7月度 講演要旨(加地 和夫 氏 「桜井と一遍上人」)
 学生時代、筆者は中央公論社刊『日本の歴史(八)』の遍歴の僧団を読んだ。その中で一遍が弟子、聖戒と伊予桜井で別れ、遊行の旅に出たという記述を読みながら、いったい、その場所はどこだろうと素朴な疑問を持ち続けていた。その後、昭和六十年、筆者は『郷土史談』一二五号で「伊予・桜井における一遍上人」と度して、『一遍聖絵』の桜井の図にある一遍について、推論を展開してみた。
 そこでは一遍上人(一二三九〜一二八九年)が描かれている二つの場面について、その場所の比定を試みた。桜井の場面の上の図を頓田川、下の図を大川付近と推理してみた、だが、それから十九年、今なお、筆者自身にも他者の著書にも、確定した結論は出ていないようだ。
 同(文永)十一年甲戌二月八日、同行三人あひ具していで給ふ.竜一・超二・念仏房、此三人発因縁錐有奇特、恐繋略之。聖戒五六ケ日をくりたてまつりしに、同国桜井といふ所より、同生を花開の暁に期し、再会を終焉の夕にかぎりたてまつりていとまを申し侍りき。昔陳雷が膠漆のちぎりをむすぴし最後たがふことなかりき。いま師弟の現当の馳なす。本懐あにむなしからむや・臨終の時はかならずめぐりあふべしとて、名号かきたまひ、十念さづけなどし給ふ。
 何度読んでも、中国の故事を取り入れた秀麗な名文である。一遍は一二七四年(文永十一年)、三十六歳の時、三人を同行して遊行の旅に出た。二月八日、松山市か重信町にあった館を出発し、弟子で異母弟である聖戒(一二六一〜一三二三年)と五、六日共に過ごした後、桜井で再会を約して別れた。五、六日とあるから、二月の十三、十四日頃か。現在の三月の中旬頃であろう.
 桜井という地は現在、今治市に合併されているが、古代、越智郡十郷の一つで桜井郷といわれた。近代には桜井、旦、登畑、孫兵衛、国分、古国分、長沢、宮ケ崎の八大字によって編成された村.意外と広域にわたっている。
 『聖絵』の詞書では記述が少ないので、これ以上考察が進まない.桜井という地名は、一遍上人関係の基礎的文献では『塑絵』だけに出てくる名で、その他の代表的文献である『一遍上人語録』『遊行上人縁起絵』、『一遍上人行状』、『一遍上人年譜略』などには一切みられない。たとえば、『行状』には 「即去州」、『年譜略』には「覚世幻花。故辞故郷。」と簡略に記されているだけで、桜井という地名は見当たらない。
 『聖絵』は聖戒が執筆し、画家円伊が絵を描いた。その聖戒が開いたという京都の歓喜光寺や伊予の内子町・願成寺の縁起には、桜井という地名が見られる・歓喜光寺が蔵する『閉山弥阿上人行』には次のようにある。
 干時建治元年、一遍聖人化を東方に熾にし、群生を教導ありて、適洛陽に至り普く浄土の法門を弘め給ふ。・・・法乳の恩を報ひ給らん為にとて、影の形に随ひ響の声に応することく聖の側に陪侍して膝行臂歩すること十余年、聖人四国へ趣き給ひて化益日々に盛なり。聖成上人は予州桜井といふ所より暇を乞。同生を華開の暁に期し、再会を終焉の夕に契り奉るとありければ、聖人も臨終の時はかならず逢へしと、弥陀の名号を書て付嘱し、十念を授て別れ給ふ。(金井清光『一遍と時衆教団』所収)
 また、願成寺に残る『宮床山願成就寺往昔開闢縁起相続記』によると、次のようにある.
 同(文永)十一甲戌年ノ春当国ヲ出テ給フ時聖戒法師五、六日送り奉り。桜井卜云処ヨリ同生ヲ安養浄土ノ暁二期シ再会ヲ臨終ノタヘに契り奉リテ暇ヲ申シ今師弟現当ノ約豈虚シカラン哉.臨終ニハ必巡り逢フヘシトテ十念授ケ名号書テ給イシト。夫ヨリ聖成上人者喜多郡二皈リテ…吉祥院ニテ二年ノ送り給フ時二建治元乙亥秋ノ頃聖熊野神勅ヲ承ケ又本国二入り給フ時此精舎ニシテ三ケ月行化シ・・・.(『文化愛媛』三十三号所収)
 『弥阿行状』、『巌成寺縁起』にある建治元年は、西暦一二七五年に当たる.『聖絵』では、桜井の訣別は一二七四年、『弥阿行状』では建治元年から十余年後というから一遍が晩年、伊予を遊行した一二八八年頃か。『縁起』では建治元年の二年前というから一二七三年ということか。『聖絵』にある文永十一年説を忠実に信じるか、十余年後の訣別を逆戻らせたと解するかは、読者、識者に委せることにしたい。
 門外漢の考えからすると、超一、超二という妻子と一遍の三人連れと桜井まで同行したことと、現当の約とは一体のこととしたい。『里絵』に 「同行三人あひ具して」と明記されているし、晩年、一遍が伊予遊行の時、聖戒と桜井で訣別したとするなら、超一の信濃・小田切(臼田町) での踊り念仏の姿(『塑絵』)や近江・高宮寺(彦根) での超一の死(『時衆過去帳』)を否定しなくてはならない。なぜなら、超一は一遍の最後の伊予遊行の時、もう既に没しているのである.
