|
(T)題名『坂の上の雲』の由来 |
ともかくも近代国家をつくりあげようというのがもともと維新成立の大目的であつたし、維新後の新国民たちの少年のような希望であつた。(中略) その町工場のように小さい国家のなかで、部分部分の義務と権能を持たされたスタッフたちは処置が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかつた。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。 |
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼつてゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみみつめて坂をのぼつてゆくであろう。(司馬遼太郎著 『坂の上の雲』一の 「あとがき」 より) |
(2)子規・好古・真之の共通性 |
明治というこのオプティミズムの時代にもっとも適合した資質をもっていたのは子規であつたかもしれない。私は「子規居士」 という名をきくだけでも言いようのない痛々しさといとおしみをおぼえるのだが、このひそかな私の感情は、子規においてときに突きとばされるような感動をおぼえるその底ぬけの明るさや稚気と表裏をなしているようにおもえる この子規の気分が子規だけでなく明治三十年代までつづくこの時代の気分であるようであり、その気分は好古にも真之にも通いあい、調べていてときに同一人物ではないかと錯覚する瞬間がある。時代のふしぎさというものであろう。l |
(3)愛媛の心の風土性 |
@聖徳太子湯岡碑文−法興六 (推古四・五九六) 年、聖徳太子、高麗僧恵聡及び葛城臣ともに伊予の道後に遊び、道後温泉の妙験を称えて碑文を作る。(『伊予風土記』逸文) 日月は上に照りて私せず、神の井は下に出でて給へずといふことなし。万機ゆえに妙に応たり、百姓はゆえに潜く扇ぐ。 |
(口語訳)太陽や月は、天上にあつてえこひいきなく平等に照らし、温泉は地下からわき出して、すべての人々に公平に供給されている。このように伊予の国では、平等の政治が行われているので、人民たちは心の底から感動しているのである。 |
A一遍上人(一二三九〜八九)の思想 |
怨親平等−大慈大悲の精神から、自分を害する怨敵も憎むべきではなく、自分を愛する親しい者にも執着してはならず、平等にこれらを愛憐する心をもつべきことをいう。日本では一般に、戦いによる敵味方をとわず、一切の犠牲者を供養し救済しするなど、平等に応じる意味に使われる。一遍上人は、蒙古襲来の際の犠牲者を、敵味方の区別なく供養した。 |
平等についてT水が水をのみ、火が火を焼くごとく、松は松、竹は竹、その体おのれなりに生死無きをいふなり。 (口語訳)水が水に呑まれ、火が火に焼かれるように、そのもの自体に自然に備わつた性質に従って、松は松なりに、は竹なりに、あるがままに生き死にを超えた(わたくし心のない)あり方をいうのである。 |
(4)司馬遼太郎が小説『坂の上の雲』 で描いた松山(人)の風土性 |
@松山城下の風景と里謡−のびやかでおおらかな風景と人情 |
A父秋山久敬、師範学校の件を好古に告げざる事−不私の心 |
B子規・真之、子規庵で 「かきがら論」 の事−権威を恐れぬ平等心 |
C好古、真之に不私の心で国難に当たるよう諭す。真之作戦に苦慮するの事。 |
D真之の挙動、加藤参謀長に不快感をもたれる事および自分の戦功より戦争の悲劇を嘆く事。 |
E真之、降伏艦隊への軍使となり、敵兵を心服させる事−怨親平等の心 |
Fロシア兵、好古に恐れをなし、マツヤマ行きを懇願するの事−怨親平等の心 |
G好古・乃木比較の事−不私の心 |
H真之、平服で子規を弔う事−功績を私せぬ平等心 |
(5)照葉樹林文化の知恵 |
『古事記』の神話−次に伊予之二名島を生みき。此の島は、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国は愛比売と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宜都比売と謂ひ、土左国は建依別と謂ふ。 |
○ 「讃岐男と阿波女」 |
○司馬遼太郎『街道をゆく』 「南伊予・西土佐の道」 より。 「お道を」 (旅の平安を祈る別れの言葉)(愛媛・松野町)→「たまるか!そんなに飛ばして」 (西土佐の交通安全看板) |
○大宜都比売神話−体の穴からおいしい食物を作り出す女性。誤解されて殺されると、死体の目や耳などが種となって、様々の穀物が実るようになつた。 (照葉樹林文化圏の神話・死体化生神話) |
○兄媛と弟媛(えひめとおとひめ)I義務と権利の分離↓平等による平和維持(照葉樹林文化圏) 兄媛(長女)I一族の兄弟柿妹が独り立ちするまで、教育・生活の世話一切をする。 弟姫が結婚すると任務を終えて家を出る。 弟媛(未娘)−次世代を継ぐ。 |
・司馬遼太郎 『ひとびとの楚音』 より、子規の妹律のエピソード。 |
律がひとに縁談を世話した。娘のほうの親がその良縁であることによろこび、菓子折かなにか持ってきた。律は菓子折をみて腹をたて、くやしさのあまり、ぽろぽろと涙をこぼした。私は物を貰うために縁談を世話したのではありません。 |
律にすれば、物を貰ったということが、すでに事件であつた。まごころで世話したわけで、相手がまごころでそれに応えてくれればいいということであり、それが物で表現されるということがどうにも解せず、人を馬鹿にしている、と言いつづけた。 |
(6)平等不私の愛媛人 |
○佐伯 矩(さえきただす・一八七六〜一九五九)栄養学の創始者。全人類が健康に生きるための栄養食の研究。 実験の成果を弟子たちの功績にする。 |
○穂積陳重(ほづみのぶしげ・一八五五〜一九二六)わが国法律学の祖。大津事件では、憲法擁護の児島惟謙を支持。 「銅像になつて仰がれるより、橋になって人に踏まれたい。」 |