2月度例会  三好 恭治氏 「一遍と神々の出会いB 尼僧ということ 」講演要旨
今回は「伊予道後国地図」ならびに「一遍聖絵」を使用しましたのでレジュメの掲載は割愛せざるを得ませんでした。ご了承下さい。要旨は「一遍会報」次号ならびに次次号に掲載の予定です。ご了承下さい。
1 はじめに
一遍生誕地伊予国道後のトポス(時と場の記憶)を地図を添付し確認。内容は【熟田津今昔】中「第15章道後八勝十六谷」「第16章一遍の在る道後の風景」に記載。
2 「時衆」の寺院
一遍は「遊行」を通して賦算をしたが、文久11年から弘安11年の14年間に4回伊予に戻っている。伊予に於ける一遍「時衆」は道後・宝厳寺と内子・願成寺に「定着」し、従兄弟に当たる河野通有の物心両面の布施・支援を受けた。
両寺を「時衆」寺院と位置づけ検証すると、三世が共に尼僧であり、願成寺は「通有の後家」宝厳寺は「仙阿の娘」と推定される。宝厳寺の門前末坊12院中、僧庵と尼庵が各6庵あり尼僧の存在を無視できない。
3 一遍血脈図
「一遍聖絵(添付)」から【2巻2段】を一遍血脈全員の披露と捉え【4巻5段】で超一、念仏坊【12巻1・3段】で聖戒、超二、念仏坊、仙阿の登場を暗示した。念仏房は従者ではなく超一の肉親ではないか。伊豆坊仙阿、伊予坊聖戒は河野氏の北条方と院方の流れを暗示するものではないか。併せて戦国期の後家(女性)の権限・責務・実態につき「フロイス日本覚書」並びに「毛利家文書」から女性差別の通説に反論した。
4 尼僧と尼寺
上記の論述が伊予・河野家の特異な事象ではなく全国的な傾向であることを「教科書」的に鳥瞰し理解を深めた。一遍の時代には「比丘尼予備軍」は全国的に数多くいたことを指摘、一遍もまた時代が生んだ仏教者と位置づけた。
5 女性・尼僧に関する事項
「一遍聖絵」「播州法語集」から女性・尼僧に関する項目を抜粋し参考に供した。
通説とは異なる見解を提供し、会員各位に討論していただこうと考えています。ご異論も多いと存じます。是非ご教示いただきたいと願っております