5月度 講演要旨(竹田 美喜 氏 「山部赤人と伊予温泉歌」)
一 はじめに
 「318田子の浦ゆうち出でて見ればま白にそ 富士の高嶺に雪は降りける」の歌で有名な山部赤人は、この後、伊予の地を訪れ伊予の温泉歌を詠んだ。それが『万葉集』巻三・322と323である。この歌は他の万葉歌にはない、歴史的な事実を詠み込むという特徴がある。現在、この歌碑を建立する気運が盛り上がっている。そこで、この歌の価値、歌碑を建立するに当たっての留意点などについて述べてみたい。
二 伊予温泉歌について
 「国々に数ある名湯の中でも格別優れた湯こと歴代の天皇が訪れた行幸処が伊予温泉でる。この栄誉ある温泉は、永く神々しく栄えことであろう」と赤人は伊予温泉を讃えた。『万葉集』中唯一の温泉誉め歌である。自然を詠むのに優れた叙景歌人・赤人だが、その評に違わず、伊佐爾波の岡の麓にある伊予温泉の光景を見事に詠み上げた。さらに、赤人は他の万葉歌にはない技巧を使った。それが、歌中のB〜Dである。
 「伊予の温泉には五度の行幸があった」 と記すのは『伊予国風土記』逸文である。歌中のB〜Dはその行幸の歴史のうち第三回から第五回の行幸に重なる。Bは推古四年(五九六)聖穂太子の行啓、Cは舒明十一年(六三九)舒明天皇と皇后(斉明天皇)行幸、Dは斉明七年(六六一)斉明天皇行幸(百済救援途次・額田王熱田津歌)。赤人は、『伊予国風土記』や原本『万葉集』 T〜814の歌まで) の各行幸の逸話を叙景の中にさりげなく詠み込んだ。そこには、伊予の国に対する赤人の並々ならぬ思い入れが見られるのだ。
山部宿禰赤人、伊予の温泉に至りて作る歌一首 併せて短歌
322 皇祖神の神の命の敷きいます国のことごと 湯はしもさはにあれども島山の宜しき国と こごしかも伊予の高嶺のBC射狭庭の岡に立たしてC歌思ひ B辞思うほしし み湯の上の木群を見れば C臣の木も生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の声も変はらず遠き代に神さび行かむ 行幸処
 反歌
323ももしきの大宮人のD熟田津に船乗りしけむ年の知らなく
 B聖徳太子が伊予温泉を「寿国」(不老不死の神仙境)だと詠まれた漢詩(温泉賦)の碑が伊佐爾波の岡に建ったこと、C舒明天皇が伊佐爾波の岡の臣の木と椹の木の小鳥たちを祀り、歌を詠まれたこと、D額田王の 「熟田津」歌に、勇気を奮い立てて出港していった百済救援軍への鎮魂の思い、等を赤人は『伊予国風土記』と原本『万葉集』に拠って詠み込んでいる。
さて、この温泉歌の価値を考えると次のようになろうか。a『万葉集』中唯一の温泉誉め歌(「土地誉め歌」の一種) b伊予温泉行幸の歴史の記載 C伊佐爾波の岡に建てたと言われる聖徳太子の伊予温泉賦碑(漢詩「温泉賦」 の一種) に並ぶ伊予温泉誉め歌 d額田王の「熱田津」歌に対して、赤人が贈った鎮魂の返歌 e『伊予国風土記』編纂時期の推定 f赤人の伊予温泉来浴時の推定 eとfは関連している。赤人は下級官人で履歴は全くわからない。歌人としての名声があがり、聖武天皇の宮廷歌人となった。伊予温泉歌は、赤人の名を知らしめた一首で、聖武即位以前・七二四年までの作と考えられる。
 また、赤人の後ろ盾となったのは、時の実力者長屋王を中心とするいわゆる長屋王文学サロンだったようだ。メンバーは、大伴旅人・山上憶良・阿倍広庭などの重臣たちであった。広庭は『風土記』編纂命令当時(七一三年)、伊予の国守であった。『伊予国風土記』を編纂した責任者は広庭だったのだ。
さて、この温泉歌の価値を考えると次のようになろうか。a『万葉集』中唯一の温泉誉め歌(「土地誉め歌」の一種) b伊予温泉行幸の歴史の記載 C伊佐爾波の岡に建てたと言われる聖徳太子の伊予温泉賦碑(漢詩「温泉賦」 の一種) に並ぶ伊予温泉誉め歌 d額田王の「熱田津」歌に対して、赤人が贈った鎮魂の返歌 e『伊予国風土記』編纂時期の推定 f赤人の伊予温泉来浴時の推定 eとfは関連している。赤人は下級官人で履歴は全くわからない。歌人としての名声があがり、聖武天皇の宮廷歌人となった。伊予温泉歌は、赤人の名を知らしめた一首で、聖武即位以前・七二四年までの作と考えられる。
 また、赤人の後ろ盾となったのは、時の実力者長屋王を中心とするいわゆる長屋王文学サロンだったようだ。メンバーは、大伴旅人・山上憶良・阿倍広庭などの重臣たちであった。広庭は『風土記』編纂命令当時(七一三年)、伊予の国守であった。『伊予国風土記』を編纂した責任者は広庭だったのだ。
翌年広庭が帰京する時、完成した『伊予国風土記』も平城京に上った。下級官人・赤人が貴重な『伊予国風土記』を見ることが出来た幸運は、ひとえに長屋王文学サロンを介しての広庭との遭遇にあったであろう。
 実は、山部赤人の姓は、伊予国久米郡の久米部小楯が「山部」姓を賜ったことに由来する。この話は『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』に詳しく、万葉人広く知るところであった。当時、赤人のルーツが伊予の国にあることは周知の事実であったのだ。「伊予国」が広庭と赤人の二人を結びつけたのである。赤人は『伊予国風土記』の予備知識を持って伊予を訪ねた。
以上のことを類推させるのがこの伊予温泉歌である。この歌からe『伊予国風土記』編纂期は七一四年(愛媛県史では七四〇年ころまでとする)、−赤人の来浴は七一四〜七二四年と推定することができよう。
三 歌碑を建立するには
昭和四十二年十一月二十三日松山市御幸町護国神社で「熱田津」歌碑落成の式典がおこなわれた。前年の歌碑建立発起以来、愛媛県民をあげての熱意が実った日であった。参列者は千余名。その時の祝歌に建立の心意気を知ることが出来る。
大いなる石現れぬいつくしく
     伊予の青石今現れぬ 佐伯 秀雄
熟田津の位置の詮議はさもあればあれ
     にきたつの歌は永久に芳し 大野 静
誰の名も刻みてあらず紅葉映ゆる
     この碑は床しかりけり 中西万智子
 本碑は石鎚山系で尋ね当てた青石。白い筋が潮の流れを思わせて斜めに流れる。中に四角の庵治石をはめ、元暦校本の藤原行成筆「熱田津」歌のみ刻む。「熱田津」歌の最も古い筆である。副碑には「熱田津」歌の由来と解釈。望みうる限り最高の歌碑であった。そのどこにも個人の名は記されていない。無名の碑である。これこそ伊予人の心意気であろう。全国にある万葉歌碑の中でも最もすばらしい歌碑が建立されたのである。思うに、赤人の伊予温泉歌碑はこの「熱田津」歌碑に匹敵する心のこもった最高の歌碑にしなければなるまい。「熱田津」歌碑を建てた先人の志を継いだ歌碑を建てることが私たちに課せられているのではあるまいか。