五、 善妙寺 唐の女性にちなみ?建立
鎌倉時代の僧、明恵(みょうえ)上人が残した「華厳宗祖師絵伝(けごんしゅうそしえでん)」は、新羅(しらぎ)僧・義湘(ぎしょう)らの求法の物語である。唐に渡って修行した義湘は、唐の女性・善妙(ぜんみょう)に思いを寄せられたが、惑わされることはなかった。 善妙は修行を邪魔した自らを恥じ、仏門に帰依。義湘が唐をたった後、海に身を投げて竜神と化し、新羅までの道を守り続けたという。 よほど、この善妙に感心したのか。明恵上人は自らが住した京都・高山寺の傍らに「善妙寺」という名の尼寺を建てた。
◆絵伝は善妙の発心の物語 華厳宗祖師絵伝について、奈良国立博物館の西山厚・資料管理研究室長は「義湘の物語というよりむしろ、善妙の発心の物語といってよいかもしれない」と指摘し、自ら詞書を作った明恵上人には「善妙への愛のこもったまなざし」があるという。 平安末期の戦乱の中で生まれた明恵上人は9歳で京都・高尾山神護寺に入寺し、東大寺や建仁寺にも学んだ高僧。34歳で後鳥羽院から栂尾(とがのお)・高山寺を与えられた。 山中に身を置いて一心に修行に励む一方で、多くの女人を救済したことでも知られる。承久の乱(1221年)で夫を亡くした未亡人のために尼寺・善妙寺を建てた。また、平清盛の娘・建礼門院に受戒を与えたのも明恵上人だった。 京都・高山寺の尼僧、小川千恵住職も西山室長に同感していた。 「明恵上人の死後、上人を慕っていた女性出家たちが、寺のそばを流れる清滝川に身を投げてあとを追ったといいます。華厳宗祖師絵伝にある義湘と善妙の話は、美僧で知られながら、女性に心を惑わされることのなかった明恵上人自身にも、身近に感じられたのではないのでしょうか」 紅葉のシーズンには多くの参拝客でにぎわう高山寺だが、山中で春の訪れを待つ今の時期は静かだ。ただ、明恵上人が学問所として利用した「石水院」(国宝)に大学教授ら数人が訪れ、文書調査を続けていた。小川住職は毎朝午前五時半に起き、この学究の徒らのために、自ら朝ごはんを用意している。 石水院には明恵上人が日課や学問所内での決め事を板に書きつけた訓戒「あるべきやうわ」が残る。明恵上人は「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)とい云ふ七文字をもつべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり」と説いている。 小川住職のあるべき様は「健康を保つこと。周りに迷惑をかけないように」という。この名刹に塵ひとつ落とさず、訪れる者を心からもてなすためにはまず、健康であることが重要なのだ。 奈良国立博物館の特別展「女性と仏教」には約190件の仏教美術が並ぶ。西山室長は「仏教が女性をどうみたかではなく、女性が仏教をどうみたかを展観で伝えたい」と話した。 仏教に救いを求めた女性たちの百九十通りの話は、現代に生きる人々を男女を問わず、救ってくれるに違いない。 文 石井奈緒美
写真左上/女人救済に尽力した明恵上人が学問所としていた石水院。求法の旅を続けた「善財(ぜんざい)童子」の像が、遠くの山々を見ていた=京都市の高山寺 写真右下/善妙は竜となって愛する義湘の船を守った(国宝・華厳宗祖師絵伝) 写真 岡本 義彦 (2003/03/28) |