 ただ、桜井訣別に、聖戒が隠れた演出効果を『聖絵』に持たせる意図があったにせよ、なかったにせよ、聖戒が十三歳の時か、二十八歳の頃にせよ、どちらにしても桜井まで、聖戒が一遍を送っていったことは間違いない様だ。史料を読んでいると、弟子・聖戒に関する書以外は、桜井の地名が見えない。これらから、室戒が一遍と深い関係にあることを示そうとした意図がうかがえる。また、それはおそらく、里戒を開祖とする六条派(時宗十二派の一つ)が時宗の傍流であったためでもあろう。
 目を絵図の部分に転じよう.『聖絵』には二つの場面が描かれている.
 上の図では、粗末な萱葺き屋根の庵室で、二人の僧が向かい合って座っている。土壁側が一遍、まいら戸側が聖戒である.再会を約し、十念を授けているのであろう。十念とは名号を十回唱えることをいう.縁には白い小袖を着た寺僧が控えている.伊予国分寺の従僧であろうか.庵室の屋根は破損が目立ち、当時流行した遁世の生活をよく現わしている。庵の右側には低い丘陵が迫り、その丘陵の上は良く手入れされた畠が見られる。左には間垣に囲まれた畠が拡がり、前には長河が流れている。
以前、『郷土史談』一二五号で筆者は、石中寺辺りと推理した.それは越智速故事『」遍−念仏の解人−』で、越智氏が石中寺や未詳寺に一義が妨ねた伝承があるとするからである.だが、地形的にみと、両者とも近くに蒼社川という長河はあるが、丘陵がなく、平坦な地である.これらから『聖絵』とは一致せず、適切とは思われない.
 『聖絵』の絵図の場面のように、川に丘陵が迫ってきている地形を、伊予国分寺の付近に見当たらないか筆者は探してみた.すると三ヵ所程見つかった.
A−上徳部落基地付近・・・頓田川が流れ、国分寺に近く、国分の丘陵があり、Aの東側には平野が広がっており、絵巻の感じに似ている。
B一宮ケ崎横付近・・丘陵にある八幡神社(宮ケ埼八幡神社)があるが、『室絵』にある畠のような平坦地がなく、神社は傾斜の急な地に建っている。また、八幡神社は斉明天皇が伊予朝倉へ行事の際、宇佐八幡宮を勧請されたという。写実性の高い『里絵』なら、小鳥居なり祠なり描いているであろうが、何も描いていない。
C−猿子川東岸・・・国分寺より遠く、中世の頃は海であったようだ。江戸時代、新田開発されるまで海岸は法華寺(現在の桜井小学校付近)やJRの鉄道の近くまであったという(片山才一杯著『金光山国分寺史』所収の「法華寺古図」参照)。
これから、A・B・CのうちAが『聖絵』の絵図に最も近いように思う。
 次に『聖絵』の桜井の図の下の図を見てみよう。下の図は、一遍一行を聖戒が悲涙にくれながら見送つている。一遍と聖戒の間には、屈曲した川が流れている。この川はその曲がり具合が、現地を流れている大川に似ている感じだ。右下に堂宇の屋根が見えているが、これを国分寺の一郭とすると、俯瞰的に感じが似ているし、近くに太政官道(南海道)も走っているし、辻葎があうのだが・・・.市史(今治)を編纂された渡辺久夫氏に尋ねると、古道(太政官道)である長沢−国民休暇村ルート(一九六号線)か、朝倉−周桑ルート(朝倉街道)の街道付近で別れたのではないか、とのことであった。
 推理を働かすと、男僧である一遍と聖戒が国分寺辺りで十念を授けたり、契りを結んでいる間、超一、超二たちは尼僧なので別行動をとり、国分尼寺(法華寺)辺りで修行生活していたのかもしれない.そんな訳で、『聖絵』の上の図に尼僧たち三人の姿が描かれていないのではなかろうか。
参考文載一覧
『一遍と時衆教団』 金井清光 角川書店
『日本常民生活絵引(二』 渋沢敬三 平凡社
『続群青類従・第九輯上』 塙保己一 続群完成会
『桜井の史跡と伝説』
『[一遍聖絵]の奥秘 上田雅一 『文化愛媛』三三号所収
『聖絵余話−桜井の訣別』 上田雅一 『一遍会報』二七三号所収
(注)インターネット会員には写真・地図を含めて講演内容を郵送致しました。