11月度例会   みもとけいこ氏 「漱石文学に登場する六人の<清>」講演要旨
 四国松山を舞台とした小説『妨っちやん』の下女〈清) は有名ですが、漱石最後の未完の小説『明暗』 の主人公も〈清子)といいます。漱石はこの 「清」 という字に何かこだわりをもっているのではなかろうかと感じておりました。「坊っちやん論」 を書くにあたって、それ前後の作品を読み返しておりました。そうすると『吾輩は猫である』 にも一か所だけ下女〈清) が出てきます。
 なんとなく漱石作品には下女〈清) がたくさん出てくるなとは思っていたのですが、これは、この点だけに着目して全作品を読み返してみなければならないと思いました。そうするとなんと六作品に下女〈清) が登場しておりました。
 これは単なる偶然ではない、と私は確信しました。小説を書く人にとって、登場人物の名前を決定することは、かなり神経を使う作業です。登場人物の名前が成功したかどうかで、その作品の評価も定まるという人もいる位です。
 小説『坊っちやん』 のテーマというとやはり勧善懲悪でしょうか。その舞台となった松山では、漱石というと思想家、モラリストというイメージが強いのですが、しかし漱石の小説の半分は恋愛小説と言ってもいいかと思います。
 『それから』、『門』、未完の絶筆となった『明暗』なども命懸けの恋愛といいますか、三角関係なんですね。『こころ』も恋愛小説です。しかも男同士の恋愛です。よく漱石は女性は書けないとか、恋愛は書けないとかいわれますが、それは違うと私は思っています。
 しかしそれだけの命懸けの恋愛を書いていますと、漱石にそういう小説を書かせた原動力は一体何だったのかという点に興味が湧いてまいります。漱石は文学者によくありがちなスキャンダルというのはどう探してみてもありません。これは断定してよいかと思います。作家を語るとき、作品と人生がダブつているつまり、私小説ですが、それは漱石も嫌っていたし、私も嫌いなので、小説と実人生がどう違っていても、それはそれで、フィクションを作る創作力の素晴らしさということになるのです。といいながら、心の何処かで、やっぱりなんらかの「こだわり」というものがあったのではなかろうかと勘繰るものがあります。
 ここで私は大胆にも漱石にとつての恋愛、それと「六人の〈清)」の謎を結び付けてみました。もしかしたら漱石のまわりの人で、〈清)という名前の人がいるのではなかろうかという予想をたてました。
 ここで行き詰まりまして、またかなりの年月が経ちました。
 ある時友人に誘われて、早坂暁先生の講演会に出掛けておりました。その時俳句の話になって、子規や虚子の話になりました。私は現代詩を書いておりますが、どちらかというと現代詩は五七五という伝統的韻律に囚われてはいけないと考えるタイプですので、俳句は全くの門外漢なんです。その講演会で早坂先生が、虚子の本名は (清) であって、子規が俳号をつけてくれという本人の求めに応じて 〈清)をもじつて 〈虚子)とつけたのだとおっしゃいました。この時の驚きを私は一生忘れないと思います。
 さて、話は飛びまして、漱石が松山中学に赴任しました明治二十八年頃の考察をしてみたいと思います。
 もともと日本の文化は、前後左右を見て、協調しながら自分の行動を決定していくということです。大体農耕社会がそういうものですし、農村へ行けば今でも日本の社会はそうです。しかし明治維新西洋から入ってきた文化は、全く反対のものでした。自己というものが絶対あって自分の人生や行動は自己決定して、その結果は自分が負うというものです。
 漱石はそれを 「自己本位」 といいました。それは親には認められず、進路は自分で決められず、アイデンテティを持たない漱石が、それは明治という社会を生きる方法でもありましたし、自分の人生を開くための言葉でもありました。「自己本位という言葉を獲得して自分は強くなりました」という言葉が漱石のエッセイの中にありますが、書くという行為は漱石を暗い闇から救ったと思います。漱石は自分で自分を救った訳です。
 それと同時に漱石は 「則天去私」 という相矛盾することを言いました。たくらみが出来なくて損得勘定ができなくて、「則天去私」を具現化する主人公を私は坊っちゃんのなかに観るのです。そうすると漱石は 「自己本位」から 「則天去私」 に移行したのではなく、その二つを同時に最初から胚胎していたと言ってよいと思います。
 漱石は歴史上の人物で、良寛さんが好きなんですが、これが 「則天去私」 を具現化する人物ですね。これは 「妨っちやん」 そのものです。漱石が虚子をどう見ていたかをあらわす手紙がありますので、それを紹介したいと思います。これは子規の後継者になると言えということを子規が虚子に強制しまして、それを虚子が嫌って、一時二人が非常に険悪になるんですね。その二人を取り持つ役割をして、漱石が子規に出した手紙です。
 ・・・色々の事情もあるべけれど先づ堪忍して今迄の如く御交際あり度と希望す小生の身分は固何時免職になるか辞職するか分らねど出来る丈は虚子の為にせんとて約束したる事なり当人も夫を承知で奮発して見様といひ放ちたるなり双方共別段の事故新たに出来ざる内は其積りで居らねばならぬと存候小生が余慶な事ながら虚子にか〜ることを申し出たるは虚子が前途の為なるは無論なれど同人の人物が大に松山的ならぬ淡白なる処、のんきなる処、気のきかぬ処、無気用なる点に有之候大兄の観察点は如何なるか知らねど先づ普通の人間よりは好き方なるべく左すれば左程愛想づかしをなさる〜にも及ぶまじきか…
  明治二十九年六月六日子規宛書簡・漱石
 漱石は虚子の中に 「拙にして聖」 なるものを見ていたのだと思います。漱石を語るとき子規との関係はよく言及されますが、虚子のことはほとんどふれられることはありません。漱石の人生における虚子の重大さについて、もう少し認識されてもいいように感じております。
 (注)みもとけいこ氏の 「愛したのは 『拙にして聖』なるもの」T漱石文学に秘められた男たちの確執の記憶−が、第二十回愛媛出版文化
賞第三部門(文学) を受賞した。