。二代目の座主圓澄の死後、本来であれば第三代目の座主に任ぜられる立場にありながらも、決して己を表に出すことなく、別当職補佐(76歳)(554)以後親しみを込め「別当大師」と称せられた。
 座主不在18年の長きを経て、さまざまな難題を解決しながら、天台宗比叡山 延暦寺をひたすら護り、生涯を奉仕の下座行に終始したと言っても過言ではない。祖師最澄追慕の情深く、顕・密極めた止観の清僧。厚い信仰心を伺い知ることができる。
 光定大師入寂の後、延暦寺 浄土院 祖師最澄のご廟所脇に、あたかも語り合うがごとく立派な廟所が建立されている。堂宇に名を冠し『別当大師堂』も山麓に現存する。しかし、近年にいたり、光定大師の功績を忘れ、人々から忘れ去られようとしている。こうした事態が生じたのは様々要因が挙げられる。
 伊予国風早郡出身、別当大師光定の精進により、わが国の「天台宗が成立」したのは歴史が証明する真実。亡己利他(もうこりた おのれをわすれたをりする)天台の精神が光定に働かねば、大きく鎌倉の祖師方誕生を否定することになる。中国の故事に、水を戴けば井戸を掘った人の恩を思えとある。現在ここが忘れ去られようとしている。掘りおえたのは「別当大師光定」その人であった。今いちど、大師のご遺徳に思いを巡らさねばならない。
 「郷土が生んだ偉人」は、どの国、どの県、どの市を訪れても、銅像や顕彰碑として称え、パンフレットに詳しい説明がなされている。銘菓の銘柄に地名に記され慕われている。年毎に町をあげて千年祭祀を続けている所もある。幼い子供までわが町の偉人を知っている。生かし活かされ追慕することは大切だ。互いに恩顧を被ってこそ古里でなければならない。ところが、悲しいかな光定大師は、心に描いた伊予の国、思いを馳せたであろう愛媛に、1200年を経ても復権を果たしていない。残念ながら誕生の『碑』すらない。存在までも否定されようとしている。
 憂いを感ずるのはわれわれのみではないはずだ。平成の恵まれた今日。われわれは、過ぎし昔、この日本を動かした『別当大師光定』の声なき声に答える責務がある。生誕1224年。没後1145年(2003現在)古き時代の偉大な足跡も時の流れを経ると、はるか遠くの出来事となって、私たち子孫にとって知ることの出来ないのは誠に惜しいことだ。
 この度、ささやかな仏事として、天台宗四国四県寺院檀信徒の熱意を結集し「別当大師光定』の木像(座像)並びにお厨子を、平成の名工大仏師、石田嵩治・元治両師(松山)に製作を依頼。尊像を比叡山 延暦寺に奉安することが決まった。完成は早くても二年を要する大作。かならずや大師にもお慶び戴けるはず、平成の世に生まれ合わせた、われら天台の末弟に出来得る1200年目の悦びであり、なせばなる報恩の誠であります.。
 われわれは、今後様々な方法により、関係者と折衝を重ね『別当大師光定』の復権運動を強めたいと思います。出身地北条市の関係者におかれましても、政治や宗教の垣根を越えて、後の世の人びとを励ますためにも、北条市の誇れる景勝の地に、モニュメントの建立などいかがなものでしょうか。医座寺 住職 熊澤 芳裕 合掌
(注) 平成14年8月、愛媛・仏教と医療を考える会から執筆依頼を受けた文章を再掲する。