末法思想    3月度講演(小沼 大八) 要旨
1.末法思想は仏教がもつひとつの時間論、歴史哲学であるといってよい。その萌芽はグプタ朝の滅亡を踏まえて、「大集経」月蔵分の五箇五百年説に初めてみられる。けれども、この思想はインドではあまり具体化せず、中国に至って大きく発展した.南岳慧思く515〜77)の果たした役割が大きい。
2.末法思想は釈尊入滅以後、時と共に仏法は衰滅してゆくという時間論に基づく。浄土教の興隆に大きな役割を果した。
釈尊
正法五百年
像法千年
末法一万年
無仏五十六億七千万年
弥勒下生
入滅
  
  
  
  
  
  
教・行・証
教・行
仏法衰滅
正法
3・釈尊の生没
 アシショーカ王の石柱と碑文の発見により生没年が確定一B.C.463〜383
 中国仏教は「周書異記」に基づき、仏滅を周穆王五十二壬申(B.C.949)とみなした。これによれば、末法元年は中国では南北朝末期(Å.D.552)、日本では平安後期・永承七年(1052)となる.(中国とは異なり、日本は、、千年説に立つ)。
4.時間をどう捉えるか、末法思想に対する二つの態度・・・道元と法然
5.末法思想はひとぴとに、凡夫の自覚と凡夫救済への新たな回路を開いた。
 ・聖道門 一 浄土門(難行一易行.→自力→他力.成仏→往生)
 ・かかる教説を説く経典に浄土三部経(大無量寿経。観無量寿経。阿弥陀経)がある。
6.浄土教思想の意義.仏教は専念の歳月を経て、ようやく庶民(凡夫)救済のレベルに達した。(浄土教思想は解放の神学である)。
(資料)
1.凡夫の自覚
イ.自身は現に是れ罪悪生死の凡夫にして、噴劫より己来、常に没し、常に流転して、出離の縁有ることなし。(善導「観経疏」)。
ロ.誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、聚定の数に入ることを喜はず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(親鸞「教行信証・信巻」)。
ハ.念仏の機に三品あり。上根は妻子を帯し家に在りながら、着せずして往生す.中根は妻子を棄つるといえども、住処と衣食とを帯して、着せずして往生す。下根は万事を捨棄して往生す.我らは下根の者なれば、一切を捨てずば定めて臨終に諸事に着して往生し損ずべきなりと思う故に、かくの如く行ずるなり.よくよく心に思量すべし。く一遍「法語集」
2.時と棲
イ。もし教、時機に赴けば、修し易く悟り易し。もし機と教と時と牽けば、修し難く入り難し。大集経に云く、「わが末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、いまだ一人も得る者あらじ」と。当今は末法にして車濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通人すべき路なり(遁辞「安楽集」)。
3.凡夫救済
イ.第十八・念仏往生ノ験「モシ我レ仏ヲ得タランニ、十方ノ衆生、至心二信楽シテ、我ガ国二生ゼント欲シテ、乃至十念、モシ生ゼズンバ正覚ヲ取ラジ」(大無量寿経)。
ロ.自身はこれ煩悩具足せる凡夫也との給えり.十方に浄土多けれど西方を願うは、十五逆の衆生の生まるる故也.諸仏のなかに弥陀に帰したてまつるは、一念五念にいたるまで、みづから来迎し給う故也.諸行のなかに念仏を用いるは彼の仏の本願なる故也.いま弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成ぜずという事あるべからず.
 本顛に乗ずる事は信心の深きによるべし.受けがたき人身を受けて、遇いがたき本額に適いて、発しがたき道心を発して、離れがたき輪廻の里を離れて、生まれがたき浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり.罪は十悪五逆の者も、生ずと信じて、少罪をも犯さじと思うべし.罪人猶生まる.いわんや善人をや(法然「一紙小消息」).
ハ.夫れ、念仏の行者用心のこと、示すべき由承り侯。南無阿弥陀仏と申す外さらに用心もなく、この外にまた示すべき安心もなし。諸々の智者たちの様々に立てをかるる法要どもの侍るも、みな諸惑に対したる仮初めの要文なり。されば念仏の行者は、かようの事をも打ち捨てて念仏すべし。むかし、空也上人へある人、念仏はいかに申すべきやと同いければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられず。これ誠に金言なり。念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本廣には叶い侯へ。かように打ちあげ打ちあげ唄うすいま、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず。厭うべからず。よろず生きとし生けるもの、山川草木、吹く風、立つ浪の音までも、念仏ならずということなし。人ばかり超世の厳に預かるにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく侯わば、意得にくきに任せて、愚老が申す事をも打ち捨て、本願に任せて念仏し給うべし。念仏は安心して申すも、安 心せずして申すも、他力超世の本願にたがう事なし。弥陀の本厳には欠けたる事もなく、余れる事もなし.この外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚かなる者の心に立ち返りて念仏し給うべし。南無阿弥陀仏。(興願僧都宛ての消息文)。
4.仏教における民衆救済の基本図式

出家者
修行
覚者
(ブッダ)
 
 
 
発心
 
供養
 
 
 
 
 
一般民衆
功徳
 
(在家)
 
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